10 合宿
週末、俺はバンドの合宿に同行した。
到着した合宿地は町外れの山を少し登ったところにある展望のいい場所で、ひょうたん型の湖を見渡せる小さなキャンプ場か何かだった。まさかこの五人で寝食をともにするテント生活か、と身構えながら思っていたけど、そこにはちゃんとした宿泊施設であるコテージもあった。しかも聞くところによるとオーナーが元ミュージシャンで、趣味が高じて防音設備のある練習所まで併設してあるという。
もしかしてエミさんと一緒の部屋なんてことはないだろうかと淡い期待を込めて確認したところ、岸村さんがやっていたという予約では三部屋だけ取ってあって、女性であるエミさんが一人で一部屋、孝之さんと菅井さんが二人で一部屋、そして俺は何故かイケメンの岸村さんと同室だった。
急遽決まった同行だったろうし、限られた予算の都合があるとはいえ、あの岸村さんと二人きりということで俺は言い知れぬ緊張に包まれた。が、それは夜まで持ち越そう。おそらく共通の話題がないけれど、それで気まずい空気になった場合には最悪眠ってしまえばいい。
合宿の日程は土曜日から月曜までの二泊三日だ。活動予定はほとんどがバンドの練習、そして今後の活動などに関する話し合いである。当然ながら休憩時間はあっても遊びの予定はないし、どうやらそんな雰囲気でもない。
初日はコテージに到着すると、若干の休憩や準備時間を挟んで早速練習が始まった。到着前に聞いていた通りにコテージのそばにはバンド用の小さなスタジオが用意されていて、同じように合宿に利用するバンドマンは多いらしい。時期がよかったのか他の音楽グループとは遭遇せず、ほとんど貸し切り状態だったのは幸運だったと言えるだろう。
そして残された俺はというと、しばらく黙って見学していたものの、一緒にいても練習の邪魔にしかならないとわかっていたので、バンドが練習をしている間は一人で周囲を散歩することにした。
スタジオから出れば聞こえてくる音も鳥のさえずりくらいなもので、都会の喧騒を離れたといえば聞こえはいいけれど、実際のところ普通に寂しかった。
とはいえ、適当に散策するだけでも道は美しい自然に囲まれていたので気持ちよかった。そこらに溢れる山の空気も美しく澄んでいて、呼吸のたびに心の濁りも消えていくようだった。
しかし情けないことに三十分もしないうちに俺は足を痛めた。散歩の途中、座り込んだ山道で後悔に打ちひしがれることになる。呼吸も乱れ、もはや一歩たりとも歩けない。ひきこもり生活が思春期の俺から奪ったものにはいろいろあったが、多分一番大きいのは体力だったかもしれない。
ああ、もう防犯ブザーを鳴らして助けを呼ぼうかしら?
などと思わなかったこともないけれど、さすがにそれは冗談に考えただけで実行するわけがない。重病でもないのに救急車を呼ぶような愚行である。もう歩きたくないと泣きごとを言う気持ちもあって、そうしたかったのもやまやまだったが、そんなことをすれば全員をあきれさせる羽目になる。
どうせしばらくすることもないのだ。この際、いい機会だからと道の脇にあった手ごろなサイズの岩に腰を下ろし、涼しげな木陰の下、ゆったりと頭の中で作詞することにした。
――君の瞳がヒットミー、さぁ僕らの恋が来い。
――愛を待つより、会いに行くから。
……なんて、センスのなさすぎる歌詞しか思い浮かばなかったけれど。
次第にむなしくなってきたので、俺は休み休みコテージに戻った。ところが戻ったところで俺にはすることもなく、暇つぶしに一人寂しく本などを読みながら部屋で過ごすことになったのは、今考えても合宿費用の無駄遣いであろう。
その日の夜、歩き疲れて腹の減っていた俺がコテージの食堂で誰かが作ってくれていた夕食のカレーを小気味よく突っついていると、なにやら他の四人が口論を始めた。
きっかけは覚えていない。本当にささいなことだった。
「はぁ? うるせぇよ、お前黙れ」
「あぁ? つーか、お前が黙れよ」
「…………」
「「お前は喋れよ、岸村ぁ!」」
などなど、まぁ飽きもせずに長々と言い争っていた。取り留めのない子供みたいな喧嘩とはいえ、我関せず他人事に聞いているだけの身にしてみれば、それはもはや漫才のようだった。
