"大好きな風"
暖かく、とても穏やかな純白の世界に、イリスの声が優しく響いた。
「どうかな。落ち着いた?」
『うん。もう大丈夫だよ、ありがとう』
よかったと、両手に収まる白緑の宝玉へ話しかけた。
理論上は可能だと思っていたが、内心ではやはり疑念が拭い去れなかった。
恐らくこれは、世界でも初の試みとなるだろう。
"想いの力"と"願いの力"ふたつがあるだけでも可能とはしない。
そこにレティシアの構築した新しい技術の理論が必要となるし、何よりもそれを実現できるだけの力を身に付けていなければ、失敗していた可能性の方が遙かに高い。
それら全ての条件を満たしたイリスであろうと、新技術となるこの力を完成させるのは危険だったと言えるだろう。
だが一度でも構築すれば、後は問題ないとも思えた。
本来であれば様々な検証の後に修正箇所を直しつつ、補足する形で完成させる必要があるのだが、それには数ヶ月どころでは済まない時間が必要となる。
本音を言えば、完全に確立された技術ではないことに心残りが出てしまうが、この力であれば不可能を可能とする力として発現することができるだろう。
それでもまだ足りないのだが、レティシアと逢うことでそれを完成させられる。
そんなことを確信していると、穏やかな声色の声がイリスの耳に届いた。
それは、押し潰されてしまいそうなほど不の感情を背負っていた彼女とはまるで違い、静かで温かみのある、どこかで聞いたことのあるようなとても幼い声だった。
『本当にこのまま私の力を奪わなくていいの? あなたなら簡単にできるでしょう?』
「そんなことしないよ。だってそんなことしたら、あなたでなくなっちゃうもの」
『私はあなたの力と記憶の一部を持っているだけの、ただの事象だよ? それなのに力を奪わないの?
ううん、元々これはあなたの力なんだから、"奪う"じゃなくて"取り返す"だよね』
どこか申し訳なさそうに答える宝玉の中にいる少女。
そんな彼女にイリスは、とても優しい眼差しで答えた。
「そんなことできるわけないじゃない。だってあなたはもう、あなたなんだよ?」
『……そう、なのかな……』
「そうなんだよ」
『……そっか』
くすくすと楽しく笑い合う二人のイリスの声が、純白の世界に優しく響く。
何もない空間であることは、この世界に来た時からなんら変わらない。
だがこれほど心地良く、心が穏やかな気持ちになれるとは思っていはいなかった。
そんな世界を見渡すイリス達。
とても不思議な空間だと思っていると、呟くように宝玉から声が聞こえてきた。
『……綺麗な世界だね』
「うん」
『……穏やかで、暖かい光の世界』
「不思議だね。風はないはずなのに、頬に暖かいものを感じる気がするよ」
『……私の大好きな風だ』
「そうだね。あの草原で感じた、春の風だね」
瞳を閉じながら、イリスは風を感じるように意識を向けていく。
思い起こすのは、あの日の草原。
大切なひとと過ごし、大切な姉と過ごしていた幸せの時間。
もうどちらとも逢うことはできないけれど、あのひととであればまだ逢える可能性は残されている。……いや、残されていたと、イリスは考えていた。
彼女の推察が全て正しいのであれば、きっとその道も閉ざされてしまうだろう。
イリスはその時、とても大きな選択を選ぶことになる。
大切なひととの再会を果たすために歩む道か、それとは違うもうひとつの道を。
『……もうそろそろ……いいよ』
宝玉の少女はそう答え、イリスは聞き返す。
本当にいいのかと。
二つ返事で返されてしまったイリスは、それ以上聞き返すことはなかった。
それを再び尋ねることは、彼女の覚悟を踏み躙ることになるのだから。
そんな少女に、イリスはひとつお願いをする。
そうされることが分かっていたように少女は即答で返し、優しく笑った。
「――それじゃあ女神様の下へ送るね。よろしく伝えてね」
『うん。必ず伝えるね。それじゃあね、もうひとりの私』
「ありがとう、もうひとりの私」
満面の笑みで言葉にしたイリスは再び力を使っていく。
彼女の穢れない魂が、迷うことなくエリエスフィーナ様の下へと辿り着きますようにと精一杯の想いを込めて。
純白の光が宝玉を満たし、空へと溶け込むようにゆっくりとその形を失っていく。
きらきらと輝きを放つ美しい光に魅了されながら、イリスは天上へと向かう光をいつまでも、いつまでも見つめていた。