"北の大地"
徐々に近付いていくと、その場所が鮮明に視界へ映っていく。
平原に突如として現れたかのようなそこは、確かに泉で間違いないようだ。
"周囲地形構造解析"でシルヴィア達にも理解はできていたが、それをイリスは魔法の効果範囲外の場所から泉があることを知っていたように思えた。
彼女は何故、美しい泉の存在を知っていたのだろうか。
それともレティシア達からの知識でそれを知っていたのだろうか。
問題の場所が目の前まで迫りながらも疑問がぐるぐると頭の中を巡る仲間達に、イリスは先頭を進みながら話した。
「……やっぱりこれが"聖域"と呼ばれる所以だったんですね……」
前方に手を伸ばし、何かに触れるような仕草をみせるも、仲間達には見えなかった。
何もない場所を優しく撫でるように手を上下するイリスだったが、それが何を意味しているのかだけはシルヴィア達であっても理解できたようだ。
驚愕の表情と声色で、呟くように小さく話していくシルヴィア達。
イリスの言葉でそれが何かを察したが、それを視覚を含む感覚で捉えることができない仲間達にとって、疑うことはなくとも戸惑いは流石に隠せなかった。
「……まさか、それが……そうなんですの?」
「はい。ここにそれが張り巡らされていますので、間違いないでしょうね」
そう言葉にしたイリスは、聖域全体を大きく覆う薄水色をした壁の存在を仲間達に伝えた。
正確には泉を中心に半球体状に広範囲に広がっているように見えるが、感じられるマナから推察すると、地下にも同じような壁が覆っているとイリスは話す。
つまりこの場所は、女神エリエスフィーナが地上に降り立ったことで、彼女を中心として球体状の防護壁のようなものが形成されたのだろうとイリスは結論付けた。
そしてそれは、彼女の予期せぬ事態であったことが伺える。
フィルベルグの聖域もそうだが、人里離れた場所に降り立ちながらも魔物が通らない場所を創る意味などないと思えるからだ。
その考えは恐らく、十中八九間違いではないだろう。
魔物だけ通さぬ壁に、もしかしたら彼女の"人を護りたい"という想いが反応してしまったのかとも思えるが、これは埒が明かない想像止まりとなる。
ただひとつ言えることは、彼女の予期せぬ事態が地表に顕現した時点で起こっていた、ということだ。
当然それは、女神ですらも気付かないほど水面下で動いていたことではあるのだが。
見えない壁を触っていたイリスは手を戻して話した。
「これは、超が付くほどの途轍もない力を秘めた、所謂防護壁の一種です。
とはいえ、エリエスフィーナ様であってもこれを創ることを目的としていなかったと思いますので、偶然にそういった影響が現れてしまったんでしょうね。
恐らくこれも、星を創り出した神様ではない、ということに繋がるのでしょう」
イリスの予想では、全く何が起こるか分からない影響になっていた可能性も高いのではないかと仲間達に話した。
勿論それは、顕現したのがエリエスフィーナでなければの話になるのだが。
別世界の神が彼女の他にもこの世界に存在し、もしもこの地上へと降り立っていたら、それこそ世界に亀裂が入る程度では済まなかったのではとイリスは考える。
この美しい湖のような大きな泉も、底の見えない大穴になっていた可能性もあるし、顕現した時点で世界が消滅していた可能性もあるかもしれない。
それは違うと断言できるほどの知識を持ち合わせていないイリスにとって、どうなるかの予想が付かないことほど恐ろしいものはないと、冷や汗を搔いているようだ。
泉のほとりまでやって来た彼女達は、この場所に女神が降り立ったのかと感慨深く透き通る水を見つめた。
濁りひとつない透明な泉は向こう岸までも見えるかのようで、見ているだけで心が清々しい気持ちにさせられる。太陽の日に照らされ、宝石のようにきらきらと乱反射した水面は、まるで清廉さに溢れた女神のように美しかった。
フィルベルグの聖域とは違い、周囲は何も遮るような木々もないので視界も良好だ。
魔物の気配もなく、この場所はとても神聖な場所に思えてしまうイリス達だった。
ほとりに腰掛け、休息を取っていく。
しかし、あの聖域とはどことなく違うと感じてしまうシルヴィア達だった。
「……とても不思議な場所、ですわね。
見ているだけで心だけでなく、身体まで癒されていくようにも思えてしまいますわ」
「……あたしも他の聖域には行ったことがあるけど、こんな気持ちになったのは初めてだなぁ」
「……ふむ。何かこの場所は雰囲気が違うようにも思えるな」
「何といいますか、神々しさというのでしょうか。とても荘厳な気配を感じているようにも思えてしまいますね」
特別な何かを感じ取っているのか、しみじみと泉を見つめたまま呟くように話すシルヴィア達だった。
実際にそういった場所であるのかは彼女達には分からないし、感じることもできないが、どことなくこれまでにないような印象を強く受けているようだ。
そんな中、ずっと考え込んでいたロットが話した。
「……本当にそういった場所なのかもしれないね。ここはもう奈落に近いはずだし、もしかしたらこの場所に降り立った瞬間、黒いマナが噴出してしまったんじゃないかな」
ロットの話したものは、全て彼の推察に過ぎない。
しかし、それが正しいかもしれないと思える場所が近いことが、どうしてもその思考へと向かわせてしまうのだと彼は付け加えた。
その言葉を聞きながら考えていたイリスは、そうかもしれませんねと続けていく。
「実際にこの場所はフィルベルグ近くの聖域と違って、強い力を感じます。
