"私ではない誰かと"
話を終えたイリス達はアデル家へ向かうと、既にテランスは彼女と歌の打ち合わせをしていたらしく、後はイリス達と合流するのを待って出立するだけとなっていた。
広場に出ると、昨日よりも更に多くの観客がいた事にイリス達は驚き、朝にも拘らず五十人は軽くいるだろうかという大人数に戸惑いを隠せず、立ち止まって呆けてしまっていた。
そんな彼女達を温かい拍手で向かえてくれる人々に、目を丸くしつつもその中心へと歩み進むアデルは、ヴァンの置いてくれた椅子に座り、歌う準備に入っていく。
すぐ横にはリュートの調整をしながら、彼女の準備を待っていたテランス。
昨日、彼女が奏でた唄は、未だ嘗て感じたことのない衝撃を受けるほどの素晴らしいものだったことを、彼は思い出していた。
あれほどまでの唄を聴いたことがない彼には、ある予感があった。
アデルの唄が、日に日に巧くなっていくのではないだろうかと。
こんな感覚は彼も感じたことなどないし、聞いたことすらない。
それでもある種の予兆のようなものを感じていたテランスだったが、それが確たるものとして確信できるほどの唄を、今朝のアデルは奏でてしまった。
その声は最早、人の身で出せるとは思えないほどの美しさと神々しさ、生命の輝きに満ち溢れた力強さを感じるとても不思議なもので、聴いた者に活力を与えるような歌声でありながらも、どこか儚さを感じさせるとても神秘的なものだった。
唄が終わった後、聴いていた者達は拍手する事も忘れ、彼女の唄に酔いしれていた。
この時を境に、聴衆が一気に増える事となる。
聴いた者が別の者へと言伝で話し、それをまた違う者へと伝えていく。
三千人を超えるとても大きな街とはいえ、噂が広まるのには半日もかからなかったようで、昼食後、そして夕食前と、どんどんと人が増えていき、翌日になると軽く二百人は超えるほどの盛況ぶりとなっていった。
これを予想などしていなかったアデルは、自分の唄を聴いてくれる人がこれだけいてくれることに喜びと幸せを噛み締める一方で、歌詞のない歌を唄うことに申し訳なさも感じるようになっていた。
「考え過ぎだよ。アデルの唄は本当に素敵なんだ。
歌詞なんて、なくてもいいんだよ。君が唄ってくれるだけで十分なんだ。
そんなアデルの唄を聴きに来てくれるから、あんなにも広場が人で一杯だったんだ。
君は自由に、思うがまま唄い続ければ、それだけでいいんだよ」
優しく心地良い声色が、彼女の耳に届いてくる。
あぁ、なんて優しくて、心に染み入るような言葉なのだろうかとアデルは考える。
きっとテランスの声もまた、特質的なものを持っているのかもしれない。
彼は吟遊詩人を目指しているのだから詩は必須となるが、彼であれば素敵な詩を紡ぐことができるようになるとアデルは信じていた。
だってこれほどまでに、私の心へと響く言葉をかけられるんだもの。
そうアデルは心で思いながら、彼が傍にいてくれるからこれだけの歌が唄えたのだと感じていた。
テランスがずっと傍にいてくれたから、私はこれほどまでに人に届く歌声を奏でる事ができているのだと。
彼は私を大切に想ってくれている。
誰よりも、何よりも大切に想ってくれている。
一人の女性として、私に尊い気持ちを向けてくれている。
彼の音がそう言葉にしている。
"貴女を愛しています"と、音が言葉にしてくれている。
……ありがとう、テランス。本当に嬉しいわ。
ツィードに来てからずっと面倒を見てくれていたわよね。
迷惑ばかりかけている私に、それでも笑顔で手を差し伸べてくれていたよね。
…………でも。
……ごめんなさい。私は貴方の想いに応えてあげられない。
……私はもうじき、貴方を置いて去らねばならないから。
きっと貴方を絶望させてしまうほどに、悲しませてしまうと思うから。
貴方の想いに、私は応えてあげられない。
でも、きっと大丈夫。
貴方は優しくて、とても魅力的な男性だから。
私よりもずっと素敵で、貴方を幸せにしてくれる女性が必ず現れるから。
その女性は、私よりもずっと綺麗で、魅力的で、何よりも元気な女性だから。
必ず貴方は幸せになれると信じているから、大丈夫よ。
……もし、生まれ変われる事があるのなら、その時は……。
……ううん、そうじゃないわね。
もし生まれ変われる事があったとしても、貴方は私ではない誰か、貴方を幸せにしてくれる女性と、ずっと笑顔で過ごして欲しい。
私ではない誰かと穏やかな暮らしの中で、ずっと幸せに過ごして欲しい。
……あぁ、女神様。女神アルウェナ様。
……どうか、ここにいる素敵な男性に、貴女様の祝福をお与え下さい。
……自分のことよりも大切な人に優しさを向けることのできる彼に、どうか祝福をお与え下さい……。
それはとても純粋な祈り。
自身が幸せになる事よりも、大切な人の幸せを心から願う、とても純粋な祈り。
誰よりも、何よりも大切な人だからこそ、その人の幸せを願う、清廉な祈りだった。
しかし、彼女の祈りが女神アルウェナに届く事はない。
彼女は石碑に、今も尚存在し続けている女性なのだから。
だが、もしかしたらその純粋な祈りは、アルエナではなく、女神エリエスフィーナへ届くかもしれない。
それを知ることも、感じ取ることも、この世界の住人にはできないと思われるが、それでもアデルは祈り続けた。自身のためにではなく、大切な人のために祈り続けた。
その想いが伝わったのは、彼女の表情を見つめている一人の女性だった。
純白の鎧を身に纏う女性は、アデルの気持ちが手に取るように分かった気がした。
それはとてもとても不思議な感覚で、こんな事今まで感じたことのないものだった。
そんな彼女は、アデルと同じように祈っていく。
それは彼女の祈りとは違うものではあったが、その祈りもまたとても純粋なもので、自分自身のためのものではなかった。