さすがに笑えるような状況ではなかったけれど。
「ちょっと、食事のときくらい仲良くしようよ」
困ったようにエミさんが発した仲裁の言葉なんて、俺以外は誰も聞きやしない。どこか修学旅行気分で合宿を楽しもうとしていた俺は、なんだか一人だけ場違いな気がしてならなかった。友達でもない大家族の家に遊びに来た感じ。もう家に帰りたいなぁ……などと、早速ホームシックになった。
おかげで誰が作ってくれたのかは知らないけど、夕食のカレーは気もそぞろで味がしなかった。野菜の切り方やルーの煮込み方に若干の不器用さを感じたけれど、普段の俺なら味わって食べられたに違いない。なんだかもったいない気分がした。
そういえばカレーをよそってくれたエミさんが食事中から俺の顔色をちらちらと見ていた気がしたけど、何か食べ方に不満でもあったのだろうか? 俺はといえば彼らの喧騒に辟易しながらも残さず食べたので、味はともあれ満足だ。
おいしかったね、とだけ子供みたいな感想を言うと、ふふんと得意げに胸を張られた。どうやらエミさんが作ってくれていたらしい。初の手料理だ。しまった次こそちゃんと味わおうと無理しておかわりしたが、そう頼むとエミさんは嬉しそうにカレーを大盛りにしてきたので、正直完食するのは大変だった。お腹いっぱいだからといって残すわけにはいかないし。
そして騒がしい夕食の時間が終わると、なし崩し的に解散となって、明日に備えて早めの休息が取られることとなった。俺はエミさん恋する岸村さんと二人きりの同室だ。気まずいのは確かだが他に行くべき場所もなかったので、俺は萎縮した面持ちで部屋に入った。
扉を開けた瞬間、俺は地上に舞い下りた麗しき天使を見たのかもしれなかった。
何を隠そう、イケメンの岸村さんである。
窓枠に寄りかかって儚げに夜空を見上げる岸村さんの姿は、星明りに照らされて幻想的に淡い輝きを放っているようだった。
間違いない、俺が女ならやられていた。
何故か消されていた部屋の照明をつけると、ようやく俺の存在に気付いたのか岸村さんが振り返って、びっくりするくらい爽やかな微笑とともにウインクを飛ばしてきた。俺も負けじと両目をぱちくりさせると、首を縮めて小さく会釈した。
岸村さんは笑った。
「そういえば、お前には一度尋ねておこうと思っていたんだ。わざわざエミの頼みで合宿までついてくるだなんて、お前はそこまで好きなのか?」
「……ええと、恥ずかしながら。はい、好きです」
「ふぅん、それはよかった。俺も好きだよ、音楽」
「あ、音楽ですかぁ……」
ここでいう好きとはつまり、うっかりエミさんのことだとばかり早とちりして考えてしまった俺は、答えておいてからものすごく赤面した。あまりの恥ずかしさに電気を消して布団にもぐりこみたかったが、照明のスイッチに手をかけるだけで我慢した。
そんなことするほうがよほど恥ずかしいと気付けたからである。
岸村さんは俺の異変には気づかなかったらしい。何事もなかったかのように話を進めた。
「俺さ、本当は感謝している。このバンドのおかげで音楽への関わり方が深まったからな。高校生のころは本気で音楽で食っていきたいとまでは思わなかった。……けれど、今は少し迷っているのさ。俺の音楽を認めてくれないんだ、あいつら」
「認めてくれない?」
「言い方が悪かったな。でも難しいんだ。音楽性の違いっていう常套句もあるにはあるが、あまりに多用されすぎていて、それは単なる性格の不一致とも受け取られかねない。とにかく、簡単に言ってしまえば俺には本気で自由に演奏させちゃくれないのさ。冷たい奴らだろ?」
そう言って岸村さんは俺に同意を求めてきた。
さて実際どうだろうかと、頭の中で俺は菅井さんと孝之さんの顔を思い浮かべる。確かに自由にはやらせてくれなさそうだ。
具体的に聞くまでもなく、ここは素直にうなずくことにした。
「ですが……」
しかしそのとき、うなずきつつも俺の脳裏には潤んだ瞳を見せるエミさんの姿が思い浮かんでいた。きっと彼女だけは、他の誰がどうであろうと、岸村さんのことをちゃんと理解してくれているはず。
