この青く美しい空の下で
とある街外れの寂れた場所にある、ほんの少しだけ大きな建物内の廊下を、一人の女性が静かに靴の音を鳴らしながら歩いている。
年齢は二十歳くらいになるだろうか。
大人びた印象の中に、どことなく少女のあどけなさを残したような、とても可愛らしくも見える美しい女性だった。
とても古い木造建築のため、廊下を歩くたびに軋んだ音が周囲に響くが、そんな音でさえも彼女にとっては感慨深い場所だなぁと、しみじみと感じているようだ。
腰あたりまで伸ばした美しく細い赤い髪を背中で綺麗に束ね、赤い瞳に少し小さめの眼鏡をかけている。その表情はとても優しく、温かそうな笑顔の素敵な女性だった。
この古い建物は少しだけ大きいとはいっても、その女性の目的地である部屋の扉はすぐそこで、頭の中で数をいくつか数えている間に着いてしまうほどに近かった。
赤い髪の若い女性は、その部屋に行くための古びた扉の取っ手に一度手をかけたが、中から聞こえる可愛らしい声に優しく微笑み、一拍置いた後、静かに扉を開けた。
扉を開けて入ろうとすると、中にいた子供達がおはようございますと元気な挨拶が耳に心地良く届き、女性はまた微笑んでしまう。可愛らしくて仕方のない子達だと。
「おはようございます」
彼女はそう告げて、子供達の前に立つ。
さて今日は、この可愛らしい子達に何を教えようか。
そう暫く考え込んだ時に、ふわりと暖かく心地良い風が彼女の頬を優しく撫でた。
部屋の右側にある並んだ窓から静かに風が吹き、白いカーテンを優しく揺らす。
今日はとても天気がいい。
うららかな春の陽射し、風も穏やかで優しくて、とても暖かで。
空はどこまでも透き通るほどに、美しい青さを見せている。
子供達の前に立つ若い女性は、どこか花の香りが鼻をくすぐる心地良い春の風に優しく包まれた教室にいる子供達を静かに見回すと、彼女は穏やかに、そして丁寧に言葉を紡いでいく。
「今日は天気もいいですし、とても特別な日なので、お外でお勉強しましょうか」
若い女性が話すと、それを聞いた子供達はすぐさま喜びの声を聞かせてくれた。
そんな愛くるしい子供達に、なんて可愛いのだろうかと女性は微笑みながら思う。
こんなにもいい天気なんだもの。
外に出ないで部屋にいるだなんてもったいないわ。
それに今日は、とても特別な日なんだもの。
若い女性はそう思いながら、窓の外から見えている青空を見上げていた。
「せんせー、いこー?」
「はやくはやくー!」
「ふふっ、そうね。行きましょうね」
微笑む女性は、たくさんの子供達に両手を引かれながら退室する。
子供達に連れられてきた先は、いつもの場所。
古びた建物の庭にある、とても大きな木の下だ。
建物の外で勉強する時はいつもこの場所で、風が優しく入ってくる木の下は若い女性を含め、子供達みんなが大好きな場所で、そしてみんなの特別な場所となる。
木陰になっている場所までくると、子供達は好き好きに座り、瞳をきらきらと輝かせながら女性の話を待ち望んでいた。
今日は本当に春の日差しが優しく、暖かく、穏やかな風が吹くとても気持ちのいい日だった。
この特別な場所に来る時は、いつも決まって同じ物語を女性は話している。
ひとりの聖女さまが魔王をたおし、世界を救う。
この世界の人達なら誰もが知るお話だ。
「――そして聖女様は世界に光を満たし、魔王を打ち払い、世界を救ったのでした」
若い女性は子供達へ読み聞かせるように、優しく穏やかに語り終えた。
余韻に浸る子、涙を流す子、それを堪える子と様々だが、何度物語を話しても、子供達にはとても新鮮に聞こえているようだ。
そんな中、一人の少女が言葉にし、それを笑顔で女性は答える。
「せんせー?」
「なぁに?」
いつもの決まったやりとりだ。
質問する子は違えど、物語を語り終えるといつも同じ質問を子供達がしてくる。
何度やりとりしても可愛くて、ついつい頬が緩んでしまう。
あぁ、なんて可愛い子達なのだろうか。
そう想いながらも、女性は女の子の問いに耳を傾ける。
何回、何十回と聞き続け、その度に笑顔で答えてきた可愛らしい問いを。
「せいじょさまは、どうなったの?」
いつもの決まったやりとり、いつもと同じ質問。
そしていつもと同じように女性は優しく穏やかに、笑顔で女の子に返していく。
「そうね。色んなお話を聞くわ。
……ある人は、故郷に戻って静かに暮らしているんだとか。
ある人は、大切な仲間と再会して、また一緒に世界中を旅して周ってるんだ、とか」
聖女様が戻られたとの報告は、正直なところ聞いたことがなかった。
