"境界線"
魔力の限界領域と呼ばれたものが存在する事は、レティシアの知識に含まれている。
彼女に託された知識とは、渡された瞬間にその全てを知るようなものではなく、例えるのなら辞書のようなものとなる。
あるキーワードを思い起こし、頁を開くようにして情報を引き出すことができる。
残念ながら今回のこの言葉はその意味までは知識に書かれてはおらず、単語として記されているだけではだったが、前々から考えていた推察とメルンへ話した時の反応でイリスはその大凡を理解することができていた。
奇しくもそれは、彼女が祖母レスティに"過ぎた力"と言われたものだった。
魔力限界領域とは、いわば境界線のようなものだ。
それ以上踏み入ってはいけないもの。
そこから先は引き返すことのできない力の使い方と、表現するのが正しいだろうか。
マナとは、所謂精神力と言い換えることができる。
極度にマナを消費すれば、身体的な影響を及ぼす。強い眩暈や意識障害という形で。
だが、たとえ身体中のマナを全て消費したように見えても、実際にはある一定量以下まで減ることはない。意識障害程度で無事にいられるようになっているのだから。
そうしないようにと境界線を創ってくれた方がいる。
こんなことが人にできるとはとても思えない。
そしてこの星を作った神々でもないはず。
それが"魔力限界領域"。
これは本来、人がどうこう出来るようなものではない。
この力は、人ではないもっと高みの存在が創りあげなければ、不完全なものになるとイリスは考えていた。そしてそれは概ね正しいと言えるだろうと彼女は推察する。
魔力限界領域とは、天上の世界にいる女神エリエスフィーナが、この世界に生きる全ての者を護るために創って下さった、所謂"緊急措置"だ。
お優しいあのお方は、そのままにはしておけなかったのだろう。
神々に棄てられた世界と、その世界の人々を。
人の力では到底越えられないはずの境界線。
それを越えることなど、通常ではありえない。
"真の言の葉"であろうと不可能だと言えるだろう。
しかし、それも例外がある。
自らの意思で、凄まじい力の奔流を爆発させるように発現させることだ。
それを彼女は越えてしまったのだ。
ヴァンとロットから聞いたミレイの話。
空高く、まるで天を貫くかのような光の柱を彼女は発現したという。
そんなこと、とても言の葉では実現不可能だ。絶対に無理だと断言できる。
恐らく彼女はその直前、"真の言の葉"に酷似した力に目覚めてしまったのだろう。
手に入る条件と思える要因は、十分に考えられる。
彼女は充填法が扱えたのだから。
チャージとは魔法の基礎技術であり、かつての言の葉に直接繋がってしまう道の"最初の一歩となる場所に立つ"という意味でもある。
逆に言えば、その一歩となるチャージを習得したすべての人に、"想いの力"が発現する可能性が高い。そして遠からず、強大な力である"真の言の葉"を手にすることになるだろう。
更なる高みを目指し、それを最初に手にしたレティシアに続くように。
この力は、なんら特別なものではない。
誰もが辿り着き、手にする可能性を秘めた恐ろしい力となる。
だからこそ人の可能性を恐れたレティシアは、言の葉の封印を計画した。
この力の凄まじさは、先駆者である彼女が一番身に染みて理解しているのだから。
神々が棄てたと推察できてしまうこの世界は、人が力を持ち過ぎてしまい、神に届きうる強さにまで成長してしまうことを危惧してのことだったのではないだろうか。
世界を棄てた理由も、そういったことが関係しているのだろうとイリスには思えた。
そんな世界を憂い、この世界が滅びていくのを良しとしなかった別世界の女神エリエスフィーナは、神々が棄てた世界を再構築し、"エリルディール"へと創り変えた。
そういった意味では、彼女が創造神であることは間違いないだろう。
そしてそれは、何千年も、何万年も前のことになるのだとイリスは考える。
しかし、その影響は看過できないほど大きいものとして、世界に現れてしまった。
彼女が言うところの"私の大罪"と石版に記述した、黒いマナが抑えきれずに核から噴き出してしまう現象、"魔王"の出現だ。いや、発生という表現の方が正しいだろうか。
この考えはイリスとメルンが推察したものになるので、確証は得られない曖昧なものとなる。眷属と呼ばれた存在が何故いるのかと以前から疑問に思っていたが、最悪の現象を"魔王の出現"と捉えた古代の者がそう名称付けたのかもしれないと二人は考えた。
残念ながら何千年もの時が流れゆく中で徐々にその言葉は失われ、頻繁に出現する眷族や魔獣という表現のみが残ってしまったのかもしれない。
それを立証するかのように、メルンの時代では女神が残した石版に刻まれた現象についての詳細の一切は、既に存在していなかったと思われた。
