"今の私として"
ごつごつした岩場が続くこの先は徐々に高低差が増していき、小高い丘から山のように聳え立つ地形と急激になっているのが目視で確認することができた。
ここを進むのはかなりの危険が伴うのは目に見えているが、周囲を確認してみても同じような斜面となっているようだ。恐らくは他の場所も同じようなものかもしれない。
流石に危険ではあるが、戻る時間も他の経路を探す時間も勿体無いと判断したイリス達は、この先へと向かうことを仲間達と決めていく。
問題はどのくらい先まで岩山が続くのかということなのだが、魔法の効果範囲を軽く越える難所で、視界に広がる荒々しい山頂が見えていないことから、最低でも眼前の山を越えなければならないだろうなとヴァンは話し、ロットとファルもそれに答えた。
身体能力を向上させる訓練を積んでいるイリス達ではあったが、山登りともなれば話は別である。彼女達はそういったことについて、学んではいないのだから。
ましてや勾配が険しくなる地形となっているため、細心の注意が必要になるだろう。
岩山を進むにあたり、ヴァンとロットからその注意点の説明を受ける後輩達。
ファルもこういった場所は初めてのようで、三人と一緒に学んでいるようだ。
とはいえ、彼らもそう経験があるわけではない。
山ともなればリシルアよりも西か、アルリオンの北東にある程度で、そのどちらもギルドの許可なくして入ることはできないようになっているらしい。
強い魔物も出るとの噂もあるが、それよりもまず経路の安全性が確保できていないそうだ。山ともなれば貴重な薬草や花の宝庫ではあるのだが、命には変えられないし、救助に向かうことも困難なため、基本的に踏み入ることができないような場所だという。
イリスとしては薬師の観点から高山に咲く特殊な花や薬草、はたまた苔や木といったものやキノコ類などの素材が非常に役立つとレスティから学んでいて、いつかは行ってみたいと思っていたと、どこか残念そうに話した。
急な坂を進んでいくイリス達。
まだエステルでも進めそうな場所が続いているが、食事面でもドライレイクを進むのが難しかった彼女を、更にその先へと連れて行くのは非常に難しいと思われた。
当然、この先となる岩山を越えることは、現実的に不可能ではあるのだが。
大空洞ではなく北東へと進んで行った場合、それは深い森にも言えることだが、たとえそれを越えたとしてもすぐ先に広がっていた谷を越えることは厳しいだろう。
残念ではあるが、やはり彼女を連れての冒険では無理だったと言わざるを得ない。
中途半端に戻って街に置いていけば、却って彼女を傷付けることになってしまう。
彼女には悲しい想いをさせてしまったが、あの選択は間違いではなかったと強く思うイリス達だった。
次第に道は険しい斜面となり、徐々に丘のような場所へと辿り着く一同。随分と時間をかけて登ってきたが、ここから先は更に険しい岩山への入り口となっているようだ。
この場で小休憩を挟むイリス達は、あらかじめ用意しておいた保存食に手を伸ばし、食事を済ませていく。
ここより先は、そういった休憩を取れる場所がかなり限られてくるだろう。
休める時に休むというのが山登りの鉄則と言われているが、実際にはそうではないと先輩達は話した。これは数少ないながらも彼らが体感したことで、それが正しいかは本当のところ分かってはいないと口にした上で、仲間達でどうするかを決めたいと彼らは話を続けた。
「細かな休息を取れば、却って疲労感に繋がる印象を俺は受けた。
ここは一気に山頂まで休憩をせずに登りきり、その後開けた場所を探そうと思う」
「俺もヴァンさんに賛成です。もし体調不良が起こった場合はすぐに報告してもらって、可能な限り真っ直ぐ進みたいと思うんだ。少しでも体力が落ちたと思ったらスタミナポーションで回復し、魔物の襲撃にも備えた方がいいだろうね」
なるほどと頷く後輩達とファル。
ひとつ疑問に思ったシルヴィアは二人に尋ねた。
「体調不良とは、具体的にどういった症状が現れるのかしら」
「一般的には頭痛や吐き気、眩暈などの症状から始まり、熱を出す者もいるという」
「俺も含めて高山の依頼を受けている人達もその原因は分かっていないんだけど、登山を必要とする依頼を受けた人に時々見られる特有のものって聞いたことがあるよ」
彼らも何が影響しているのか分かっていないそうだ。
実際に二人が山での依頼を受けた際は、そういった状況にならなかったと話した。
しかし、仲間達の中にはそういった症状が出て、街へと戻ったこともあったという。
ヴァンはリシルア西にある山、ロットはアルリオン北東の山とそれぞれ別々の場所での話だそうで、更には二度ほどしか登山経験がないためそれほど詳しくはないらしい。
