"宝物"
ただただ広い草原に立ちながら、瞳を閉じて風を感じているイリス。
冬を運んでくるかのような冷たい空気を肌に触れながら、広大な大地に立つ彼女は、風の流れに身を委ねていた。
今日もとても天気がいい。
空は冴え渡り、雲は静かに流れ、風はその香りと共に冬の訪れを告げている。
肌寒くも思える気がする彼女だったが、どこか心地良さを感じていた。
青々とした草の香りが鼻をくすぐり、彼女はあのひとと一緒に昼寝をした懐かしい思い出に浸る。
「いくよー、イリスー」
ファルの声に瞳を開けたイリスは、何よりも大切な掛け替えのない仲間達の下へと駆け寄った。
居心地がよく、ずっとずっと一緒にいたいと思えてしまう彼女の家族だ。
皆のためになるのならば、たとえどんなことでもできてしまう。
そんな大切な家族だった。
歩きながらイリスは思う。
私は本当に恵まれていると。
私には私を大切にしてくれる人達がたくさんいると。
母も、父も、祖母も、師も、友人も、仲間も、先輩達も。
そしてこの旅で知り合った人達も、たくさんいてくれている。
初めてこの世界に降り立った時には考えもしなかった。
何ものにも代え難い、どんなものにも勝る、私の宝物だ。
だから、大丈夫。
きっともう、大丈夫。
魔法の効果だけでしか確認できなかった場所が、瞳に捉えられていく。
その光景に寒気すら感じてしまう巨大な穴。
いや、これはもう、穴などではない。
まるで世界の果て。
そう呼ばれた方が、いっそ正しいとも思えてしまう。
"抉られたように"という表現も、間違っているとシルヴィア達は感じる。
寧ろこれは、大地そのものが初めから存在していなかったと言われた方が、素直に納得できてしまうのではないだろうかという光景にしか見えなかった。
人はこの場所を目撃しただけで、人生観が変わってしまう程の衝撃を受けるという。
本当にそうなのだろうと、本心から思えてしまうほどの場所。
人ならざるものが創り出し、人ならざるものが世界を、そして人を救った場所。
遙か彼方の空には薄ぼんやりと山々が見えている。
恐らく世界は、この先も続いているのだろう。
もしかしたらそこに人が生きているのかもしれない。
今、自分達と同じように、巨大な場所を圧倒されるように見つめ続け、その先となるこの場所に思いを馳せているのかもしれない。
まるで物語に書かれた一説のようなことを考えてしまうシルヴィア達は、眼前に広がる大地が消失した場所を見つめ、言葉にすることなく立ち竦んでいた。
"奈落"
いつの時代かも判明していない太古の時代、天上の世界から女神エリエスフィーナがここより南の平原に降り立ち、その影響で星の中心部に存在する核から人の悪しき想いを噴き出させてしまった場所。
"魔王"と呼ばれ、人々が震撼したその現象を鎮めるため、女神の力で世界を救い、現在に至るまで"何もない大陸"を創りあげてしまった。
もしかしたらこの場所は、南にある聖域の周辺と同じように穏やかで、とても静かな場所だったのかもしれない。
魔物すらも存在していなかった、動物や植物だけの世界だったのかもしれない。
それを知ることはできないが、そんなことを思ってしまうシルヴィア達だった。
周囲には何もない場所にぽっかりと口を開けるように広がっているが、遙か先には森や岩場などが奈落の真横にまで存在しているのが目視で確認できる。
それはあまりの威力に、文字通り大地を消失させてしまっているかのようだった。
奈落まで近づくことができる限界まで、歩みを進めていくシルヴィア達。
誰もがその凄まじい光景に圧倒されたまま、口を開けずに見つめている。
その後ろに続くイリスは、奈落ではなく、大切な仲間達へと視線を向けていた。
彼女の違和感を最初に気が付いたのはネヴィアだった。
そんな気配を纏っていたのだろうかと冷静に考えながらも、イリスはネヴィアに気付かれたことに驚く様子を見せなかった。
最近では、いや、思えば最初からネヴィアは、その異変に気が付くのが早かった。
それは自分と性格がとても良く似ているせいなのかもしれない。
その意思の通った強い瞳に、全てが見透かされているのではないかと、時々思う。
「……イリスちゃん?」
それを感じるのは、いつもこんな瞳だった。
戸惑いながらも、どこか自分のしようとしていることを察してくれているようにも思えてしまう、とても不思議で魅力的な美しい瞳だった。
きっと彼女はそれを理解しているわけではないだろう。
きっと彼女はただ友人が気にかかるだけなのだろう。
だから彼女はいつも、不思議そうな表情で自分を見つめる。
それでもどこか、全てを知っているのではとも思えてしまう。
そんなところもレティシア様から受け継いでいるのかもしれない。
立ち止まりながらバッグを置き、中から何かを取り出すイリス。
仲間達の視線を集めていた彼女が手にしたのは、ひとつの小さな塊。
イリスの手に載せられた物を不思議そうに見つめながら、ファルは彼女に尋ねた。
「……それは、リシルアの元老院のおじいちゃんから貰った種?」
「はい。これは、ヴェネリオ様達から託された種子です」
なんでそんなものをと思っていた仲間達の目の前で、イリスは力を発現した。
「"命を吹き込む"」
黄蘗色の魔力に包まれる、五センルほどのとても大きな種。
優しい光が収まっていくと、今度は昨日作った宝玉を取り出し、両手に持った二つを"願いの力"で融合させた。
純白の光が収まると、彼女の手にはひとつの透き通る純白の種が残っていた。
形はそのままだが、その内部には透明な荒々しい風が吹き荒れているようだ。
