"走り過ぎていた"
魔法剣の使用方法をイリスから学び、軽めに修練をしていた頃、窓の外は既に美しい夕焼け色に染まっていた。
随分と長時間部屋にいた様で、夕方になっていたことに気付かなかったイリス達は思わず苦笑いをしてしまいながら、訓練はこれくらいにしましょうかと言葉にした。
今後の予定を話し合う中、ふと思い出した様にシルヴィアはイリスに訪ねていく。
「そういえば、グラディルを倒してその場を後にする時、グラディルの方向を見ていたようですが、何か気になる事でもあったのですか?」
あの時のイリスは、何かを確認したかのようにも見えたし、またしても危険種が現れたのかといった表情にも見えた彼女には、それがなんとなく気になっていたようだ。
しかし当のイリスにも別段これといった理由はなく、なんとなくグラディルの方が気になったのだと言葉にしていった。
ただひとつだけ、とても曖昧ではあるが、何かが見えたような気がしたとイリスは話を続けていく。
「あの時グラディルの体から、何かが抜け出たような気配を感じた気がしたんです。
とても曖昧でしたし、これといった確証もないので話さなかったんですが」
彼女の思いがけない言葉に、心臓がどくんと大きく跳ねてしまうヴァンとロット。
最早トラウマともなっている光景を目の当たりにしてしまった彼らには、少々思い当たる節があったが、それを言葉にしていいものかと悩んでしまう。
だが、黒い靄のようなものは、一切出ていなかった。
それだけで判断するにはいささか早計ではあるものの、異質な相手にどうしてもその可能性を捨て切れない彼らは、彼女達にそんな気持ちを悟られないように口調と表情を平静に保ちながら言葉にしていった。
「ふむ。マナの残滓のようなものだろうか」
「ブーストに通ずるような力を使っていたし、考えられる事かもしれませんね」
「マナであれば肉眼で見えないはずなので違うとは思うのですが、なんていうか、とても形容し辛いんですけど、ゆらゆらと空間が揺れていたような感じでしょうか」
「一体何でしょうか。今まで聴いた事のない現象に思えますね」
「あたしもないなぁ。知識にもないみたいだね。とはいっても、アルト様の託されたものには魔物の事が全く入ってないから、答えようがないという方が正しいけど」
「あら? 戦うための方法ばかりが記されているのかしら」
不思議に思いながらもファルに尋ねるシルヴィアに、彼女は答えていった。
どうやらアルトの遺した知識には、レティシアの遺した知識よりも更に限定されたものとなっていると思われるのだと彼女は言葉にする。
中でも覇闘術と戦闘技術、修練法といったものばかりが目立ち、次いで充填法や魔法、言の葉についての知識などが含まれたものとなっているそうだ。
ダンジョンの相当深い場所まで辿り着いたと思われるアルトだったが、その知識に関しての一切も含まれていないようで、思わず首を傾げてしまうファルだった。
「どんな戦闘技術にも、魔物に合わせての戦い方ってものがあるからね。
あたしもそれなりに魔物との戦いの経験はあるけど、それでも知識はいくらあっても足りないくらいだから、いらないなんて事はない筈なんだけどなぁ」
「情報が多過ぎても混乱してしまう事もありますけど、私も無いよりは沢山持っていた方が安心できますね」
ファルの言葉に同調するイリスではあったが、彼女の持つ魔物の知識はそれだけでも十分過ぎるのではと思ってしまうヴァンとロットは、それに答えていく。
「俺達からすると、イリスの知識は既に魔物学者並のものを持っていると俺は思うぞ。それがたとえ本の暗記しているものであっても、実物を見てそうだと判断できるだけで十分に凄いことだからな」
「そうですね。俺も情報の少なさから来る不安感が嫌だから勉強したところがあるけど、流石にイリスほどの知識は持ってないなぁ」
「イリスちゃんは頑張り屋さんですから、私達も見習わないといけませんね」
優しく笑うネヴィアの言葉に母の想いが重なるイリスは、とても温かな気持ちにさせられていた。
そして同時にイリスは思い出す。
自分がこれまで、特にこの一年半は、頑張り過ぎていることに。
そうだ。母は言ってくれていた。これ以上頑張らなくていい、と。
そうせざるを得なかったし、自分自身がそう望んだ事ではあったが、少し走り過ぎていたのかもしれないと、ネヴィアの言葉から思わされてしまった。
それは激闘と言えるほどのダンジョンでの事があったからだろうか。
ここに来て、少しだけゆっくりと歩いて行きたいと思ってしまったのは。
そう思わせてくれたのは、素敵な花に囲まれたツィードだからなのだろうか。
そんな事を考えているイリスにシルヴィアの声が静かに響いてきて、意識をそちらに向けていった。
「先ほどギルドにいた時に少し気になったのですが、どうやってギルドランクが決められているのかしら。信頼や実績が関わるのは分かるのですが、エドさんのお話ではこの街で決めていないようにも聞こえましたし」
「あぁ、それはあたしも昔、気になった事だから憶えてるよ」
冒険者が上げた功績は、冒険者ギルドに集まる情報を統括する組織が置かれている、エークリオ冒険者ギルドへと世界中から集められ、審議会の中でそれが決められているのだとファルは教えてくれた。