世界中から大規模な捜索隊が派遣され、世界にある街はもちろん、世界中の森や洞窟、平原や草原、消息を絶ったという北の大地も隈なく調査された。
何度も、何度も捜索隊が出されるも、残念ながら何の痕跡もなく終わったと聞いている。
人々は言葉にする。
もう、この世界のどこにも、聖女様はいらっしゃらないのではないのかと。
人々は言葉にする。
もしかして、あの"大樹"が聖女様そのものなのではないだろうかと。
でも、わたしには、そうは思えなかった。
そんな"もしも"のことなんて、決してないんだと思っている。
ただ漠然と、なんの確証もなく、わたしはそう信じている。
……あの日、あの時。
わたしは、確かに"光"を見た。
――それは、とても安らぎに満ちていて、穏やかで。
――それは、感じた者すべてを幸せにするかのような、温かさに満ちていて。
――それは、見た者を立ち止まらせ、あまりの優しさに涙が溢れてしまうほど尊いもので。
「せいじょさまは、もう、いないの?」
とても寂しそうに、泣きそうな顔で女の子は若い女性に尋ねた。
優しい声と、どこか寂しさを秘めた穏やかな笑顔で、女性は小さな少女に答える。
「……分からないわ。誰も、聖女様を見た人がないの」
それを答えられる者は、この世界にはいない。
そうであるとも、そうでないとも言えない、曖昧な答えしか出すことができない。
聖女様は本当にもう、この世界にはいないのかもしれない。
でも、それを確信するだけの事実も、未だ見つかってはいない。
「あ! ゆきだー!」
「わぁ! きれいー!」
小さな男の子の声に誰もが木陰から出て空を見上げ、両手を空へと伸ばす。
しんしんと地上に落ちる、触れると小さな光となって消えていく美しい白銀の雪は、毎年四月の十の日になると、世界を優しく包み込むように降り注ぐ。
ある国のご高名な学者様の話では、北の大地に聳え、世界のどの場所からでも見ることのできる白銀の大樹から絶えず光を放っていると、わたしは聞いたことがある。
光を放つところを見たことのないわたしには、それが本当なのかは分からない。
でも、それが聖女様の成したことのひとつなのだと、わたしは信じていた。
優しく温かな光を降らせる美しい大樹を人は、"聖樹イリスヴァール"と呼んでいる。
聖女様のお名前をお借りしてそう名付けられたそうだが、もしかしたら聖女様があの白銀の大樹となってしまったのではないかというところから、そう付けられたのかもしれない。
世界はあの日を境に、確実な変化を齎した。
光が優しく世界を覆ったあの日以降、魔物は徐々に変化し続け、最近では深い森の奥にひっそりと姿を隠すようになったと聞いたことがある。
草原や平原、浅い森は動物達で溢れ、それを愛でる者達がとても増えたと聞く。
学者でも冒険者でも、調査隊にもなれないわたしには、その詳しいところは分からないけれど、それでも確かに自身の身体で感じられるこの美しい白銀の光は、慈愛に満ち溢れたものだということだけは理解できた。
それはきっと、同じように澄み渡る青い空を見上げ、舞い落ちる白銀の雪へと手を伸ばしている子供達にも感じられるのだろう。どんなに泣いている時でも、どんなに悲しみに打ちひしがれていても、涙を止めて優しい笑顔になれる光なのだから。
でも……。
聖女様がいなくなって、もう既に十五年という歳月が流れてしまっている。
どこにいらっしゃるのかを探すのは、とても難しいのかもしれない。
本当に、世界のどこにも、いらっしゃらないのかもしれない。
……それでも――。
「この世界にいる人達は大樹が現れてから、誰も聖女様とお逢いしたことがないわ。
だからね。みんなが大きくなったら、聖女様を探してみるのもいいと思うの。
どこかの遠い、遠い空の下で、穏やかに暮らしてるかもしれないでしょう?」
そうわたしが優しく言葉を紡ぐと、子供達はとびきりの笑顔でとても元気に答えてくれた。
「そっか! じゃあわたし、おおきくなったら、せいじょさまをさがしてみる!」
「ぼくもぼくも!」
「あたしもー!」
とても元気な声を、子供達はわたしに聞かせてくれて、笑顔にさせてくれる。
あぁ、なんて可愛らしく、愛おしい子達なのだろうか。
この世界は優しさで満ちていて。
この世界は温かさで満ちていて。
この世界は幸せで満ちている――。
そうだ。
きっとどんなに遠くても、きっとどこかで幸せに暮らしてるはず。
……だって、こんなにも素晴らしいことを成し遂げたお方なんだもの。
世界はとても広い。
でも、空は必ず繋がっているんだから、きっとどこかで逢えるはずなんだ。
この青く美しい空の下で――。