強さの"根幹"
「それじゃあいくよ、おばあちゃん!」
魔力を込めていくイリス。次第に風となり力が溢れてくるが、ここまでは昨晩と同じだ。目に少し力を込めるように意識を集中し、魔法を詠唱するイリス。
使う言の葉は〔盾〕、属性は風だ。
「風よ、盾となれ!」
イリスを覆っている魔力が次第に一点に集中していき、大きくて立派な魔法の盾を形成した。
* *
ふたりは食後のお茶を飲んでまったりした時間帯になっていた。食事中から話していた今日あった事を聞いていたレスティが、まさかすぐ後にあれほど驚く事になるとは、今のレスティには気が付きもしないことではあった。
「私は行った事がないけれど、ギルドの地下にそんな施設があるっていうのは聞いたことがあるわ」
話題は訓練場のことだった。イリスはあの場所で様々な事を学べた気がする。
「まぁ、能力的なものが増えた訳じゃないんだけどね」
そう苦笑いをしながらもイリスは楽しそうであった。だが特にあの場所で訓練をしたわけではない。盾というものについて勉強は出来たが、身体能力など何一つ上がっていないのだから。
しいて言うのならば、盾を持って疲れたくらいだろうか。それも前向きに捉えるのなら、自らの身体能力の低さに理解できたと言えなくもない。それは詰まる所、イリスの腕力がへなちょこと同義でもあるのだが。
訓練場であった事を説明していくイリス。最初は魔法の盾の話からロット達との話、レナードとオーランドの模擬戦を含めて。
順序は遡る事になっているが、問題はそこではない。最近ずっとイリスに驚かされっぱなしの気がするレスティではあったが、さすがにこれには相当驚かされたようで、大きく目を見開いていた。
イリスは模擬戦用の囲いに盾を置きながら、しゃがんで盾を手でなでたり、こんこんと叩いていただけだと言う。傍から見れば、ではあるのだが。
盾をじっくり見つめながらこんこん叩くだけ。そのような事が魔法の修練になるなど聞いたことがない。そもそも練習場をそんな使い方する人物は、世界広しと言えども恐らくイリスだけだろう。
「――でね、オーランドさんは最後の一撃を出したんだけど、レナードさんの盾で弾き上げられちゃったの。それが決定打になったみたいで――」
「――イリス」
話の途中でレスティが入ってきた。どうやらイリスの話の途中で堪り兼ねたらしい。どうしたのだろうかとレスティの言葉を首をかしげながら待つイリスだったが、彼女は少々考え込んでいるようで、そのままイリスはお茶をゆっくりと飲みながら大人しく次の言葉を待つことにした。
大分考え込んでいたレスティは、どうやら考えが纏まったようでイリスに話しかけた。
「イリスのすごい所は、物覚えの良さからくる賢さと、何者にも負けない集中力、それに鋭い洞察力に通ずる学習能力の高さなのね」
しみじみレスティは話しているが、そこにいつもイリスが思い続けている"探究心"を足していくと、どう考えても学者コースへ一直線なのだが、これを言うとこの子はへこんでしまうため、その言葉は割愛したレスティであった。
もちろんイリスの強さはそれだけじゃない。いや、それどころではない。それに彼女は気が付いてしまった。
そんな事とは知らないイリスは可愛らしく言葉を返していく。その顔に優しく微笑んでしまうレスティであった。
「そうなのかな? 私としては自覚なんてないんだけど」
「うふふ、大抵そういうものだと思うわよ」
レスティはイリスの凄さの秘密をほぼ正確に理解しつつあった。恐らく、という言葉がつくことではあるし、正解などわかりようがないのだが。
イリスの凄さは、単純な真面目さや賢さから来るものでは決してない。いくら頭が良く物覚えが良いとはいっても、所詮は13歳であり、その能力の高さは高が知れている。これほどの凄さなど絶対に見せないはずだ。
本来であればこの子は、前の世界でのんびり静かに暮らしていた子のはずだ。父の手伝いをしながら、母と一緒に料理をし、大切なひとと家族四人で暮らす。これが彼女の日常であり、何も変わらない幸せな日々になっていくはずだった。
ならばなぜ、こんなにも凄い子になってしまったのだろうか。それは恐らく、大切な両親と大切な女神様との別れによるものなのだろうとレスティは思っている。
大切な人たちと離れた世界、知る人が誰もいない世界、聞いたこともない世界、魔物という未知の脅威がいる世界。
それがどれだけ恐ろしく、不安で、寂しいことなのだろうか。どれひとつをとっても、普通の子であるなら涙のひとつでも見せるのが当たり前だろう。
だが、この子は一切それを見せない。見せる事がない。そうだ、この子が涙をするのは自分のためではなく、誰かのためだ。誰かを想う涙。とても美しく優しい、尊い涙だ。そういう子なのだ、この子は。
だからこそレスティは不安に思ってしまう。この子は自分の為に泣く事が出来ないのではないだろうかと。
大好きな人たちと離れ、独りで生きて行かなければならないと心を入れ替え、甘えた感情を捨て去り、見覚えのない場所に向かう。
いや、話を聞いた限りでは、放り出されるような感覚なのかもしれない。世界を渡るきっかけとなったのは、イリス曰く"何か"に襲われたという事だ。
恐らくそれは、魔物のようなものに襲われたのではないだろうかとレスティは考えている。そして世界を渡らざるを得なかったのではないかと。誰一人として自分を知る人がいない世界へ。
いくらこの世界の常識や知識を授けて貰った所で、不安な心を取り除く事など決して出来はしないはずだ。それでもこの子は笑顔で頑張っている。