流石に普通の冒険者がそこに入る事も、その場で話を聞く事も難しいそうだが、決定された内容はそれぞれの冒険者が所属するギルドへと送られ、報告を受けたのちにランクが昇格する、といった仕組みになっているそうだ。
中には冒険者ランクが降格されることもない訳ではないのだが、これに関しては余程のことがない限りはまず起きないらしい。
今回のファルの件で、ホルストたちがもし虚偽の報告をギルドにしていた場合はそうなっていた可能性も高く、最悪の場合、最も重い処罰である除名が言い渡されていた事も十分に考えられた。それもダンジョンと無関係であったのなら、厳重注意で済むこととなるだろうが。
そういった場合は、エークリオギルド審議会からの正式な通達がされるまで、拠点にて待機という名の謹慎をし、冒険に関わるような事を全て禁じられるだけでなく、拠点となる街から出る事が許されない状態となる。
ツィードだけでなく、ニノンやエルマ、ノルンなど、これまでイリスが訪れた街のギルドは、冒険者がその街にいる間に上げた功績を含む詳細を、エークリオ冒険者ギルドへと報告する決まりとなっているが、これは義務ではないらしい。
実際にエルマでの事で言うならば、ギルドマスターのタニヤがエルマ評議会でギルアムの件を話し合い、報告を送らない方向で可決した事をイリス達は知らなかった。
エークリオギルドへと報告しなかったのも、当然と言えば当然だろう。
彼女達は危険種を二匹も倒してしまっている。たったの五人という少人数で。
この件をもしエークリオへと報告してしまえば、世界中を揺るがす大事件として、
世界中のギルドへと情報が送られる事となり、そう遠くない未来にイリス達がエークリオ冒険者ギルドからの招集を受け、事の真偽を尋ねられるのは目に見えていた。
もしそんな事になれば、目立つ事を良しとしない彼女達にエルマでの恩を仇で返す事となるのは明白であり、評議会でこの件が話し合われるも、一瞬で可決されていた。
最早、議論にすらならないで便宜を図ってもらえたことを、彼女達は知らなかった。
そして、大きな国であるフィルベルグ冒険者ギルドには、ロナルドがいる。
彼は冒険者の意向をしっかりと聞き入れてくれる人物で、プラチナランクであるロットもヴァンも、必要以上に依頼をしないようにと抑えてくれていた。
これに関しては正確には彼らの希望だけでなく、ロナルドの信念ともいうべきものから、プラチナランク冒険者に頼らずとも襲い掛かるであろう危機を乗り越えられるようにと、若手冒険者育成に尽力していた彼の使命感のようなもののお陰も大きいのだが。
そんなロナルドの評判は上々で、彼の冒険者に対する扱いを人づてに聞いた熟練冒険者達が、徐々にではあるものの拠点をフィルベルグに移しつつあった。
その中にはプラチナランク冒険者達も含まれ、既に数名はあの国へと移籍しているようだが、これらのことをイリス達が旅先で知ることはなかった。
アルリオンも含めてだが、大きな国の冒険者ギルドは余程の事でもない限りは、所属している冒険者の情報をエークリオギルドに送ったりはしない。
危険種が関わるとなれば話は別になるが、基本的に冒険者の情報を報告する際は、その者のランクが昇格するのに十分なほどの経験や功績を上げたとギルドが判断した場合に送る事となっているようだ。
そして、その国や街に所属していない冒険者の場合も、同じように送る事はない。
余程の功績を上げた場合、たとえばダンジョンと思われる場所を発見した、という事でもなければ、報告をする必要性もないと各ギルドに判断されるだろう。
それこそ大量に魔物を倒し、その素材をその街に持ってくる事でもしなければ、所属していないギルドで冒険者ランクが上がることは少ないと言えた。
問題は、危険種討伐に参加してしまった場合だ。
当然それも、その戦闘においてどれだけの武勲を上げたかにもよるのだが、そもそも危険種と対峙して生き残っている時点で誉れ高いと言えるほど、それらは文字通りの危険な存在となっている。
それを討伐したとなれば、所属していない街であろうが関係なく、エークリオへと情報が届く事になるだろう。ましてや今回は、街門で警備をしていたレグロとベラスコの二人に戦いぶりを見られてしまっている。
視認できるとは思えないほど遠かったはずなので、真の言の葉を見られた訳ではないだろうが、それでもその武勲はすぐにでもツィード中を駆け巡る事になるとヴァンとロット、そしてファルの三人は考えていた。
これまでイリス達はロナルドにシルバーランク冒険者で留めて貰えていたので、恐らくはゴールドランク止まりとなると思われるが、危険種討伐ということで、一気にプラチナランクへと昇格する可能性もないとは言えないかもしれない。
もしそんな事となれば、六名全員がプラチナランクという異質過ぎるパーティーとなり、世界でも唯一のチームとして世界中へとその存在が知られる事になるだろう。
そうなれば旅がし辛くなり、どこへ行っても注目の的になりかねない。
可能な限り目立ちたくないという彼女の希望とは裏腹に、徐々に名声が留まる事無く上がり続けていくのを、ただ見守る事しかできないヴァンとロットだった。




