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11 無力感

 合宿終わりの火曜日、やや気だるさを感じつつ学校に行った俺は担任の先生によって職員室に呼び出された。どうやら月曜日の無断欠席をとがめられてしまうらしい。正直、元ひきこもりの人間にとって教員ばかりの職員室に行くのはちょっと怖かった。

 パワハラまがいの説教が待ち受けているのではないかと恐縮しながら職員室へと顔を覗かせると、担任の先生が笑顔で俺のことを手招きして呼んでいた。

 おかしい。先生の和やかな顔つきを見る限り、無断で学校をサボった俺のことを怒っているようではない。

 当時の俺はといえば、高校教師とは生徒に対して無駄に厳しくて怖い連中だとばかり思い込んでいたから、その穏やかな反応が意外でならなかった。


「まぁ、お前のことは心配しちゃいない。授業態度も真面目だし、大丈夫だよな?」


 よくよく先生の話を聞いてみると、連絡もせずに欠席をしたことを怒っていたのではなく、普通に俺のことを心配してくれていたらしい。なんたる善人か。どこから聞いたのか、中学生のころ不登校だった時期があったことを知っていたらしく、その再発を懸念してくれていたようだった。

 そんなつもりじゃなかったので、心配をかけてしまった俺は誠心誠意で謝った。それだけではおさまらず、先生の机の上にあった空っぽの湯飲みに、これまた机の上にあった急須のお茶を注ぎ込んで差し出した。ついでに隣の席にあった茶菓子を奪い取って困惑する先生に提供した。

 すると何故か職員室に失笑が満ちたと思う。緊張も収まってきたので俺も愛想笑いをしておいた。

 しばし談笑して、頃合いを見計らったらしい先生は急に真面目な顔を見せた。


「で、少し話は変わるんだが。……お前さ、四組の中道と仲がいいって本当か?」


「ええと、そうですね。もっと仲がよくなりたいのは本当です。現状に満足しているというわけではありませんから」


「……まぁ、とりあえず仲がいいとして」


 俺の答えを聞いた先生は何故か悩ましそうに頭を抱えていたので、ちょっと申し訳なくなった俺は静かに耳を傾けることにした。


「彼女は最近学校を休みがちらしい。数人の生徒に話を聞いたところ、お前が一番親しいそうじゃないか。できれば気を遣ってやってくれないか?」


「あ、はい」


 エミさんのことなら俺に任せてください!

 そんな気概で俺は豪快に腕まくりして見せた。

 まぁ、先生は普通に笑っていたけど、本気で俺は力になろうと思っていた。

 ところがその日、エミさんは学校に来ていなかったらしい。困ったことに、当然ながら携帯を確認しても俺宛ての連絡はない。風邪を引いたのでもない限り、今日もバンドの活動につき合わされているのだろう。

 なんとかしたかったが、どうしようもない。心配して俺から彼女に連絡をしようにも、残念なことに俺は飛び切りのシャイなのだ。極度の恥ずかしさと緊張で、実はこのときまで一度も自分から彼女にメールを送ったことがなかった。

 仕方がないので、放課後になると俺は真っ直ぐに部室へ向かった。急がば回れ、むしろ休め。そんな落ち着いた気持ちになって冷静さを取り戻すと、何かいい解決策でも浮かぶような気がして我ながら天才だと思った。

