契約成立
◆
――――寒い。
ぼんやりする意識のなか、初めに感じたのは寒さだった。
視界には何も映らない。
色すら存在しない空間だ。白のようにも見えるし、黒のようにも見える。
はてさてどこなんだろう、ここは。
地に足はつかない。浮いているのか沈んでいるのかすらわからない。
闇の中に存在しているだけ。
寒さだけが沁みるほど痛い。と言っても、触覚からの刺激ではなく、この寒さもきっと幻だ。
何のために生まれ、何のために生きるのか。
なんて、幼いころに見ていたアニメのフレーズがふと脳裏に浮かぶ。
オレは何を成そうとしていた?
オレは何を成したんだ?
オレは――――……
わからない。ワからない。何モわからナい。
寒い。寒い。寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒いサムいさムいさムイ。
死神の足音。死神の姿を幻視する。
逃げ場はない。オレはここで死ぬ。
……――――リュート!
誰かが、オレを、呼んでいる。
光が射した。
オレは必至で声を求めた。
◆
そして、目が覚めた。
「リュート!」
ソフィアの顔がすぐ近くにあった。覗き込むようにしてオレを見ている。
後頭部は暖かく柔らかい。彼女がひざまくらをしているのだとわかった。
「なん、で……どうして……」
意識がどうにも混濁しているようだ。状況を把握しきれていない。
ソフィアに、何があったんだ、と聞こうとして、
「よかった……生きてて……!」
大粒の涙を流して泣いているソフィアに、声を掛けられなかった。
ズキリと胸が酷く痛んだ。
泣かせたのはオレだ。
ようやく状況を思い出した。
オレは禁呪を使用した。結果は失敗だろう。
挙句の果てには生死の境を彷徨う始末だ。
そして。
一番泣かせたくなかった人を、泣かせてはいけない人を泣かせてしまった。
「……ごめん」
勝手に暴走して、勝手に自滅して、その結果がこれだ。
オレは馬鹿だ。
「本当にわかっているのか! キミは!」
「……ごめん」
平々凡々に生きてきたこれまでの人生。その生き方は嫌いではなかったし、変えようとは思わなかった。だけどこの世界でソフィアに救われて、オレの生き方は変わった。
「……希望だったんだ。オレにとって、キミの存在は」
命を救われた。心を救われた。
そんなキミに憧れた。
誰かのためになろうとか、もう少し頑張ってみようとか、以前の自分よりも前向きになれた気がしていた。
けれどそれは脆い妄信に過ぎなかった。
「リュート。初めて会った日を覚えているか?」
忘れるはずもない。
路地裏で悪漢に襲われていたところをソフィアに救われたあの日。
「私はね、あの時のキミの顔が忘れられないんだ。深い絶望を抱いた目をしていた。そんなキミを救いたいと思ったんだ」
「ああ。オレはキミに救われた」
「違うんだ。リュートが私に救われたように、私もリュートに救われていたんだ」
オレがソフィアを救った……? まるで心当たりがない。いつも救われてばかりだったように思う。
「騎士というのは誰かを守るのが仕事ではない。実際は守れなかったから動くんだ。被害が起きる前に被害を抑えるなんてのは、予知でもなければ不可能だからね」
犠牲者がいなければ、加害者は成立しない。加害者がいる以上、誰かがすでに命を落としていることになる。
何度も守れなかった苦しみを味わってきたのだろう。
「あの夜、初めて誰かを守れた気がした。だから私はリュートを失うことが怖くてたまらない」
そうか、そういうことだったのか。
新世界教団から必要以上に遠ざけようとしていた理由がわかった。
確実に捕まえるなら、オレを囮にするのが手っ取り早い。だが民を守るという名目でオレを教団から隠す選択をした。
でも、それでは困るんだ。オレはマリナを救わなくてはいけないんだから。
「だったら、キミがオレを守ってくれ」
そう言うと、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしたあと、噴き出した。
「――――くふっ、あははっ! それはカッコつかないだろう! 普通は『オレがキミを守る』じゃないのか?」
「い。いいんだよ。これで」
ここまで爆笑されると恥ずかしさで顔面から火が出そうになる。
カッコ悪いのは重々承知の上だったが。
「……それで? 返事はどうするんだ?」
「ああ。誓おう」
そう約束をして、指を切る。
これはきっとお互いが一歩進むための契約だ。
オレは彼女を二度と泣かせないと決意した。