彼女のことを思えばこそ、俺は心を痛めながらも、そう言いたかった。
「へぇ? まさか俺に何か言ってくれるのか? よし聞いてやろうじゃないか」
「あ、いや。え、ちょっと……」
あたふた取り乱した決死の抵抗もむなしく、いきなり腕を伸ばしてきた岸村さんによって俺はソファに座らせられてしまう。しかも何故か笑顔の岸村さんは、なんと俺のすぐ隣に腰を下ろす。そのままからかうように俺と肩を組み、互いの顔をつき合わせ、挑発的に冷笑を浮かべている岸村さん。
たまらず俺は尻に力を入れるほど緊張した。無意識に体が硬くなった。
「言いたいことがあるなら言ってみろ。俺だって悩みがないわけじゃない。あのエミが頼るような男だからな。実を言うと俺にだって興味があるのさ」
相手が同性の男とはいえ、他人からはっきりと興味があるなんて言われたのは初めてだ。
俺の胸はドキドキと高鳴り、それ以上に顔が引きつった。やばかった。
このままだと何かと身の危険を感じなかったこともないので、俺は最も気になっていることを彼に向かって尋ねることにした。もちろん話をそらそうとして。
「えっと、岸村さんって好きな女性とかいらっしゃるんですか? 彼女とか……」
そこまで言い終えてから、やべぇしまったぞ、と俺は即座に後悔した。
岸村さんに直接そう尋ねてしまっては、なんだか彼に恋するエミさんのことを裏切っているような気がしたからだ。彼に好きな人がいるかどうか。つまりエミさんの恋が成就する可能性があるのかどうか。
そんなつもりはなかったのに、先に答えを知ろうとする自分が卑怯な手段を用いているようでいやになる。
「……俺の恋人は音楽だって言ったら、お前は笑うか?」
「笑いません、泣きます」
「泣くこたないだろ……」
確かに泣くほどのことじゃない。所詮は他人の色恋沙汰なのだから。
でも俺は悲しかったのだ。岸村さんが女性に興味を持っていないと仮定することが。恋愛に関心なんてないと想定することが。
うつむいてしまった俺を見て気を遣ってくれたのか、隣に座っている岸村さんは俺の肩から手を離すと、少しだけ遠い目をして、明るい調子で言った。
「実は俺さ、女性から面と向かって『この音楽馬鹿ぁ!』って言われたことがある。それがちょっと未だにショックなんだよな」
「音楽馬鹿……。でも真剣にバンドをやっている岸村さんに対して言われたものなら、それも一種の褒め言葉じゃないですか?」
「それがさ、それを言ったのってエミなんだよね」
「う……」
俺は言葉に詰まった。岸村さんは苦笑する。
「いつだったかな、ある冬にエミからチョコをもらったんだよ。デコボコした形だったから手作りだってわかっていたけど、俺は受け取った後でバンドのみんなにも配ってさ、これ食べて今日も演奏がんばろうぜって言っちまったんだ。それもエミの目の前で。……まぁ、俺が悪いんだよな、実際。あれバレンタインデーのチョコだったらしいぜ。当時は気がつかなかった」
「それはひどいです」
「だよな。反省はしている」
初めて俺は人当たりのいい岸村さんに対して明確な敵意を覚えたが、彼が言うように悪気があったわけではないのだろう。申し訳なさそうにしている表情を見るに反省もしているのだから、今さら過去の話を蒸し返しても仕方がない。どうにもならない感情を俺は抑えこんだ。
彼の不義理を糾弾する代わりに、こんなことを尋ねた。
「あの、岸村さんはエミさんのこと……」
そこまで言った俺の口は、岸村さんが突き出した握りこぶしでふさがれる。
「俺だってさ、中高生のころはいろんな女性と付き合ってみたんだよ。けれど、ただの一度も本気にはなれなかった。音楽以上に魅力的なものは、この世界に存在しないって思うんだよ。だから俺、今はどんな告白も断ることにしている。たぶん、それはこれからもずっと続くと思うぜ。俺が音楽に携わっている限り、永遠にね」
「そうなんですか……」
さっぱりと垢抜けたように笑う岸村さんの反面、俺の返事は浮かなかった。
本当なら恋敵の不戦敗に喜ぶべきところかもしれなかったけれど、同時に今のままじゃエミさんの恋が成就しないことを知ってしまって、やっぱり俺は悲しかった。好きになってしまった以上、その人には誰より幸せになってほしいから。
