騎士団長
ようやくバトル。
尻餅をついた彼の服が土に汚れた。
「……もう、いいだろう。何があったか知らないが、彼は謝っているんだ」
「あァ。もういいや。俺ァてめぇにブチきれたぞクソアマ」
ゆっくりと男性は立ち上がってから、服を払った。
ソフィアが少年にこの場を去るよう促すが、心配そうに潤んだ瞳で彼女を見つめて動かない。大丈夫だよ、と彼女が優しい声で語りかけると彼はこの場を去っていった。
貴族はもう、少年に興味がないようだ。
「さて。このキウス・ヴァン・ドスサンベルマン様に恥をかかせたんだ。覚悟はできているな?」
ヒクヒクと顔面の筋肉を痙攣させながら、キウスは言った。
ソフィアは大丈夫なのだろうかと彼女の顔を窺ってみる。怯えている様子はなく落ち着いているようだ。路地裏で助けてもらったときもそうだが、荒事には慣れているのかもしれない。
「何を覚悟すればいいのだろうか、教えてほしい」
「そうだなァ。謝罪しろよ、謝罪を」
ニヤついた表情でキウスは謝罪を要求した。なんだか嫌な予感がする。
「わかった。それで貴方の気が済むのであれば……。突き飛ばしたことは悪かった、ほんとうにすまなかっ」
「……そんなんで許すわけないだろォ」
一瞬、ソフィアの目が見開かれた。が、すぐに普段通りの表情に戻った。
「では、どうすればいい?」
この後の展開を、彼女はもう予想していたのだろう。少し顔をしかめて問いを投げていた。
「脱げよ、服を。今すぐ。この場で」
舌なめずりをしながら、キウスはとんでもないことを言った。
プツリ――――とオレの中で何かが切れかかる。
オレは異世界から来た余所者だ。貴族に対する恐れはない。そう考えると、どんな無謀なこともできそうな気がした。コイツをここで殴り飛ばすくらいわけない。
そしてソフィアより前に出ようとして、彼女が腕を横に伸ばしてオレを止めた。
目線を少し後ろに下げ、大丈夫だよ、と穏やかな目でこちらを見た。
……何か考えがあるのだろう。彼女が耐えている以上、邪魔になるわけにはいかない。ふぅ、と静かに息を吐いて怒りを鎮めた。
ソフィアは真っすぐキウスを見つめ、
「断る」
と意志を表明した。
キウスは断られるとは予想していなかったようだ。しかし逆らって大丈夫なのだろうか。貴族が相手では、権力の暴力を振るわれることだってあり得る。
「アァ……? あァ、じゃあもういいや。死ねよ」
あまりに短絡的にキウスは死ねと言った。何か……嫌な予感がする。肌がピリピリと痺れる。
彼は右手をソフィアに向けて伸ばし、
【風の精に願い奉る――】
何かを唱え始めた。ソフィアの表情に焦りが見える。
「ッ、まさかここで魔法を使うのか!」
焦点を絞られないように、走って逃げ回る。
キウスは止まらない。
魔法は、この世界に来て何度か見かけている。それでも、人に危害を加えようとするものは初めてだ。
【あの女を切刻め……ッ!!】
ソフィアめがけて、真空の刃が飛来する。
ふらり――と揺れるように体を倒し、彼女はそれを躱した。
背後にあった立木が穿たれた。空いた穴からは流血のようにパラパラと木くずを散らしている。そして、自らの重みを支えきれなくなりズシンと大きな音を立てて倒れた。
あまりの威力に絶句した。
当たったら即死。キウスは本当にソフィアを殺す気で魔法を放ったのだ。
【風の精よ――】
再度、詠唱が始まる。さきほどよりも呪文が短い。
【あの女を】
「――――遅い」
ソフィアは詠唱が終わるよりも早く、一瞬で距離を詰めてキウスを組み伏せた。これ以上唱えられないよう、頭を強く押さえつけて封じている。
あっけなく勝負はついたのだが、魔法の脅威に身が震えていた。
誰かが通報したのか、街を巡回する騎士がやってきてキウスの身柄を拘束した。その際、騎士はソフィアのことを『騎士団長』と呼んでいた。
「……リュート」
不意に名前を呼ばれてドギマギしてしまう。騎士団長という立場を知った彼女を、どこか遠くの存在だと感じてしまった。……そんな自分が嫌になる。
「な、なに?」
「すまないが、少し帰るのが遅くなりそうだ」
少し寂しそうに、ソフィアは微笑んだ。
「……大丈夫。待ってるから」
こういうとき、オレはなんて声を掛ければいいのだろう。陳腐な言葉しか出てこない。でも、彼女が帰ってきたとき、温かいご飯を用意して迎えようと思った。それが今の自分にできる最大限。
「うん。ありがとう」
そう言って去っていく。その背中が消えるまで眺めてから、帰路に着いた。