愛おしそうに手の中にある種を見つめるイリスは、仲間達に話した。
「硬質化してしまったスラウの種を再び活性化させ、そこに高密度のマナが含まれた黒い石から創りあげた宝玉を"願いの力"で融合させました」
「……融合? 種を宝玉と?」
一体何のためにと言葉にするロットに、イリスはバッグを持ち直して仲間達よりも先に歩き出し、彼女を追うように、シルヴィア達もイリスの後ろを歩いていく。
仲間達よりも少しだけ先をゆっくりと進み続けながら、話を続けた。
「この世界は美しいです。
太陽も月も、風も大地も、森も水も、そして空も。そのどれもがとても美しいです。
でも、この世界には、とても悲しいことが起こり得る非情で理不尽な世界。
辛く、厳しく、残酷で、無慈悲なことが唐突に、誰の身にも起こり得る悲しい世界でもあります。
そんな世界を、私は変えたかった。
そう思えたのは、平和な世界に生まれたからだと思っていましたが、違うようです。
私はこの美しい世界と、この世界に生きる人々を、心から愛していますから」
イリスが一体何を話しているのか、理解の追いつくことができない仲間達。
だが、彼女は話を続ける。空を見上げ、とても悲しそうに微笑みながら言葉にするイリスは、まるで女神に話しかけているようにも見えた。
「穏やかに見えている世界であっても、もしかしたら同じなのかもしれません。
平和に暮らす人々の知らない場所で、人は争い、命を奪い合うものなのかも……。
それは変わらないことなのかもしれませんし、変わることなどないのかもしれません。……人が人である以上、決して覆せないことなのかもしれません……」
それでもとイリスは、優しい笑顔で仲間達に微笑みながら、言葉を続ける。
その瞳に宿る光は輝き、宝石のような美しさと、神々しさをその身に纏っていた。
「それでも私は、私達は、"人の可能性"を信じています。
"魔王"の脅威がなくなった後も、人は争うことなどなく、穏やかに、楽しく、笑顔で幸せに暮らしていけると信じています。
いがみ合うことも、蔑むことも、傷付け合うこともない、そんな優しい世界を築いていけると、私達は信じています。……だから――」
言葉を続け、バッグを地に下ろし、両手を胸の高さに上げて力を発動させる。
白銀の眩い光に包まれる彼女の手のひらの上に現れる、紙のようなもの。
現れたのは数通の封筒。
何ものにも染まらない美しさを放つ、純白の手紙だった。
出現させた手紙を愛おしそうに両手で抱きしめるイリスは、尚も歩き続ける。
奈落の傍までやって来ると、再び手にしていたバッグを下ろしていく。
セレスティアとミレイのダガーを鎧から外してバッグに立てかけ、その手前に手紙を置くと、イリスは仲間達の方に振り返る。
彼女の表情に心臓が跳ね上がる仲間達は、思わずその場に凍り付いてしまう。
「……何を……するつもりなのですか……イリスちゃん……」
そう言葉にしつつも小さく震えているネヴィアには、もうイリスのしようとしていることを心のどこかでは理解しているのかもしれない。
そんなことを思いながら、イリスは話を続けた。
「世界は未だ混沌としていて、いつ崩壊するかも分からない非常に危険な状態です。
人が人である以上、感情を抑えることなどできませんから、遅かれ早かれ負の感情を止められなくなり、いずれは"その時"が来ることになるでしょう。
初めはそう、思っていたんです。きっといつかは、そう遠くないうちに、と。
でも違ったんです。世界は本当に危険な状態で、いつ噴き出してもおかしくはないということですらなく、噴き出さないように核がずっと抑え続けてくれていたんです」
そう思うようになったのは、メルンと出逢った直後のこと。
イリスが彼女の知識を託されて、ミレイの死の原因を知った時のことになる。
当時はまだ漠然とした考えではあったが、これまでのことがあまりにも都合が良過ぎると思えてならなかった。
イリスがこの世界に降り立って未だ三年にも満たない間に、彼女の住まうフィルベルグに魔獣が出現し、石碑に導かれるように夢を見て、行く先々で危険種と遭遇する。
更には発見次第封印されているダンジョンをも体験するだけではなく、エグランダでは魔石の力をも目の当たりにことにもなった。
世界の秘密を知り、世界に何が起きたのかを知り、そのために女神が何をしたのかを彼女は知ることとなる。
"想いの力"、"真の言の葉"、"願いの力"、"想いと願いの力"。
そのどれもが凡そ常人の短い一生では入手することも、体験することもないかもしれないと思える数々の現象を、一つや二つではなく、これほどまでにたくさんの出来事としてイリスは体験してきた。
これは最早、偶然を通り越した必然であることは明らかであり、その中心ともいえる場所に何故自分が立っているのかを考えれば、そう時間をかけずに答えが出たと彼女は仲間達に話していく。
「私が前の世界で体験した最後のことは偶然でしょうが、私はこの世界に存在するものに呼ばれ、こうしてここまでやって来たのだと、ようやく理解することができました。
現実感のないあの日の出来事も、今にして思えば必然だったのかもしれませんね」
イリスは話を続けるも、その言葉は仲間達ではなく、別の誰かに語りかけるようだった。
「…………ありがとう。……もう、大丈夫。……大丈夫だよ。……待たせてごめんね」
一体何を話しているのか、彼女に尋ねようとするシルヴィア達は、突如として凄まじい揺れに足を取られ、混乱しながらも地に両手をつけていった。