これをイリスが仲間達に話さなかったのは、不用意に恐怖を与えてしまうかもしれないと考えてのことだ。確証も得られない以上、話すことはしない方がいいと判断した彼女だったが、やはり自分と似た思考を持つ彼らには通用しなかったようだ。
真の言の葉や想いの力がありふれたものだということの類は伏せた上で、仲間達に話をしていくイリス。
流石に衝撃的だったようで、絶句してしまうシルヴィア達だった。
呼吸を整えてイリスは話を続ける。
魔王と呼ぶべきおぞましい現象は、自分の生まれた世界には存在しないはずだと。
そして世界の創造主であれば、そういったこともしっかりと対策が取れただろうと。
ここにエリエスフィーナがこの星を創造した女神ではなく、後に別の場所からやって来て世界を創り変えたのだろうことを証明しているようにも思えた。
だが人は魔法という凄まじい力を、更に限界を超えて発現することができてしまう。
たとえその身を失おうとも、時と場合によっては躊躇うことなく使う者がいる。
魔力限界領域と呼ばれた、境界線を越えてしまう魔法の使い方をする者が。
レティシアの時代には、そういった者が出て来ないとは言い切れなかった。
かつて帝国と呼ばれた国が、それを振りかざしてしまう可能性が高かったと。
ここに危機感を抱かぬ者はいない。
世界には優しい者だけがいるわけではない。
だからこそレティシアは、言の葉を制限をする必要があった。
しかし、境界線を越えられてしまえば、制限などあってないようなものとなる。
その制限を確立させたのが、五人の英雄達。
レティシア達の友人であるミスリルランク冒険者達だ。
恐らく彼らが成したものは、言の葉の制限と、人の可能性を封じること。
必要以上の強さを人が持たないための制限と、人を護るための制約。
そうすることでレティシアは、世界を平和に導こうと考えた。
"想いの力"発現者が彼女達の時代とは明らかに数が少ないのは、何も言の葉の制限だけではない。そうなるようにレティシア達が封じていたからだ。そしてその結果、世界は八百年もの長きに渡り平穏が続き、彼女の想い描く安定した世界となった。
だが、女神の創りたもうた魔力限界領域を越えてしまった者が現れた。
自らの強靭な意志で人の闇の集合体とも言える"黒いマナ"に囚われた自身を打ち払った、イリスが最愛に想う姉だ。
知識と技術でその力を越えてしまったレティシアもそこに含まれるのだが、理論のみで実践はしていないはずだ。これは試すことなどできないものになるのだから。
未だ彼女に渡された知識は欠片に過ぎず、形作られていない以上それが何なのかは正確なところ分からない。しかし、その答えとなるものをメルンから教えてもらえた。
技術や知識としてではなく、答えられないという答えとして。
凄まじい力を爆発させるように放出させたミレイは、本来肉体に必要となるマナすらをも全て使い切ってしまったのだろうとイリスは考えた。
だからこそ彼女は、疲れ果てたように眠りに就いたのだと。
必要以上に力を爆発させてしまったことが、彼女を死に追いやってしまった原因。
そうしなければ打ち勝つことはできず、多くの悲しみが広がっていたことも間違いない。そういった意味では、彼女が救世主であることも事実だと言えるだろう。
では何故、そんなことになってしまったのか。
ミレイと同じような体験をしたと考えているイリスには、その見当が付いていた。
あの世界で彼女は自らそれを感じ取り、姉とは違った形で克服したように見えるが、こんなことができるのは世界でもイリスだけになることは間違いないだろう。
それも彼女であっても危険だったと言わざるを得ない。
"想いの力"と"願いの力"を合わせることで、ようやく可能としたことなのだから。
イリスは仲間達に話す。
自分でなければ、闇の世界から戻って来ることはできなかっただろうと。
メルンの結論付けた『黒いマナに囚われてしまった者を治すことは不可能である』という推論も、残念ではあるが正しかったと言えてしまう。
そしてイリスは続ける。
姉が何故、そんなことになってしまったのかを。
あの世界では、黒いマナに囚われた存在と対峙することになる。
ありとあらゆる不の感情に支配され、姉の記憶の一部を持った恐ろしい闇の姉と。
どす黒い感情に突き動かされたもうひとりの自分に、ミレイは告げられたのだろう。
彼女が何よりも大切にしている存在を滅ぼす、と。
それに近いことを言われたのだろうと、イリスは声を震わせながら言葉にした。
それが一体何を意味しているのか分からないほど、イリスは愚かではない。
ミレイは戦うことを選んだのだ。
大切な者を護るために。
つまり――。
「……お姉ちゃんは……私のために……マナを使い果たして……しまったんです……」
手で顔を覆いながら、イリスはこれ以上ないほど重苦しい声で仲間達に話す。
とても小さなその声は、色とりどりの美しい石英が乱反射する花畑に、響き渡るように悲しく広がっていった。