"目的地"
美しい水面が煌く聖域から二日。
辺りは茜色の光が降り注ぐように、世界を優しく包み込んでいた。
いつもであれば野営場所を決め、既に夕食を作っている頃合となるが、今回そうはならなかったようだ。
魔法の効果だけでなく、眼前にまで捉えたその場所へとやってきたイリス達は、静かに佇む黄蘗色の石碑を感慨深く見つめていた。
ようやく辿り着いた達成感のようなものがシルヴィアとネヴィアに溢れてきたようで、どこか嬉しそうに石碑を眺めるふたりを先輩達は微笑ましく視線を向けていた。
だがこの場所は、エデルベルグともアルリオンとも、そしてルンドブラードとも違う場所に置かれていた。
周囲を確認するかのように見回していくロット。やはりこの辺りには森林はおろか、木ですらも生えていない平原がひたすらに続いているようだ。
そんな中、ぽつんと置かれた石碑に何も思わない彼らではない。
しかし、それよりも無事に辿り着いたことの方が、ずっと印象強く感じていた。
そしてもう一点、目に見えて気になるところがある。
これまでの石碑は縦二百センル、横百五十センル、奥行き百センルほどだった。
多少違うことはあるだろうが、全ての石碑がほぼ同じ大きさだと思われた。
更には"真の言の葉"が発現した時の色に酷似しているようだ。
だが目の前にある石碑は少々違っているようだ。
ぐるりと周囲を回り、様子を確認したファルはイリス達の方へ戻りながら話した。
「おっきいね、これ。縦三百センル、横二百センル、奥行き百五十センルはあるね」
「ふむ。やはり何らかの意味があるのだろうが、俺には良く分からないな」
「レティシア様がこの石碑にいらっしゃるのですから、エデルベルグからこちらへと移るための仕組みがこれに含まれているのではないかしら」
「確かにここはエデルベルグから相当離れてるからね。
俺達には分からない仕掛けが何かあるのかもしれないね」
そもそも石碑の仕組みすら理解できていない彼らにとって、それを考えても仕方がないだろうなと思えてしまう。
実際にその理由を知ったとしても、納得できるようなものなのかも分からないが。
ようやく石碑にやって来れたイリスは、感慨深げにこれまでの旅を振り返っていた。
この場所にエステルと来れなかったのは非常に残念だが、あの道のりでは引き帰さなければならいほど険しい道が続いていた。アルリオン側から北を目指す道がどうかは分からないが、少なくともエグランダからはセルナまで行くのが精一杯だっただろう。
寂しいが彼女と一緒に来る事はできなかっただろうと、改めて感じるイリスだった。
右手に持つボンサックを静かに地面へ下ろすと、中から一冊の書物を取り出した。
綺麗に装丁されたその本は、人の想いが込められているとても大切な書物で、アルト達には白の書と呼ばれているものの一冊となる。
ファル達猫人種には経典と呼ばれたアルトが遺した白の書は、セルナにいる彼女の母フェリエへと返却してしまったので、これはまた別の書となっている。
これを直接石碑へ持ち込めるかは試してみないと分からないが、もしそれが可能であれば、レティシアにそのままこの書を渡したいとイリス達は話し合って決めていた。
世界で一番大切に想っている人への心がいっぱい詰まっている白の書。
この本をイリス達が持つには、相応しくはないと断言できてしまうのだから。
この書を持つことができるのは、世界でもたったひとりだけなのだから。
そう思いながらイリスは胸の位置で大切そうに抱え、石碑近くまで歩いていった。
右手を伸ばせば触れられる位置まで進んだ彼女はくるりと後ろを振り返り、大切な仲間達にとても強い保護魔法に近い力をかけていく。
この魔法は"真の言の葉"ではなく、"願いの力"を合わせて創りあげた力になる。
数日程度では効果が切れることはないような、"願い"を込めて発現させてある。
以前の時のように危ない状況となることもないだろうと思えたイリスは、これで安心して石碑に行けますと微笑みながら話した。
心配をさせてしまっていることに、どこか申し訳なさを感じてしまうシルヴィア達だったが、あの時は本当に危なかったと身に染みている。