それも相当凄い力だと私には思えるのですが、その感覚が正しいのであれば、ここはもしかしたらエリエスフィーナ様の仰られていた眷属か、もしくは魔獣が発生する可能性がある存在を抑えるために顕現なさった場所なのかもしれませんね」
そうであれば、この大陸から離れた場所に聖域ができたとしても理解できる。
まるで加減を間違えたかのように強い力を感じさせるこの場所は、危険な存在が出現してしまい、急遽この場所へと移動した可能性もあるのではないかとイリスは考えた。
神様であれば、瞬時に世界中を移動できるのだとあのひとから聞いている。
そういったことも可能とするのなら、突如出現した存在にも対処ができるはずだ。
しかし、ここで大きな問題が起こったのではないだろうか。
眷属発生を阻止した女神エリエスフィーナは、突如大地から噴き出す黒いマナの発生を許してしまったのかもしれない。
ここはそういった場所の可能性があるのではと、イリスは仲間達に話した。
そして見たことも聞いたこともないその現象に驚愕した彼女の思考は完全に凍り付き、地表へと漆黒の雪が届いてしまったのではないだろうか。
行動に起こした時には既に遅く、多くの犠牲者を世界中に出してしまった。
噴き出すマナが何千何万どころか、何千万という人から溢れた不の感情だとすれば、それは女神たる彼女をもってしても事態を収束させるには手加減などできなかった。
彼女の残した石版にはそこまでの詳細は書かれていなかったが、それが"奈落"を生み出してしまった理由なのではないだろうかと、イリスは考えながら話していった。
古代の人々からは"魔王"と恐れられたその現象が収束しても、世界にはその爪痕がくっきりと残ってしまった。
世界に生きるすべての人々の良くない感情を吸い込むかのような、底すらも見ることのできない深さと、北大陸全土を抉り取ったとも思えてしまう巨大な大穴として。
何千年以上もその状態のまま、ぽっかりと口を開けたままなのかもしれない。
休息を終えたイリス達は、再び歩き出す。
今日は聖域で過ごすかとのヴァンの言葉に仲間達全員で決を採り、先へと進むことを選んだようだ。
確かに聖域であれば安全だが、太陽はまだ傾いてはいない。
できるだけ先に進むべきかもと判断したイリス達だった。
聖域を越えても平原が続き、穏やかな広い場所を歩いていく。
どうやら彼女達の過ごしてきたエグランダよりも南の場所は、この世界でもほんの僅かな場所なのかもしれないと思えてしまうほど、広大な大地が続いていた。
ドルトの北は森に挟まれた場所が続くと聞くし、その先には奈落が待ち構えている。
そういった点を考慮するとこちらの経路は、確かに険しい山や大空洞、絶壁のような岩山が存在していたが、それを越えてしまえば非常に住みやすい場所が広がっているようにもイリス達には思えた。
「……俺達が住んでいた世界はこの星全体で考えると、本当に僅かで狭い場所だったのかもしれないな……」
雄大にも思える起伏のない平原を進みながら、ヴァンはぽつりと呟いた。
彼だけでなく、ここにいる誰もがそう思っているようだ。
確かに目的地までの距離を考えれば、セルナから二十日もかかるのは予想していた。
それもざっくりとしたものではあるが、それくらいは離れているだろうと。
それだけの広さがあると想定して話をすることを仲間達に念を押したイリスは、それについて話していく。
言うなればそれは、この世界が広過ぎるということだ。
もしこれだけの広さの世界ともなれば、イリスの生まれ育った場所のように数多くの神々が世界を調整しなければならないのではないだろうかと考えてしまう。
それもこの星を創造した神であれば可能とするとは思えたが、恐らくこの世界はエリエスフィーナが創り変えた場所なのだとイリスは確信していた。
だからこそ不具合とも言える現象が、世界に起きてしまうのだろう。
そしてそれは、数多くの神々が天上世界で調整しなければ、世界を安定させられないのではないだろうかとイリスは考える。
この世界"エリルディール"を管理している神がもしもエリエスフィーナしかいない場合、それこそ大変な事態を招くのではないだろうかともイリスは思う。
これまでそれを感じさせてしまうような世界の広さと、女神が残した石版に書かれた内容がそのすべてを肯定しているようにも思えてしまう。
だとすれば、たとえ"魔王"が発現し、それをどうにか収束させたとしても、それはただ次の魔王の発生を遅らせただけに過ぎない、ということになるだろう。
束の間の安息を得られたとしても、根本的な解決にならない以上いずれは繰り返し、恐ろしい事態へと向かっていく可能性だって十分に考えられてしまう。
解決させられなければ、イリスが考え得る最悪の結末を導いてしまいかねない現象が、これから先もずっと続いてしまうということに他ならない。
魔物がいる以上、深い悲しみは尽きることなく広がり、そう遠くないうちに大地から噴き出す黒いマナに侵食されてしまう者が現れてしまうだろう。
ミレイのように、倒したはずの魔獣から溢れたものを浴びてしまう事も考えられる。
一歩間違えればシルヴィアも、噴き出すマナに侵食されていただろう。
そしてそれを浴びてしまったボアやリザルドのように、その身を全く異質な姿に変貌させていた可能性も考えられてしまう。
どこに噴き出すかも分からない以上、発生を予測することなどできないし、ひとたび発生すれば、その周囲にいるものに取り憑くように襲い掛かるのではないだろうか。
たまたまその近くにいたのが、ボアやリザルドだったのではないだろうか。
そんなことを考えながら、イリスは仲間達と共に目的地を目指して足を進める。
ただただ広い平原に、人のいた痕跡がないかを注意深く探しながら、そう離れてはいない石碑を目指して歩いていった。