 まったくの気のせいだったけど。

 部室ではすでに先輩がパソコンを使って新聞の編集作業をやっていた。なにやら忙しそうだったので、お辞儀だけして俺も自分の仕事を始めることにした。

 それからなんだかんだと雑用をこなしていると、不意に先輩と目があった。

 ついでだから、ここで男女の……いや、部員同士の親睦を深めようと、俺は先輩に話しかけた。


「ところで、先輩って友達いるんですか?」


「ちょっとちょっと、馬鹿にしないで? 私にもタカちゃんとか友達はたくさんいるし!」


「へー、俺に紹介してくださいよ。……じゃなくて、先輩っていつも一人でいるところしか見ないので不思議だったんですよね」


「私がいつも一人でいるって、それは部活のときだけの話だよね。だから私にもやっと後輩ができて嬉しかったっていうのに……。お前は私の期待を裏切った自覚がある?」


「すみません。色々と落ち着いたら、ちゃんと先輩の相手をしますから……」


「寂しくないよ、うるさいよ!」


 冷たくそう言った先輩は、やっぱり少しだけ不服そうだった。

 それが何に対してなのか、その時の俺には確かめられなかったけれど。







 さらに数日後のことだ。昼休みになると、エミさんが俺のところにやって来た。

 こうして彼女と顔を合わせるのは、なんと合宿以来のことだ。


「というわけで、君も来てくれないかなぁ……」


「ええと……」


 このとき彼女が語ったことを手短にまとめて簡単に説明すると、エミさんはバンドメンバーの菅井さんから呼び出しを受けていたらしい。どうやら彼女は一人きりで菅井さんと会うのは不安のようで、こうして俺のことを頼ってきたようだった。

 だが頼られた俺としても、彼女と一緒に二人で菅井さんと会うのは怖かった。菅井さんといえばメンバーの中で一番体つきがいいのだ。手を出されたら軟弱な俺なんか即死ねる。


「お願いだよ、一緒に来てほしいの。会話に入りたくないんだったら、君は離れたところで見てくれているだけでいいから。だって菅井さんと二人きりで会うのって、今はちょっと気まずくて」


「でもどうして俺と? お兄さんとか岸村さんは?」


「だってね、菅井さんから他のメンバーには秘密で来てくれって言われちゃったんだもん。でも君は正式なバンドメンバーじゃないでしょ? だから言っても大丈夫だと思って」


「そ、それはどうなんだろう?」


 それってつまり、メンバーに秘密で来てくれと言った菅井さんにしてみれば、エミさんには一人きりで会いに来てほしいってことなのでは?

 などと俺は思わなくもなかったが、その話が本当なら、経緯はともかく彼女は菅井さんと二人きりで会う約束をしてしまったということだ。

 彼女に恋した男として、それは心配である。


「でもだって、だってだってさ、最近ちょっとぎくしゃくしていたのにね、突然大事な話があるって呼び出されちゃったら不思議な緊張というか、何か漠然とした不安というのかな。菅井さんはバンド続けてくれそうな感じもあるから、断るのもあれだなぁって」


「うーん、確かにそうかも。でも二人きりで会うのはちょっと不安だね。ここ数年の世界経済よりも先行き不透明だよ」


「じゃ、じゃあ?」


「うん、俺も一緒に行く」


 というわけで、不安に思った俺はエミさんについていくことにしたのだった。元引きこもりで軟弱者の俺なんか頼りない戦力だろうけれど、それでも彼女は笑ってくれた。

 おそらく俺のことを信頼して笑ってくれたんだろう。

 正直、同行することを喜んでくれた彼女の反応はとても嬉しかった。菅井さんに会いに行くのは怖いからと言って逃げ出さなくて良かったと、本気でそう思った。

 虫すらも怖がって殺すことのできないほどに非力すぎる俺なんか、どうあがいたって彼女の力になれるわけがないというのに。







 菅井さんがエミさんと待ち合わせの約束をしていたのは、すっかり寂れて人通りの少なくなっていた路地裏だった。どこか見覚えのある場所だなぁと思ったらそれもそのはず、俺が初めてエミさんと出会った場所である。彼女がそう思っているかはともかく、俺にとっては感慨深い思い出の場所だ。

 二人で足を運んでみると、薄汚れて古ぼけたシャッターに寄りかかり、苛立ちを隠さずに腕を組んでいる菅井さんの姿があった。


「やっと来たか。ずいぶん待たされたぜ」


「ごめん、遅くなっちゃって。……それで、私に用事って?」


「その前にエミ、そいつは? 確か俺は、お前に一人で来いって言ったはずだが」


 そのとき、いかにも不愉快そうに眉をひそめた菅井さんの鋭い目が怪しく輝き、真っ直ぐに俺の眉間を射抜いた。わざわざ考えるまでもなく、もう完全に邪魔者扱いされていた。切り立った崖から突き落とされかかったかのように、威圧感だけで俺は恐怖心に捕らわれて足がすくんだ。

 ところがエミさんは飄々(ひょうひょう)としたもので、大げさに肩をすくめて首を横に振る。


「言ってないよ、そんなこと。別に彼が一緒でもいいでしょう? けれど、話の邪魔になるっていうなら少しの間だけ下がってもらっても……いいかな?」


 そこでエミさんが申し訳なさそうに俺のことを振り返って、おずおずと尋ねてきた。本当に大事な話だったら悪いので、俺は言葉で答える前にうなずいて、彼女たちの話の邪魔にならないよう適度に下がっておくことにした。

