01 プロローグ
恥ずかしながら、当時の俺はこんな風に思っていた。
この胸を襲う悩みや苦しみといったものが世界の誰にも理解されないのなら、この世界で生きていくことは不幸に違いないと。あるいは喜びや情愛といったものが世界の誰にも共感されないのなら、この世界で生きていることは孤独で仕方がないのだと。
人生には救いがない。情け容赦のない試練ばかりがあるだけで。
けれど大人になった今なら、俺はこうも思えるのだ。
たとえ世界中の誰からも理解されずとも、ひとえに自分がそう思うなら、ただそれだけで美しい詩があるのだと。たとえ伝わって欲しい人に願った通りの意味では届かなかったとしても、きっと誰かが聞き届けてくれていて、その人の心の奥深くまで響いてくれるような素晴らしい詩があるのだと。
人生には希望がある。つらいことばかりであるにしても、幸せはいつも見守ってくれている。
はっきりとそれを意識し始めたのは、中学二年の冬のことだった。
ある寒い一日の夕暮れ、居場所のない街から逃げ出したいと思って足を運んだ駅前のロータリー。むせかえるような人ごみの中でぶつかり合う雑踏が、冬の乾いた空気に泥の混じった雪のように降り積もる。
つまらないことばかりを難しく考えて、大切なことからは目をそらしてばかりだった思春期の俺は、あまりの寒さに身を縮めながら行き先を見失って、やっぱり日が暮れてしまう前に暖かい我が家へ帰ろうと、家出じみた冒険心を投げ捨てようとしていた。
そのときである。
歌が聞こえた。
遠く澄んだ少女の声が。
所狭しと街に反響する無数の雑音にまぎれ、途切れ途切れに聞こえる歌声につられて振り返ると、せわしなく人の行きかう広場の片隅で、若者ばかりの四人組バンドが歩行者に足を止めてもらおうと懸命に演奏していた。聞いたこともない曲。派手さもない落ち着いたメロディ。特別うまいわけでもない。
それでも俺は歩き出した。
もっとちゃんと聴きたくなって、演奏する彼女たちのそばへと足を進めた。
他に立ち止まって耳を傾ける聴衆がいたのかどうか、今ではもう覚えていない。たぶん、そのときも周囲には関心を払っていなかった。
余計なことを考えず、まっすぐにバンドへと目を向ける。まっすぐに耳をそばだてる。それだけで世界は完結した。
メンバーの中で一番背の低いボーカルは、どうやら俺とそう変わらない中学生くらいの少女だ。背伸びするようにマイクを握りしめて一生懸命に歌っているその姿は何よりも輝いて見えた。
その声が、言葉が、歌に込められた感情が、すべて心地よく胸に響いてくる。
ずっと聴いていたくなる。ひたすらに身をゆだねていたくなる。
聞き惚れた。
一目ぼれだ。
彼女の歌を聴いている間の俺は言い知れない感動と興奮で涙ぐんでさえいたかもしれない。
果たしてその曲が何分何秒続いたのか、そのときは一瞬にも永遠にも感じられたけれど、やがて歌い終わって一息ついた彼女と俺の目が合った。バンド専用のステージも何もないゲリラ的なストリートライブということもあって、向かい合う俺たち二人の距離はそう遠くない。だから無理して大声でなくたって、この溢れるくらいの気持ちすべてを、その場で彼女に伝えることもできたはずだ。
でもそれはできず、感情ごと言葉を飲み込んで口をつぐんだ俺は顔を赤くしてうつむくことしかできなかった。
だって彼女はこちらの目を興味深そうに覗き込んだまま、そうやって俺の顔を見ながら、嫌がるでもなく微笑んでくれたのだ。嬉しそうに、あるいは幸せそうに。それだけじゃない。歌い終わったばかりの彼女は優しい声で「ありがとう」とさえ言ってくれた。それは俺のほうこそ彼女に伝えたかったセリフだったのに。
そして彼女は前を向いて、次の曲が始まった。
ここにいていいんだ。
もっと聴いていていいんだ。
俺はその日、なんだか世界が幸福に満ち足りているような気がした。
これは、それから様々なことを経験して、落ち込んでいた俺が人生にも救いや希望はあるんだと思うに至るまでの話だ。
少しばかり長くなるが、最後まで聞いてくれると嬉しい。