"前に進め"
……暖かい……。
……ここは、ここはどこだろう……。
……どこかで感じたことのある場所のように思える……。
……かぜ? 風の……風の音が、聞こえる……。
……暖かい風が、優しく頬を撫でている……。
……穏やかに触れる、春の風だ……。
……草の揺れる音が聞こえる……。
……草原。……そうだ、ここは草原だ……。
……あの日の草原だ……。
……そうだ。わたしは、あの日、確かに手にしたんだ……。
……大好きな姉に護られながら、確かに手にしたんだ……。
……大切な事を姉から学び、それをわたしは手にしたんだ……。
「ホーンラビットについては勉強してる?」
穏やかな風が、優しく頬を撫でる午前の草原。
傍にいるのは優しく美しい姉。イリスが大好きな姉だ。
優しく微笑む姿も、楽しそうに笑う姿も、どこか遠くの空を見上げている姿も、涙脆く、真っ白で綺麗な耳をへなへなにして、ぽろぽろと大粒の想いを零してしまう姿も、言葉に出来ないといった表情を浮かべる時でさえも。
そのどれもが愛おしく、何よりも美しく、誰よりも憧れていた。そんな最高の姉だ。
今にして思えば、唯一、姉の前でだけ、私は子供で居られた気がする。
おばあちゃんの前でも、これほど私は無邪気になれていなかった気がする。
何も知らない世界で生きていくと強く決意して、寂しさに押し潰されそうな心を抑え付けて、それでも前に向かって歩いて行く事をひたすらに頑張って来たけれど。
姉の前でだけ、私は、普通の妹として居られていた気がする。
そんな素敵な姉に、私は答えていく。
今はもう、遠いあの日に思えてしまうほど、遥か遠くの空の下で。
思えば、この時が初めて魔物について勉強し、それを誰かに説明した時だった。
本で学んだ知識をそのまま伝えただけなのに、優しい姉は笑顔で応えてくれた。
言葉にはしなかったけれど、『よく勉強しているね』って笑顔で返してくれていた。
本当に嬉しかった。
あの頃はまだ、綺麗なお姉さんで頼もしい冒険者さんという印象が強かったけれど、褒められるためにホーンラビットの勉強をした訳ではないけれど。
それでも、そう思ってくれているだけで、とても嬉しく思えた。
だからかもしれない。魔物についての推察が足りなかったのは。
もう少しだけ思案していれば、思い至っていた事なのかもしれないのに。
あの時に感じた恐怖は、今も心にこびり付いたまま離れていない。
もしかしたらこれはもう、無くなる事はない感情なのかもしれない。
それでも私は、前に進む事が出来た。
大切な姉が、大好きな姉が、ずっと傍で見守っていてくれたからだ。
あの時の私は、姉さえいれば、どんな場所にでも行ける気がした。
大好きな姉さえ傍にいてくれるのなら、どんな事でも乗り越えられると信じていた。
…………でも。
……そうだ。
……あの、雨の日に、私は誓ったんだ。
……強く、強く誓ったんだ。
前に進む事を。
どんなに苦しくても、どんなに悲しくても、どんなに辛くても、どんなに重くても、
どんなに寂しくても、どんなに痛くても、どんなに怖くても、どんなに恐ろしくても。
私は前に進み続ける事が出来た。
いま、こうして頑張っていられるのは、お姉ちゃんのお陰なんだ。
絶望的な存在を前に挫けそうな私に、逃げ出したいと思ってしまう私に。
それでもお姉ちゃんは、優しく微笑みながら、手を差し伸べてくれるんだね。
もう一度だけ、戦う覚悟と立ち向かう勇気を、私に分けてくれるんだね。
……ありがとう、お姉ちゃん。
イリスの手には、セレスティアが握られていた。
動かない身体を強引に立たせて薬を飲み干していく。
途轍もない衝撃に耐えられず、バッグは中身ごと遠くへ吹き飛んでしまっていた。
唯一無事だったのは、鎧に仕舞われたライフポーションとマナポーション、そしてスタミナポーションが一本ずつ。大切に飲み干しながら、回復を待っていく。
それはまるで、母と師が護り、背中を押してくれている様にも思えてしまっていた。
三本だけ薬が残った事にこの上ない幸運を感じる彼女は、徐々に動かせるようになって来た身体でセレスティアに右手の力を込めていく。
肉体的な怪我も、精神的な消耗も、体力的な疲労も、完全回復するには程遠い、凄まじいダメージをイリスは負ってしまっているようだ。
息を整え、そう長くは待って貰えない時間を十分に使い、回復に努めていく。