 距離にして二人から約十メートル。気を遣って小声で会話されると、その内容までは聞き取れなかった。

 だから俺は自分からは口出しをせず、静かに遠くから二人の会話を見守ることにした。どうせ何も出来ないだろうけど、それこそ監視役のつもりで俺は誇らしげに立っていた。

 いくら仏頂面で強引な印象のある菅井さんといえど、近くに俺がいる状況で彼女に手を出すとも思えない。第三者がいる前で少女に暴力を振るう馬鹿な男など、そうそういない。話の内容によっては口論じみることもあるだろうが、それまでは前のめりになって警戒する必要もないだろう。

 ひとまず冷静になって視線を二人からそらしてみると、いわゆる閑静な住宅地であるのか、俺たちの周りには相変わらず人の気配が全く感じられなかった。

 こんな人目のないところに彼女を一人で向かわせなくて良かったと、このときばかりは本当に安心したものだ。それはもちろん、感情的になった場合の菅井さんから彼女が何をされるかわかったもんじゃないからだ。

 でも大丈夫さ、ここには俺がいる。

 そんな風に思って、とにかく俺は安心していたのである。


「はっきりしろよ!」


「いや、ちょっと!」


 なので、そんな声が聞こえてきたときの俺は驚きで心臓が止まりそうになった。

 慌てて自分の胸元に右手を当て、その鼓動が続いているかどうかを確認した。よし大丈夫、俺は生きている。馬鹿げた安堵はするものの不安は続き、いつの間にやらけんか腰になっていた二人の姿を俺は緊張の面持ちで眺めた。

 息を荒げた菅井さんが向かい合うエミさんを閉じたシャッターに押し付けるように追い詰めており、その両肩をきつく握り締めていた。菅井さんによって力ずくで押さえつけられているエミさんは怯えている。


「大体、お前はっ!」


「や、やめっ!」


 その後も激しく言い寄る菅井さんは、嫌がり逃げるように顔をそむけるエミさんに顔を近づけていく。なんとかしようと必死に抵抗を試みる彼女。それでも止まらない菅井。

 いったい彼が何をしようとしているのか、その瞬間にわかった。

 このまま唇が近づくのでは……。

 そう思われたその時、とっさに伸ばしたエミさんの手が菅井の口をふさいだ。彼女は身をよじったまま、暴挙に出ようとする彼を押し返すように力を込める。

 だけど力の差は歴然だ。すぐにエミさんの細い腕は菅井によって引きはがされた。


 ――このときの俺は、バカみたいに呆然と見ているだけだった。


 いや、そんなわけがない。

 どうしても足が震えて動かなかったけれど、愛する彼女のためだ。もつれる足を無視して、俺は這いつくばる思いで二人の間に割って入るべく駆け出した。

 たった十メートルほどの短い距離。だけど焦燥感に駆られた俺には何百メートルにも遠く感じられた。

 なおも奪われそうになる彼女の唇。

 それは一方的で強引な口付け。

 ずっしりと体重をかけるように身体全体を押し付けられ、ガシャンと勢いよくぶつかった彼女の背後で古ぼけたシャッターが大きくきしみ、耳を突く不快な鋭い音を遠くまで響かせる。

 影が重なる二人の呼吸は止まり、周囲を流れていたはずの時間も止まったように感じられたが、その光景を見せ付けられた俺は背後から菅井に飛び掛かって、強引な力でエミさんから引きはがした。

 エミさんは先ほどとは逆の腕を使って自分の口をふさいでおり、かろうじて口が触れる直前で一方的なキスを逃れていた。それを知る菅井は諦めることなく、もう一度襲い掛かろうとした。