これのなんと凄い事なのだろうか。いくら女神様との約束という目標があったとしても、これだけ前向きに前へ進もうとする気概そのものが、そもそもありえないほど凄いことだとレスティは感じていた。
甘えず、たった一人で生きていくと誓った揺るがない決意。きっとこれが彼女の強さの根幹だ。
もし私と出会えなかったとしても、この子は必ず前に進んでいたはずだ。それほどの強さを、輝きすらをも感じさせる子だ。そこにはきっと、私ではない誰かが大切な人として傍にいるのだろう。
そう思うと、私はこの子にただ救われているだけなのかもしれない。たった独りで生活をしていただけなのに、こんなにも寂しい思いをしながら生きていくのはもう無理だと思えるほど、イリスの存在が大きくなりすぎてしまっている。
なんて情けないのだろうか私は。こんなに小さな子が頑張っているというのに。五倍近くも生きている私が立ち止まって歩けずにいたものを、この子はひたすらに前を見続けているかのように今を歩いている。
だけどそれは逆に言うのならば、生きるのに必死とも思えてしまう。必死に生きて、必死に暮らして、必死に学んで、必死に前を進んでいるような気がしてならない。
そんな気持ちがいつかは押し潰されてしまうのではないのだろうかと不安に苛まれてしまう。それがいつの事かはわからない。大人になったずっと先の事かもしれない。20年後の事かもしれない。
でも今、確実にそれが訪れつつあるのではないかと思えてしまう事が、すぐ目の前にまで迫りつつある。
だが、もう止める事は出来ないだろう。彼女は強く決意してしまっている。そしてその事も大切な人の為にだ。この子は本当に自分の事よりも人のことが大切なのだろう。それを何よりも優先してしまう、とても優しい子なのだから。
博愛の精神といえば聞こえは良いが、それは一歩間違えば自己犠牲に繋がってしまう事もある。それが何よりも私は怖い。この子はきっと誰かを救うためならば、自身の命すらをも懸けることを厭わないのではないだろうか。
冒険者を目指し世界へと旅立ってしまう場合、その危惧している事がとても増える気がしてならない。
イリスは嫌がっているが、私は研究者の道を進んで欲しいと思っている。それならば、街から出る機会も少ないだろう。命の危険からはかなり遠ざかるはずだ。
イリスが望むのならこの店をあげてもいい。薬屋じゃなくて別の店にしてもいい。本気で望むのならば、私は喜んで店を譲り渡すだろう。
でもこの子はきっとそれを望まない。ここは私の大切な店だと思っている。確かに少し前まではそうだった。この店をジルベールさん達に託されてからずっと守り続けてきた。
だけどそれもイリスと出会って変わってしまった。この店はもう守り続けるだけの店ではない。ここは、この子と共に暮らす家なのだから。この子が笑って暮らしてくれる家なのだから。
そしてそれも、この数日で変わってしまうのではないだろうかと、レスティはそんな予感すらしていた。いや、ミレイも同じだ。恐らくここが、イリスにとっての大きな分岐点になると思っている。
レスティもミレイも、イリスが平和な世界の出身者だという事を知っている。だからこそ思う。早すぎると。もっと大人になってから決めればいい事だと。
今はじっくりなりたいものを考える時期であり、冒険に出るのは、いや、冒険ですらないのかもしれないのだが、それでもその感情と対峙する事となってしまう。それはきっと早すぎるんだと二人は思っている。
レスティはここ十数年女神に祈った事がない。ブリジットのようにある時期から祈る事をやめたからだ。だがイリスと出会って、再び女神に感謝するようになった。巡り会わせてくれたことに。この幸せで彩られた暮らしを与えてくれたことに。
願わくば、どうか最愛の孫が悲しむ事の無いようにと、切に願うことしか出来ないレスティであった。
「――おばあちゃん?」
イリスの言葉にはっと気づき、深い思考から戻ってこれたようだ。
「あらあらごめんなさいね、なにかしら」
平然を装い微笑みながらイリスへ答えていくレスティ。イリスには気づかれていないようだ。こういう所は年齢相応なのよねと目を細めてしまう。
「それでね、新しくできた盾を見てもらいたいの」
「うふふ、いいわよ。でも随分自信ありそうね?」
「今度のはきっといい魔法になってるはずだよっ」
少し胸を張りながら話すイリスに、可愛らしさと頼もしさを感じたレスティは、なかなかいい魔法になったみたいねと、今はそう思っていた。今は――。
* *
そして現在、そのあまりの完成された盾にレスティは目を剥いてしまっている。それはそうだ。なにせ、魔法盾の練習を始めたのは昨日の、しかも夜の事だ。イリスの魔法の練習にレスティは最後まで付き合っていたが、どれも納得がいくような魔法ではなかった。
それがたったの半日どころか、そこまで集中できる時間が無かったと思われるのに、この完成度は凄すぎると驚愕していた。そしてそれは、レスティの力の範疇を超えてしまっている。
すぐ近くを見ると可愛い孫はえへへっと頬を少し染めながら笑っているのだが、こちらは全く笑えないでいた。
ど、どういう事なの? そんなに簡単に魔法が強化できるはずがない……。言の葉を増やしたの? いいえ、それはないわね。詠唱は『風よ、盾となれ!』という短いものだった。
ここには属性である〔風〕と、〔盾〕という言の葉がひとつのみしか含まれていないはず。それにこれは昨日と全く同じ詠唱のはず……。どういうことなの……。
レスティは今、混乱していた。