だから何とかしたいと思った。
なんでもいい、彼女の力になりたいって。
「そうだ、レクリエーションとかって、どうですか! その、ぜひ明日にでもやりましょう!」
「レクリエーション? ……まさか合宿の?」
「そ、そうです! バ、バンドの親睦を深めるためにもっ! げほげほ」
あまりにも気負いすぎて俺は咳き込んだ。かなりむせて苦しんだ。
「けほっ、けほっ、くはっ!」
しかも止まらない。
「……バーベキューとかやるのか?」
なにやら岸村さんに心配されていた。俺は息を整えると親指を立てる。
「バーベキュー、いいじゃないですかぁ」
材料買ってこないとね。
一夜明けて日曜日になると、俺は朝から一人で森林浴をして昼まで過ごした。きつい山道を歩けば疲れるという、昨日の教訓を生かしたわけだ。天才である。代わりに暇で退屈だったけど。
午後になり、簡単な昼食を食べて短い休憩を挟むと、俺はふもとの店まで何キロもある長い道をはぁはぁ言いながら歩いた。バーベキューの材料の買出しのためである。
バーベキューに使う道具は親切にもコテージの人が無料で貸し出してくれるということだったので、後は肉やらジュースやらを適当に買い出す必要があったのだ。ところが店まで往復するための車も俺には運転できないし、不便なコテージまではバスもなくて、自分の足で歩くことになった俺は死にそうだった。
あらかた必要なものを買い終えると、当たり前だが帰りもぜぇぜぇ言いながら歩く羽目になった。あまりにもきつかったので、ほとんど泣きべそをかいていたと思う。そういえば何十分も歩いて腹が減ったので、帰り道の途中で適当な木陰に座り込んで、自分用にと買っておいたマシュマロを食った。ちなみにマシュマロは火であぶると程よくとろけて最高に美味い。甘みも増すんだ、ぜひ試してくれ。
なんとか無事コテージに戻ったときは、まだバンドの練習が続いていたようだったので、俺は気を利かせて一人でバーベキューの準備に取り掛かった。黙々とこなす一人の作業には慣れていたからか、下手に誰かから手伝われるよりも用意がはかどった。
独り身のさびしさだよな、他人との協力のやり方がわからないのは。
とにかく準備が終わり、さぁ肉を焼こうとしたところで俺は思いとどまった。
馬鹿か、このまま一人でバーベキューを始めてどうする。
練習中のみんなを呼びに行くことを忘れていた。
「あ、バーベキュー? すごい、バーベキューだ!」
引っ張ってくると、エミさんは子供のように目を輝かせて喜んでいた。
それだけでがんばった甲斐があるというものだ。
あどけない彼女の笑顔が見られたという、ただそれだけのことで、バーベキューを始める前から俺は報われた気分だった。
「まぁ、たまにはこういうのもいいだろう」
「肉が食えるんならなんでもいいさ」
一番の懸念だった孝之さんと菅井さんの二人も乗り気になってくれたようで、俺も一安心。もし「バーベキューなんていやだよ」って言われたら泣き寝入る準備があったくらいだ。
もちろん岸村さんについては言わずもがな。飛び切りの笑顔だった。
昨日までギクシャクしていたメンバーが和気藹々と炭火を取り囲むのも、おそらくバーベキューという食い物のおかげだろう。俗に食べ物の恨みは怖いというが、食べ物の恩は力強いとでも言うべきか、まぁなんとも現金なものである。
とりあえずおいしいものを食べれば人はご機嫌になるのだろう。勉強になる。
「おらぁ、おらぁ!」
「ぐうぇ、ぐうぇ!」
……などと、しばらく各々が気の向くままに食材を食べあさっていると、そのうち不思議とテンションの上がった菅井さんによって、一体全体どういうわけか、俺は先のとがった串で腕をつっつかれ続けた。しかもそのたびに俺は苦しみもだえて倒される雑魚敵の物真似をやらされたので困った。
周りのみんなは巻き込まれるのが嫌なのか、決して俺と目を合わせてくれなかったし。助けてくれぬとは薄情なものである。
ちなみに焼いたマシュマロはエミさん以外の三人には不評だった。ふざけるな。