 だがそこには俺がいた。頼りなくても俺が立ちはだかった。


「なにやってるんですか!」


「うるせえ!」


 振り向きざま、無防備だった俺は腹に膝蹴りを食らって膝をついた。急な吐き気に顔を上げることなどできない。その俺に頭上から声が降りかかってくる。


「まだやるか、おい!」


 続けて脇腹に強烈な横蹴りが加えられる。息ができず、視界が歪む。

 こうなっては声を出すことも難しく、俺はうずくまったまま動けなくなった。


「ちょっと、やめて!」


 ここで止めに入ったのはエミさんだ。


「ああ、やめてやる! こんな奴はどうでもいい!」


 最後の一撃とばかりに力いっぱい上から踏みつけられて、四つん這いになっていた俺はたたきつけられるように地面へと腹ばいになった。

 一方の菅井は振り返ると即座に彼女の襟ぐりをつかみ上げて、そのままシャッターに押し付けた。再び大きな音が響き渡る。胸倉をつかんだまま彼女を持ち上げるようにして、つま先立ちになった彼女は苦悶の表情でなされるがままだ。

 エミさんは自分の身体を束縛する屈強な菅井の腕に両手をかけるものの、その程度で菅井の力が弱まることはなく、いつまでたっても脱することができない。蹴りつけるように足を振り回しても、菅井は微動だにしなかった。

 これは一体どうしたことだ。どうしてこんなことになっているんだ。

 とにかく俺は今にも叫びだしたかった。彼女を傷つけようとする菅井を殴り飛ばしたかった。

 なのに情けない。ああそうだ本当に情けない。現実の俺は苦痛のあまり立ち上がれなかった。

 振り返ってみれば、俺は中学のころはほとんど引きこもりで、ろくに友達もいない孤独で弱い人間だったのだ。そんな甲斐性なしで無力の俺が、こんな状況で彼女のために何かできると?

 大学生の菅井に一人で太刀打ちできると?

 いや無理だ。俺なんかには何もできやしない。できるわけがない。

 俺は自分に向かって何度もそう言い聞かせては、現実から目をそらそうと必死だった。


「……ん、んん!」


 ところが、彼女の苦しみもがく嗚咽は現実逃避しつつあった俺の硬直を解いた。

 はっとして顔を上げて見てみると、苦痛を耐え忍ぶように固く閉ざされた彼女の目からは、細長く頬を伝う涙がこぼれていた。

 そのときエミさんが表情のうちに見せたものは、どこかの誰かに対する悪意でもなく、ただひたすらに己に向かって収束する負の感情だった。悲しみと悔しさと、なにより絶望に塗りつぶされていた。


「俺のところに来い、エミ。もうあいつらのことは忘れろ」


 引くことを知らぬ菅井はなおもエミさんに迫った。

 このとき、不思議と菅井の姿からは狂おしいまでの愛欲が感じられた。


「い、いや……! ごめんなさい、だけど……!」


 彼女は首を横に振り続ける。一生懸命に抵抗を試みながら、必死に拒絶し続けていた。けれど男女では力の差があるのか、腕力のある彼の拘束から逃れることはかなわない。彼女は菅井に捕らえられていた。

 そんな時、俺はエミさんと目があった。

 その彼女の瞳の中に、かすかだけど、はっきりと優しさの光を見たのだ。

 彼女は俺に対して助けを求めたわけでも、その場から動き出せずにいることを非難するわけでもなく、恐ろしいほど純粋に善意の輝きを瞳に宿していたのである。

 ああ、俺にはわかる。ちゃんと彼女の言わんとすることがわかる。

 いや、優しい彼女の目を見れば、このときの俺でなくとも、おそらく誰にだってわかることだろう。

 彼女は俺に向かって謝っていたんだ。


 ――こんなことに巻き込んでごめんね、ここから無事に逃げ出してね。


 そんな風に俺のことを心配してくれていたのだ。


「く、くそ……!」


 俺はこぶしを握り締めた。強く歯を食いしばった。そして立ち上がると右足を大きく前に踏み出した。

 逃げるためではない。今すぐにでも菅井を止めるために奮い立つ。

 当たり前だ。ここで彼女を助けるべく動かずして、俺は二度と彼女の前に顔を出すことなど出来ないのだから。このまま見捨てることなどできるわけがない。


「ちょっと待ってください!」


「ああ?」


 その声が返ってくると同時、俺の視界を覆い隠すほどの激しい憎悪が浴びせかけられる。

 ゆっくりと振り返った菅井が怒りもあらわに俺のことを厳しくにらみつけていた。どす黒い瞳に宿る濁りは敵意と苛立ちであり、言ってしまえば暴力的な殺意と受け取ってもいいだろう。