その原因を多少知る程度ではあるが、イリスは仲間達に伝えていった。
「恐らくは、"高山病"と呼ばれるものだと思います」
聞き慣れない病気にイリスへ尋ねる一同。
高山病とは、文字通り高い山に登った際起きる病気のことだと彼女は説明する。
ある一定の高さから徐々にその病気が身体を襲ってくる非常に厄介なものらしく、予防することはできないものだとイリスは聞いているそうだ。
その場合は必ず身体に変調を感じるようなものが出るらしく、そういった前兆を見過ごさなければ対処ができると彼女は話を続けた。
「ですが、高山病になるのは標高、いえ、山の高さが二千四百メートラ以上を歩く場合となるそうです。今から登る場所の山頂付近は凡そ千五百メートラほどと思われます。高齢の方であればその影響を受ける可能性があるらしいですが、問題ないでしょうね。
高山病の危険性は少ないとは思いますが、十分に注意をしながら進みましょう」
この世界では知りえぬ知識を言葉にする彼女に、素直に驚かされる仲間達。
だがこれは薬師としての知識ではなく、大切なひとが父と話をしていたのを覚えていただけなので、実際にイリスも山に登ったことも高山病にかかったこともないそうだ。
「父は登山も趣味だったので、そういったお話を時々聞いていたんですよ」
「……と、登山が趣味……。改めてイリスの世界には驚かされる……」
全くといっていいほど違い過ぎる世界に、驚きを隠せないヴァン。
山とは危険極まる場所と認識をされているこの世界では、まるで運動感覚で山を登るということすら理解できないのだが、そういった世界があることに羨ましさを感じてしまうファル達だった。
「時々、あたしは忘れちゃうんだよね。イリスが魔物のいない世界にいたってことを」
「でも本当に羨ましいと思うよ、イリスのいた世界は」
「そう思うのも、全ては魔物の存在から来るのでしょうね。……悲しいことですわ」
「……そうですね。それこそイリスちゃんの言っていたように、この世界をお守り下さる神様があまりいらっしゃらないのかもしれませんね」
とても悲しそうに言葉にするシルヴィアとネヴィア。
こればかりは、人がどうこうできる話ではない。
そしてそれはこれからも変わることはないだろう。
この世界は続く。
悲しみと理不尽さの中に不条理さを秘めて、人々に無慈悲に襲い掛かり続ける。
そして、いつ覚醒するかも分からない魔人や魔獣の出現という終焉に怯えながら。
それを知る者は、もうこの世にイリス達しかいない。
イリスの書いた手紙によりフィルベルグとアルリオン、そしてリシルアの上層部にいる者達へは伝えてあるが、大きな混乱を招くだけのそれを公にすることなどできない。
だからこそ焦がれてしまう。
だからこそ羨んでしまう。
イリスのいた平和で安らぎに満ちた、穏やかな世界を。
そしてイリスは再び思う。
あの世界は、本物の"楽園"であったのだと。
神々が天上と大地から見守り、争うことなく奪うこともなく、穏やかに暮らす世界。
これのなんと凄いことなのだろうかとイリスは考える。
きっとあの世界にいた神様達は、私が想像もできないほどの長い時を生き、多くの悲しい世界を見続けていたのだろう。
思い出すことだけで涙が出てしまうような、とても悲しい世界を沢山、沢山……。
だからこそ、平和な世界を望んだ。
そして創りあげた。神様達が想い描く、最高の理想郷を。
それがあの、優しく穏やかな光溢れる世界だった。
……あぁ。
世界を離れることでしか、そのことに気付かなかったなんて……。
私は、なんて幸せな時間を過ごしていたのだろうか……。
イリスは考える。
きっとあのひとの笑顔の奥には、それと同じくらいの悲しみを背負っていたのだと。
もう一度逢う方法などまるで見当も付かない。
それでも、もう一度逢うことができたら、今度は色んな話を聞きたいと思えた。
自分のいた世界のことだけでなく、多くの世界のことを。
楽しいこと、嬉しいことだけでなく、悲しかったことも辛かったことも。
決して聞くことはできなかったあの頃の自分としてではなく、少ないながらもこれまで経験してきた今の私としてそれを聞きたい。
そうイリスは強く思っていた。
「そろそろ出発しましょうか」
イリスの問いに頷きながら、一同はそれぞれ言葉を出していく。
目指すは山頂。魔法の効果によれば、ここからは凡そ千四百メートラほどの標高だ。
ブーストを使えば大して疲労はないと思われるが、それでも落石と魔物の襲撃に警戒を強めながら進まなければならない。
魔法をかけ直し、イリス達はゆっくりと静かに岩山を登っていく。
その先にどんな景色が広がるのだろうかと思いを馳せながら。