最後の締めとして酒をほしがる菅井さんと孝之さんの二人だったが、「お前らまだ二十歳にはなってないだろう、法に従って酒は飲むな」と強く言って止めた。
……俺じゃなくて岸村さんが。
そんなこんなでバーベキューを満喫し、俺が一人残って後片づけを終えてからコテージに戻ると、なにやらメンバー四人が集まって言い争っている現場に遭遇してしまったのである。
またこの人たち喧嘩するのかよ、勘弁してくれよもう――と呆れながらに思ったのだが、一方で彼らがどんな口論をしているのか気になったのも事実なので、こっそり話だけは聞こうと近づいてみた。
「高校なんかやめて、バンドに専念しろよ」
詳しく尋ねるまでもなく、話の内容は大体理解することができた。
どうやら、基本的にはエミさんと孝之さんの兄妹喧嘩だったようだけれど、それに菅井さんと岸村さんが巻き込まれているというか、進んで脇から口を出していたらしい。
肝心の言い争いになった理由なのだが、孝之さんがエミさんに対して、高校をやめてバンド活動に専念することを要求していたらしい。もちろんバンドの続行はエミさんが言い出したことだから、彼女にそれなりの覚悟を求めるのは致し方ない。
しかし、それにしたって彼の主張はいささか強引なように聞こえてならなかった。
いくらバンドのためとはいえ、入学して三ヶ月の高校をやめろなどとはひどい話だ。ライブからずっと学校を休んでいたというエミさんは、きっと兄の孝之さんからそうするように指図を受けていたのだろう。あのネガティブな割には芯の強いエミさんが、自分から学校をサボってまでバンドに付き合うとは思えなかった。
エミさんに迫る孝之さんに妹を思いやる優しさの気配は感じられず、何も言い返すことのできないエミさんは悔しさに顔をゆがめていた。負の感情、ネガティブな空気。たれ込める暗雲が救いようもなく二人を包む。
だから俺は珍しく、いや生まれて初めてかもしれない蛮勇を振り絞ったのだ。
無茶な要求を撤回させる。自分より年上だろうが、エミさんの兄貴だろうが、反論されたときは強引に殴ってでも止めてやろうかとさえ思った。
「待てよ、それ以上はやめておけ」
だがそのとき、力強く一歩を踏み出そうとした俺の目の前に、横合いから菅井さんの姿が現れた。どうやら俺よりも先に、菅井さんが仲裁に入ったらしい。
出鼻をくじかれた俺はなんだか負けた気がして、握ったこぶしをさらに強く握り締めた。
「なんだよ、菅井。お前だってエミには言いたいことがあるんだろ?」
「ああ、あるさ。でもな――」
言いながら菅井さんはエミさんのそばまで歩み寄ると、彼女を庇うように右腕を伸ばした。エミさんは意外そうな顔をして菅井さんの後姿を眺めていた。
「いいか、孝之。俺はお前よりエミを大事に出来る。口では偉そうにバンドが大切だとか言いながら、実際には自分のことしか考えていないだろ、お前」
「それを菅井、お前が言うのかよ?」
「ああ言うさ。売れないからって妹に当たる馬鹿を見過ごすこたぁできねぇ」
「……クソが」
短い捨て台詞を残すと、孝之さんは歯がゆそうに舌打ちを鳴らして立ち去った。一方で残されたエミさんはというと、今度は助けに入ったはずの菅井さんによって腕を強くつかまれ、その場から全く身動きが取れずにいた。
それはおそらく、喧嘩とはいえ大事な話の途中で去っていった兄を追いかけようとする彼女の行動をけん制してのことだろう。
少し顔をゆがめていたものの、彼女も表立っては抵抗をしなかった。
「エミが痛がってる。手を放してやれ」
そこに入ったのは岸村さんである。
「岸村……。お前はどうなんだよ」
「どうなんだ、とは?」
一応は素直にエミさんの腕から手を離した菅井さんが、岸村さんに挑発的な視線を向ける。
何か決定的なことを言おうとしているに違いない。
「エミのことに決まってるだろ。お前はどう思ってるんだよ、このすかし野郎!」
その瞬間、問われた岸村さんより先にエミさんの動きが固まった。予想だにしなかった緊張に顔が曇っている。
岸村さんがエミさんのことをどう思っているのか。
それはエミさんが最も知りたくて、最も知ることを恐れていることだ。