 当然ながら怖くないわけがなかった。

 俺の心臓は締め付けられ、平常心を失って呼吸は乱れた。足がすくみ、情けないほど小刻みに震えていた。

 だけど、俺は気を振り絞って立ち続けた。かろうじて目をそらさなかった。


「彼女を、エミさんを離してください。今すぐに」


「待てよ、まだこいつの答えを聞いていない」


 菅井は俺から顔をそむけると、エミさんに視線を向ける。彼女の肩をきつくつかんだまま、決して離そうとはしない。先ほどの問いに対する答え、つまり彼女が菅井についていくかどうかという問いに対して、エミさんが明確に答えるまでは逃がすつもりもないのだろう。

 逆に言えば、ここでエミさんが答えさえすれば解放されるのだ。

 もちろん相手は逆上しかねない。答えによっては彼女の身に危険が迫る可能性もある。

 となれば、おびえた彼女が答えに困ってしまうのも無理はない。


「エミさん、正直に答えて。大丈夫、俺が守るから」


「……う、うん」


 俺のことを信頼してくれたらしいエミさんの反応を見て、首を絞めつけようかという勢いで彼女の胸倉をつかみ続けている菅井の手に力が込められたようだった。おそらく、表情から彼女の答えを予想したからであろう。そして、その答えをけん制するためだろう。

 もはや彼の発する殺伐とした雰囲気は悪意まみれで、直視できぬほど気持ち悪かった。プレッシャーを感じているのかエミさんも苦しそうな表情をしている。

 そこで俺は、押さえつけられている彼女が菅井の圧力に屈してしまわないように、力強くうなずいて見せた。そのうなずきが力になったのかはわからないけれど、彼女も意を決して口を開く。


「ごめんなさい。私、菅井さんにはついていけない」


 それは、明確な拒絶だった。

 今にも暴力をふるおうかという年上の男に対して、勇気ある答えだったと思う。

 だから俺も勇気を出さねばなるまい、そう思った。


「菅井さん、これでわかってもらえましたか? じゃあ……」


 このまま彼女から手を引いてください。

 そう続けようとした俺は、しかしその言葉を発することが出来なかった。

 なぜなら俺の目の前で、菅井はエミさんの左頬を右手でひっぱたいたのだから。

 左頬が痛々しく大きな音を立てると、そのままエミさんは顔を沈める。


「ちょっと、菅井さん!」


「るせぇ!」


 そして、とっさに暴力を止めるために背後から手を伸ばした俺のことも、菅井は流れるような動作で殴りかかってきた。今度は張り手ではない、握り締められたグーである。石のように固い握りこぶしが、俺の顔面を容赦なく振りぬいた。

 あまりの衝撃と激痛のせいで、その時の俺は本当に死ぬかと思った。ほとんど意識が飛びかけていた。

 けれど俺は倒れる寸前のところで踏ん張った。こんなことで気を失っている場合じゃない。

 それよりも、やっぱり菅井のことが許せなかった。年下の少女に手を出すなんて最低な男だと思いながら、けれど、それを止められる場所にいながら何も出来なかった自分こそ最悪な男に違いないと、俺は辟易とした気持ちで自嘲するしかなかった。

 息を荒立てる菅井はといえば、腹いせに俺たち二人を殴ったことで満足したのか、勝ち誇ったような表情を見せ付けると、こんなことを言い残すのだった。


「もういい、勝手にしろ! 俺はバンドをやめさせてもらうからな!」


 痛みをこらえる俺もエミさんも、二人して菅井には何も言えなかった。

 呼び止めることも、罵倒することも、別れ文句を告げることさえも。

 菅井さんが立ち去ってからも、その場に残されたエミさんは震えていた。自分の体を抱くようにして震えていた。

 いつまでも落胆ばかりしていられないと気合を入れなおした俺はすぐそばに駆け寄って、目の前にいたくせに彼女を守れなかったことについて謝った。

 何度も何度も頭を下げて。悔しさと後悔をにじませながら。


「ありがとう。私は大丈夫。大丈夫だから」


 震えることをやめて無理をして笑ったエミさんが、俺の腕をつかんでそう言った。俺がどんなに謝っても、自分を責めても、優しい彼女はそれを喜ばない。それどころか俺を心配して気を遣ってくれる。

 俺は自分があまりに情けなくて、もう何も言うことができなくなった。

 その日その出来事を境にして、エミさんのバンドからドラムの音が消え去った。

 少しずつ、けれど確実に、バンドが崩れ去っていくようだった。

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