"人の可能性"
森を抜けたイリス達はその場に立ち止まり、眼前に広がる景色を誰もが口を開かずにただただ見つめていた。
草原のように見えなくもないとても広大な大地に、土台と思われるものが至る所に置かれている。果物やキノコが多く手に入る森林、東に五百メートラほど行くと大きめの川が流れていて、この場所には人為的な家の基礎と推察できるものが多数存在する。
ここにかつて街があったことが伺えるのは間違いなく、しかしルンドブラードよりも遙かに朽ちてしまっていて建造物すら既にないことを考慮すると、この街はそれよりも更に以前から存在し、あの都市よりも前になくなったのだろうと思われた。
実際にその土台を見ても専門家ではないイリス達には、時代背景や年代など歴史を紐解けるような知識を持ち合わせてはいないため、それらの判断ができない。
残念ながらここがどういった場所であったのか、どんな種族が住んでいたのか、いつの頃の街なのかですら理解できるような痕跡を彼女達が見つけることはできなかった。
何もなくなってしまった場所を、嘗て存在していたであろう街並みを想像しながらイリス達は静かに歩く。
街道のようなものは一切見受けられず、草が覆い茂ってしまっていることに寂しさを感じてしまうイリスだった。
本来草原とは彼女にとって居心地の良いものであり、心穏やかになれる場所だった。
しかし、ここには街があったはず。
それも面積の広さから想像するに、かなりの都市だったとも思えてならない。
それが現在では草原のように草が生え、優しい風に靡きながら心地良い音を奏でる。
ここに、イリスはどうしようもない寂しさを感じてしまう。
どんな人々が生活していたのだろう。
どんな都市がここにあったのだろう。
そう思わずにはいられない彼女は、ゆっくりと後ろを振り返る。
家から家へ遊びに行く子供が走っている姿を見たような気持ちになった。
きっと笑い声が絶えなかったであろうこの場所に、虚しさをも感じてしまう。
人がいなくなるということは、きっとそういうことなのだろうとイリスは思う。
家は人が住まなくなると、急激に朽ちていくという。
家とは人が管理しなければすぐに悪くなっていくのだと。
それはまるで人と共に生きているようだとイリスは考える。
であれば、都市と思われるこの場所も、そうして朽ちていったのだろうか。
まるでこの街に生きていた人の後を追うように。まるで共に眠りに就くかのように。
そうなった理由が魔物のせいなのか、それとも人同士の争いなのかは分からない。
もしかしたら、そのどちらでもない可能性だって考えられるかもしれない。
それを知ることのできないイリス達にとって、それがとても虚しく、そして悲しくも思えてしまっていた。
物には記憶が宿るのだと、イリスはあのひとから聞いたことがある。
それは草木でも同じことだが、その場にずっと居続けるものであれば、それだけ長い時間を記憶し続けるのだと。
特に石や大樹には、そういった記憶が宿りやすいとも教えてもらった。
その記憶を知ることも、伝えてもらうことでさえも、人の小さな身には難しい。
それこそ神様でもなければ不可能なことだと言われても納得してしまうだろう。
とても残念なことだと思えてしまうイリスは、もしそれを知ることができれば様々なことが分かるだけでなく、この大地に眠り続けている記憶や意思を受け取れたのなら、何か自分にできることもあるのではないだろうかと考えていた。
どうしようもなく寂しさを感じてしまうかつて街であった場所を歩くイリス達は、中央部と思われる中間の地点に辿り着いた。
土台の形状が他とは違うここは、何か特別な意味があるようにも思えた。
ここは広場のような憩いの場だったのだろうか。
それとも何か儀式的なものをする所だったのだろう。
踏み入ることなく離れた位置から見つめるイリス達。
もしこの先が儀式的なものをしていた大切な場所であれば、それは自分達が踏み入ってはいけないと思っているようだ。
空を見上げたイリスは涼しい秋の風を感じながら瞳を閉じ、かつて存在していたはずの街を想像する。
活気に溢れていたであろう街を。楽しげに響き渡る子供達の笑い声を。
ほんの少しだけ、その想いを知ることができたような気がしたイリス。
それはまるで人の心に触れたような、とても優しい気持ちになった。
イリスは思う。人の"想い"を。
そして彼女はようやく理解する。
彼女自身が使うことのできる力の根幹を。
「……そうか。だからレティシア様は……」
イリスはとても小さく呟いた。
そして彼女は考える。
彼女が何を成し、何をしようとしていたのかを。
レティシアはそのことに気が付いていたのだろうかとイリスは考える。
それを学ばせるために、自分を遠くの石碑へと導いているのだろうか。