身体が鉛のように重く、動き難い。
身体が言う事をまるで聞いてくれない。
でも、戦うしかない。戦わなければならない。
身体中が軋むような痛みを押し退け、戦う事に全神経を集中させていく。
どうやらこちらに気が付いたようで、怒りのままに咆哮を上げるドレイク。
これだけ離れているのにも関わらず、ビリビリとした衝撃波が届き、たったそれだけでも倒れてしまいそうになる足に力を込めて倒れる事を拒絶する。
本当に恐ろしい存在だと改めて感じるイリスは、小さく言葉を発しながら魔法を発動していった。
今度は間違えない。
間違えるつもりなどない。
小さな声で発した言葉とは裏腹に、瞳の奥に宿る光も、言葉に含まれた決意も、発動させた魔法に込められた想いも、その全てが並大抵のものでは断じてなかった。
「"身体能力絶大強化魔法"、"魔法能力絶大強化魔法"、"腕力絶大強化魔法"、
"耐久性絶大強化魔法"、"敏捷性絶大強化魔法"、"知覚性絶大強化魔法"、
"集中力絶大強化魔法"」
大量の能力上昇魔法を使った後、イリスはもう二つの魔法を発動していく。
地面に刺さっているセレスティアを引き抜き、刀身に鋭く速く手の先を滑らせながら強く言葉にしていき、セレスティアを縦に構え、並々ならぬ決意と覚悟で最後の魔法を力強く発言していった。
「"属性強化魔法剣"!、"虚無の風よ、激しく吹き荒れろ"!!」
白緑に光り輝く刀身に続き、凄まじい暴風がイリスの周囲に乱れていき、セレスティアの刀身に凝縮されていくと、ゆっくりと点滅するかのような刀身に変わっていった。
マナポーションがひとつしかない現段階で最大限効果を得られる能力上昇をして、
更には強力な魔法剣を発動し、そこに上級攻撃魔法を吹き込んでいった。
流石に薬が底を尽きた現状で、最高の効果を得られる魔法を使う事など難しいが、
これでダメならもう後がない。それだけの覚悟を込めていった。
鋭く精神を研ぎ澄ませていくイリスが赤く照らされていく。
目の前には先ほどの巨大な塊が、再び彼女を無慈悲に襲いつつあった。
軽く呼吸を整えるイリスに、大切な姉の言葉が心に響いていく。
――そうだ。その通りだ。姉の言う通りだった。
私は覚悟をしていたつもりで、まだ足りなかった。
理解していたようで、私はその事実を忘れてしまっていた。
これだけ極限的な状況に置かれなければ、もう考えもしない事だった。
確かにあの時の姉は言っていた。
とても、とても大切な事を、私に教えてくれていた。
『アレは魔物で、あたし達の敵だ』と……。
『理屈なんて通じないし、ましてや話なんて絶対に聞かない存在だ』と。
……だから――。
「――だから躊躇っちゃだめだ!! 前に進め!!!」
セレスティアを両手に持ち替えながら、今にも迫り来る塊に向けて進んでいく。
その速度は絶大な身体能力強化魔法により、凄まじいものへと変貌を遂げていた。
強化型身体能力強化魔法など話にならないほどの速度に、消えたイリスの場所に遅れて途轍もない暴風が吹き荒れ、周囲の強固な岩を破壊していった。
直撃する手前で火球へと両手でセレスティアを切り上げてそれを両断すると、爆発する刹那の間にその場を突き抜け、後方から来る爆風に乗りながら更に加速する。
ドレイクが反応させる間もなく、左前足を切り飛ばしながら腹の横を斬り抜ける。
走る痛みへと反射的に繰り出した強靭な尾を、敵の後方まで辿り着いていたイリスは迫り来る塊の真下を潜るように回避しながら、同時に剣を振り下し切り落としていく。
痛みに怒りながら咆哮を上げている間に背中に乗り込んだイリスは、そのままセレスティアを突き刺していくも、手応えを感じない。どうやら突き刺した程度では致命傷にならないらしいと冷静に判断すると、ドレイク正面へ瞬時に移動していった。
咆哮を終えて敵を見定めたドレイクは、イリスに向かって噛み砕こうと首を伸ばす。
そのままイリスは前進し、鋭い牙を屈みながら避けると、身体を後方へと逆回転させながら両手に持ったセレスティアをありったけの力と共に振り抜いていき、ドレイク側面に背後を向けながら剣を一直線に薙ぎ払う様に、地面へと真っ直ぐ振るっていった。
同時にドレイクの首がずれていき、声を上げさせる事も無く倒れ伏していく。
警戒を怠らずに"広範囲索敵"の反応を確かめたイリスは、ブースト系魔法を全て解除し、その場にゆっくりと倒れていった。