イリスの厚意に感謝しながらも、修練を続けなければと強く決意をしていた。
「それでは、いってきますね」
「ええ。いってらっしゃい、イリスさん」
「レティシア様によろしくお伝えください」
笑顔でイリスに答えるシルヴィアとネヴィア。
フィルベルグの祖となるレティシアに逢えることを羨ましく思う一方で、どこか恐れ多いとも思えてしまうネヴィアと、お逢いできれば母様がとても喜ぶだろう報告が沢山できますわねと心が弾んでしまうシルヴィアだった。
「折角の再会だ。こちらのことは心配しなくていい」
「見晴らしもバッチリだし、あたし達も"索敵"や"警報"は使えるからね。
イリスはゆっくりレティシア様とお話をするといいよー」
「そうだね。それにイリスのかけてくれた魔法も強いものみたいだから、凶種と対峙しても負けることはなさそうだ。こっちのことは気にしないでいいからね」
そう話した先輩達に感謝の言葉を伝えながら、満面の微笑を向けるイリスだった。
左手に白の書を抱え、右手を伸ばした彼女に光が集約していき、イリスはその場から消えていった。
どうやら無事に石碑へと入ることができたようだが、彼女の立っていた場所から地面に向けて同時に視線で追ってしまうシルヴィア達。
「……ふむ。やはり無理だったようだな」
「そうみたいですわね……」
「残念だけど、着の身着のままってことだね。まぁ想定はしていたけどさ」
イリスのいた場所に落ちた書を静かに拾い、付いた埃を丁寧に払っていくネヴィア。
石碑の中に持ち込めないことも想定していたとはいえ、とても大切な本が無造作に地面へと落ちる姿は中々に思う所があった彼女達だった。
夕暮れに包まれている石碑はとても幻想的で、きらきらと煌きながら宙を漂う大小様々な黄蘗色の光の玉はどこか神秘的で。
どことなく哀愁を感じさせる日の光を浴びながら、ファルは元気に話した。
「それじゃ、イリスが戻るまでに夕食でも作っておこうかっ」
「そうですわね。とはいえ、食材を切っている間に戻られるかもしれませんが」
「イリスちゃんが早めに戻られるのなら、一緒にお食事の準備をしましょうか」
そうですわねと楽しそうに答えたシルヴィア達は、バッグから調理道具や食材を取り出し、下拵えを始めていった。念のためヴァンとロットは、聞こえてくる女性達の楽しそうな話し声に頬を緩めながらも周囲を警戒する。
辺りはそうかからずに夜の帳が下りるだろう。
少々冷たさを感じ始めた風をその身に受けながら、イリスの帰りを待つシルヴィア達だった。
* *
たゆたいながら、ふわふわとした感覚を感じているイリス。
暖かい陽だまりに寝転がっているような、とても居心地の良さの中に彼女はいた。
この世界に来るのは、これで四度目となる。
正確にいえばこの場所は初めてではあるのだが、ようやく不思議な感覚とも言えるここがどんな世界かを感じ取ることができていたようだ。
それも断言することのできないとても曖昧なものになるのだが、この世界の空気ともいうべき気配は、エリエスフィーナのいる天上の世界とどこか似ているように思えた。
そしてもうひとりの自分と対峙し、夜が明けた光の世界とも同じように感じていた。
そのどちらとも細かく言えば違うだろうし、どこか同じ世界にも感じられる。
とても不思議な感覚だと言葉にするのは簡単だが、ここが一体どういった世界でどうやって創り出したのか、その欠片ですら理解することがイリスにはできなかった。
ただひとつ、これらの世界に共通して確かだと思えることは、どの世界にも光が溢れ、優しさと暖かさに満ち溢れた穏やかな世界だったということだ。
どこか生まれた世界に通ずるものを感じる。
そんなことを考えていると、女性の声がイリスの名を呼んだ。
『――来たか』
聞き覚えのある声に視線を向けるイリス。
眼前に黄蘗色の光が集約し、徐々にその姿を形どっていった。
現れた女性にほんの僅かに瞳を大きくさせたイリスは、すぐさま満面の笑みを浮かべながら、神々しく顕現した女性に話しかけた。
「お久しぶりです――」