音楽が恋人だという答えを聞いていたこともあり、何か致命的な発言が出てくることを防ぐため俺はとっさに二人の会話に割って入ろうとしたが、それより早く岸村さんが答えた。
「バンドにボーカルは不可欠だ。エミはよく歌ってくれている」
「それだけか!」
「それ以外の不純な動機を抱えているお前たちが気に食わなくなってきたんだよ、俺は。仲たがいしながらもこのバンドを続けてきたのは、エミの歌に可能性を感じてきたからだ。お前らの演奏に一定のクオリティを感じ取ったからだ。それ以外に何が必要と言うんだよ」
くくく、と菅井さんが笑う。
そして嘲るように岸村さんを指差した。
「お前に足りないものがわかった。人間の心だ! 俗な気持ちを理解できないから、いつまでたっても大衆の心をつかめないんだよ! 野心、嫉妬、性欲、金も成功も名誉もだ。それらが音楽に不要なものだと決め付けて、だったらお経でも唱えてろ!」
「エミ、そいつから離れろ。そいつがドラムを叩くのは、野生動物の求愛行動よりもっと即物的な目的からだということがよくわかった」
岸村さんの指示に従ったのか、困惑したままエミさんが、足を横に動かして少しだけ菅井さんから離れた。でもそれは話の内容を聞いていたというより、激しい剣幕で怒鳴りたてる彼に恐怖を感じたせいだろう。
それでも菅井さんの気分を害するには十分すぎる行動だったらしい。
「そうだよ、それで悪いか。もてたくて楽器やることが悪いか!」
ふてくされたように捨て台詞を残して、肩を怒らせた菅井さんは足音も荒々しくコテージの部屋に戻った。同室である孝之さんと鉢合わせたら彼らはどうなるのだろうと心配になったが、今は彼らの運命など重要ではない。
岸村さんはその背中を最後まで見送らずに振り返って、半ば怯えているエミさんに向かって声を掛ける。
「エミ、一応確認しておきたい。これでもこのバンドで歌い続けたいか?」
感情を感じさせない冷たい声だ。エミさんは夜風に震えている。
「岸村さんはどうなの? 私のこと必要としてくれる?」
その質問は最大限の勇気を振り絞って発せられたものに違いない。必要と言われたいに決まっている。それは彼女の恋愛が実を結ぶかどうかを意味するのだ。
でも岸村さんはなんと答えるのだろう。
息が漏れるばかりで声も出せず、俺は固唾を呑んで岸村さんの答えを待った。
「いいメンバーだと思っている。バンドとしてなら……」
そこまで言って、俺は初めて岸村さんが後悔を表情ににじませたのを見た。自分の答えが、それを聞いた少女の心を傷つけてしまったことに気がついたのかもしれない。エミさんいわく音楽馬鹿の岸村さんだ。悪気はないのだ。
でも、それが彼女を苦しめる。
「なんだかそれ、音楽のことしか頭にないみたい」
「……そうだな。でも、お前だっていつも歌うことを一番に考えていただろう? このバンドが大切だと誰より言っていた。だから……」
岸村さんが言葉を探して押し黙ると、こらえ切れなくなったのかエミさんは叫んだ。
「私は音楽の道具じゃないよ! 歌うことだけが楽しくて生きてるんじゃない!」
そう言って彼女は走り去る。
この場から逃げ去るように、当てもなく駆けだした。
彼女が残した言葉が俺の脳内で何度も反響して、そのたびに彼女が苦しんでいる姿が眼に浮かぶ。彼女は泣いていた。
不意に身震いが全身を襲った。肌寒さが強くなってきたのだ。あとに残されたのは俺と岸村さんだけだったが、岸村さんはばつがわるそうに落ち込んでいた。
「うまく言葉を見つけるのが本当に下手だな、俺は。信じてくれないかもしれないが、彼女を傷つけるつもりはなかった」
「わかってます。でも、エミさんの歌を認めていることは本当なんですよね?」
「それだけは本当だ。こんな状況でも解散を最後の最後でとどまっているのは、彼女が歌ってくれるからだよ」
「それを聞いて安心しました。岸村さん、俺、エミさんを追いかけます」
「頼む」
岸村さんに頭を下げられて、俺はエミさんを探して走り出した。
どこに向かったか行き先はわからないけれど、おおよその見当を付けながら左右を見渡して走る。事前に周辺を散策して、おおまかな地理を把握していたのが功を奏した。ものの五分と立たないうちに、広場を望むベンチに腰を下ろすエミさんの姿が見えた。