いや、きっと彼女はそれを自ら知ってしまったのだろう。
魔法の研究をするにあたって、恐らくは疑問に思うだろうこの力のことを、彼女が知ろうとしないはずがない。
そして彼女自身もそれを手にし、更なる高みにまで昇華させてしまった。
そのことを知らねば、到達できない領域だということは間違いない。
"真の言の葉"とは、何ら特別な力などではない。
誰もが考え、その高みに至る可能性を秘めた力となる。
それは、とても特別な力でありながら、ありふれた力でもあるのだろう。
しかしそうなると、必要となるものが出てきてしまう。
だからこそ魔法書と、言の葉の制限が必要だった。
眷属出現は、確かに非常に厄介だと言える。
言葉など通じず、世界の全てを破壊しようとする存在だ。
この星の核から浄化しきれずに溢れ、"人の黒い感情"を直接その身に宿してしまった者なのだから、それも当然なのだろう。
しかしそれよりも厄介なことがあると、彼女は知ってしまった。
そして自らがそれを証明してしまったのだと悟ったのだろう。
だからこそ、仲間達にもそれを告げることができなかった。
彼女が力の使い方を仲間達に教えてしまった後だったから。
ずっとおかしいとイリスは思っていた。
何故"真の言の葉"に使用制限があるのかと。
レティシアが解除しなければこの力は使えないようになっていると言葉にしていた。
『その使い方や言葉を、例え同じ"想いの力"を持つ者に知られて使おうとしても、その者がこの力を使う事は出来ません。悪用される事は絶対にありません』
そう言葉にしたこと自体、違和感を覚えていた。
話を聞いた当時はあまり気にも留めないことではあったが、旅をするにつれてそれを強く感じるようになっていた。
魔法と呼ばれる不思議な力。
ありふれた力である"想いの力"。
そしてその直線状にある"真の言の葉"。
誰もが発現する可能性を秘めている力を抑えることなど、誰にもできないはずだ。
そんなことができるのは、神様のように人の枠を超えた存在だけだろう。
レティシアがイリスにそれを話さなかった理由はひとつだろう。
不用意にこの力の正確な情報を洩らせば、取り返しの付かないことになるからだ。
それを彼女は恐れた。そういった世界になることも含めてだが、何よりもそうさせてしまったと嘆き、絶望してしまうかもしれないイリスに恐れていたのだろう。
彼女は、死者六十万人という想像も付かないほど凄まじい被害を被った事件の発端となる眷属よりも、遙かに人間が持つ可能性が危ういと感じ取ったのだとイリスは感じられた。
"真の言の葉"であれば可能としてしまうのだ。
この世界に生きるすべての人を滅ぼしてしまうことが、現実的にできてしまう。
それもいとも簡単にそれを成してしまうだろうと、彼女は確信を持ってしまった。
レティシアはその最悪の結末を想像し、人の可能性に恐れ、封印する計画を考えた。
言の葉と、"想いの力"の発現者を。
眷属発生を阻止するためだけではなく、人の可能性を押え込むために。
それだけであれば、彼女の成したことが間違いではなかったと断言できる。
八百年間という想像も付かないほど先の未来にまで、世界に安定を齎したのだから。
しかしここに、新たな問題が起き始めていることを彼女は知らない。
いや、彼女よりもずっとずっと以前から、それは起こり始めていることだった。
メルンが見つけた石版は、解読されることなく現代まで伝えられずにいた。
到底レティシアがそれを知るとは思えないし、現に知らないだろう。
これは彼女が成そうとしていたこととは別問題だ。
女神が警鐘を鳴らした事態が起きようとしている。
この世界を一瞬で崩壊させてしまうという眷属と魔獣の存在も危険ではあるが、それともまた別の現象である黒いマナが噴き出す現象だ。
漆黒の雪を降らせ、この世界に住まう生きとし生けるものすべてを消滅させる不の現象が起きてしまえば、恐らくはそう時間をかけずして本物の女神がこの世界に顕現し、事態の収束を図るだろう。
そうなれば世界は一体どうなるのかなど、想像するのも恐ろしい。
既に女神エリエスフィーナは警告している。
いつの時代に置いたのかも定かではない石版に。
次に起きる影響が"奈落"程度では済まないだろうと。
世界そのものが消滅する可能性が考えられると。
この世界の創造主たる女神エリエスフィーナが地上に顕現できない理由。
イリスの生まれた世界で、魔法と呼ばれる不思議な力が存在しなかった理由。
"想いの力"、"真の言の葉"、石碑、魔物、眷属、魔獣、奈落、漆黒のマナ。
イリスの推察が正しいのならば、その全てが一本の線で繋がってしまう。
そして、エリエスフィーナが残した石版によって導き出される答えに辿り着く。
彼女はこの世界を、いや、この星を創った女神ではないという答えに。