エミさんは隣に立ち止まった俺の気配に気がつくと、あえて陽気さを取り繕って言った。さっきのことには触れてほしくないのかもしれない。
「岸村さんはね、初めてバンドを組んだとき、私の歌を聴いて、声がいいって褒めてくれたの。お兄ちゃんに誘われて始めたバンドだったけど、岸村さんに褒めてもらえたとき、勇気を出してボーカルをやることにしてよかったと思ったの」
走ってきたせいで俺は息が上がっていて、うまく相槌が打てずにいた。エミさんは隣に座るようにと、少し横に動いてスペースを開けてくれた。ありがとうと言って、俺は息を整えてからベンチに腰を下ろす。
いよいよ暗さを深めた空は果てしなく広がっていて、黒いキャンバスとなった天空に散りばめられた星のきらめきがきれいだった。冷え切った夜の風はさらさらと木の葉を揺らして音を立てて、雑味のない透明な空気を運んできてくれる。どこか遠くでは鈴を鳴らすような虫の声も聞こえてくる。
しばらく二人で静かに澄み渡った夜気に身を任せていると、ベンチの先で足をぷらぷらさせたエミさんが秘密を打ち明けるようにして言った。
「そのときだよ、私が岸村さんに恋をしたのは。それからずっと片想いをしてきたんだ。だけどね、もう私も高校生になったからわかるんだよ。岸村さん、あのときから今まで、別に私のことを見てくれているわけじゃないんだって。ただ、バンドのボーカルとして私のことを見ていただけだったんだ」
何もかもを諦めようとしている声。あまりにも痛ましく感じられて、それを即座に否定するしかなかった。彼女には簡単に捨て鉢になってほしくない。なすすべもなく大切なものをぽろぽろと取りこぼしてほしくはない。
「違うよ。岸村さんは誰でもいいってわけじゃない」
「でも……」
「わかるんだ。岸村さんは確かに音楽馬鹿だと思うけど、だからこそ大事なボーカルを誰にでもやらせたがる人じゃないんだって。単純に歌がうまければいいってわけじゃないと思うんだ。少しずつだけど岸村さんと話をして、根拠はないけれど俺はそう感じた。あの人は、いや、あの人だってエミさんじゃなきゃだめなんだ」
「なんで、そんなことが……」
「だって、俺も一緒だから」
この気持ちを、どう言っていいのかわからない。
でも考えるより先に言葉が溢れてくる。
「エミさんじゃなきゃだめなんだ。エミさんの歌でなきゃ、俺はあんなに心奪われることもなかった。他のバンドじゃ駄目なんだ。俺はエミさんの歌が聴きたい。歌だけじゃない。声だけじゃない。うまく言えないけど、君のことが好きなんだ」
言い切った瞬間に風が吹いて、髪を揺らしたエミさんは両手をすり合わせた。
いつしか足の動きは止まっていた。
「……私のどこがそんなに」
「初めて人を好きになったから、どこがどれほど好きなんだとか、それをうまく言葉にはできない。エミさんのことを考えると胸がいっぱいいっぱいになる。こんなにも気持ちばかりが溢れてくるのは初めてだ。でも、ひとつだけ、はっきりとわかることなら一つだけある」
「それは、何?」
「君が幸せになってくれるのが、俺は自分が幸せになることよりもずっと嬉しい」
俺は立ち上がった。
これ以上遅くなると風邪を引くかもしれない。
「どこまで本気かわからないけど、岸村さんは音楽が恋人だって言ってた。でも、その音楽のパートナーにエミさんを必要としているなら、それは岸村さんの大事なところに、エミさんが入り込めているって証拠だと思う。だからいつか、エミさんの気持ちが岸村さんに届く日はきっとあるんだ」
エミさんが遅れて立ち上がった。
こちらを向いてくれた気がしたから、俺は彼女に顔を向けて微笑んだ。
「がんばろう。応援する。俺じゃ頼りないかもしれないけど……」
「ううん、ありがとう。元気もらえた。……私、謝ってくる」
「途中まで一緒に行こう。夜道は危ない」
「手を引いてくれる?」
「俺でよければ」
差し出された彼女の手を握り締めて、俺たちは星明りの照らす夜道をコテージまでたどるのだった。ゆっくりとした足取りで、力を込めた指先では手のぬくもりを感じながら。




