"まだ残って"
小鳥のさえずりが心地良い早朝に目覚めたシルヴィア。
ゆっくりと開けた瞳に映った天井よりも、頭の奥からズキズキと響くような鈍い痛みに、意識を現実へと戻されてしまった。
この気持ちを一言で言うのならば、最悪と表せるかもしれない。
普段であれば清々しいと思える朝も、可愛らしい小鳥のさえずりも、今日は真逆に思えてしまうほど苛立たしく思えてしまう。
上半身を起こして周囲を確認するように見回していくと、どうやらここは昨日泊まった宿のように思えた。
室内にある三つの内の一つのベッドには、今もネヴィアが静かな寝息を立てていた。
かちゃりと扉が開く音がして、そちらに視線を向けるシルヴィアの視線に映ったのはイリスだった。
「あ。おはようございます、シルヴィアさん」
「おはようございます、イリスさん」
挨拶をしたはいいが、その先の言葉が続かないシルヴィア。
表情は硬く、顔色はお世辞にも良いとは言えないほどに悪かった。
その辛そうな様子を見たイリスは、表情を曇らせながら言葉にする。
「だ、大丈夫ですか? お風邪を引かれたんじゃ……」
「いえ、ご心配なく……。これは二日酔いですので……」
鏡台に置かれた銀製の水差しからコップに入れた水をシルヴィアに差し出すイリスに、お礼を言いながら受け取り、こくりと喉を潤していく。
ずきんと頭が痛み、思わず眉を顰めてしまった彼女に言葉をかけようと口を開くイリスだったが、先にネヴィアの目が覚めたようだ。
ゆっくりと身体を起こす彼女は、すぐさま額に右手を当てていく。
笑顔で挨拶をするイリスに、シルヴィアほどではないが少々辛そうなネヴィアが、無理に笑顔を作りながら言葉を返していった。
どうやら姉妹揃って中々にお酒が残っているようだった。
「朝食の前に一度ヴァンさん達の所へ行って、今後の予定をお話ししたいと思っていたのですが、どうしましょうか」
少しだけ間が空くも賛同していく二人だったが、その力のない発言に少々心配になってしまうイリスは、『無理はなさらないで下さいね』と言葉にして、二人が着替えるのを待っていった。
「お酒を飲んだ後、お二人とも眠られてしまいましたので、ヴァンさんとロットさんの二人がこの部屋まで抱えて下さり、着替えは私がさせて頂きました。
鎧の方も、魔法で綺麗にしてあります」
イリスの話に嬉しいやら、醜態を晒した自分が情けないやら、運んでくれたヴァン達に申し訳ないと思うやら、頭痛に苦しむやら気持ちが悪いやらと、とても複雑な心境の二人は額を押さえ、ふらふらとしながらも鎧を身に纏っていった。
無事に着替え終えた事にイリスがホッとするほど、二人の着替えにハラハラとさせられてしまったが、とりあえず洗浄魔法をかけてさっぱりとしたところで、数室隣の部屋になる二人の元へと向かっていくイリス達。
こんこんとノックをすると室内から返事が聞こえ、イリスは扉を開けていく。
二人は既に準備万端といった格好の様で、酒も全く残っていないように見えた。
ヴァンは二人を見ながら、少々呆れた表情をしながら言葉にする。
「ふむ。やはりというか、まだ酒が残っているようだな。二人とも大丈夫か?」
「……大丈夫、ですわ」
「……はい。ご心配お掛けして、申し訳ございません」
「二人とも随分と飲んでいたみたいだからね」
「とっても楽しそうに飲んでましたね。……それは私もですけど」
苦笑いしながらイリスは答えると、二人を空いているベッドに座らせ、その隣に腰掛けさせて貰った。
ヴァンは部屋の窓側中央の壁に背中を預けるように立ち、鏡台の前で水を飲んでいたロットは、持っているコップを置いて向かいのベッドに座る。
さてどうしようかと言葉にするロット。
二人がこんな状態では、話も何も出来ないのではないだろうかという意味も含みながら話すが、それを汲んだヴァンが、今日は休みにするかと尋ねていく。
「……一応、二日酔いを解消する魔法もありますが、どうしましょうか?」
「ふむ。……まぁ、流石に飲み過ぎた事は二人も分かっているだろうし、俺達もそれを止められなかった」
「そうですね。今回は俺達も気付かずに飲んでましたからね」
「うむ。すまんが、彼女達を治して貰えるだろうか?」
「わかりました。それに、辛そうなお二人を見ているのも辛いですし」
そう言って立ち上がるイリスは二人の正面に立ち、魔法を発動していった。
「"毒化除去"」
黄蘗色の魔力が二人を優しく覆い、暫くすると光が収まっていき、顔色が正常に戻っていったようで、漸く元気を取り戻した二人だった。
「……凄いですわ。頭痛も吐き気も無くなりましたわ!」
「本当ですね、姉様。ありがとう、イリスちゃん」
「ありがとう、イリスさん」
笑顔でお礼を言われたイリスは少々照れてしまうも、いえいえと言葉を返していった。
「相変わらずイリスの魔法は凄いな」
「そうですね。流石に残った酒も消せるとは、思っていませんでしたね」
「体内に溜まったお酒を消す魔法ではないんですけど、こういった時にも使える魔法らしいですよ」
この魔法は受けた毒を無効化するものだと、イリスは説明をする。
本来の言の葉でこの魔法を発動させると、微弱ながらも様々な毒に対しての効果を得る事が出来る。それも所謂、人の作り出した毒にまで効果を発揮する凄い魔法ではあるのだが、それには相応の魔法熟練と経験が必要となるらしい。
これに関しても、レティシアが託してくれた言の葉に関係した知識に含まれる、膨大なものの中のひとつとなっている。
そして今イリスが使った魔法は、それを更に強化させた真の言の葉である為、見た目と効果は同じ様に見えてはいても、無毒化する威力が段違いの魔法となる。
それはたとえ命を奪うほどの強烈な毒であったとしても、この魔法であれば快気する事も可能になるほどの力を秘めていた。
流石にこれほどの魔法となると、そうそう人前で使う事は出来ないだろう。
もしそんな事をすれば、世界中の病気を抱えた人やその家族が、こぞってイリスを訪ねかねない。ましてやイリスは既に色々と目立つ行動をしてしまっている。
フィルベルグ在住であり、王国一の薬剤店に住んでいる事も知られている可能性がある。そうなればレスティに迷惑が掛かる事になってしまうだろう。
それを咎める様な祖母ではないが、なるべくならそういった迷惑になる事をしたくないイリスは、余程の事が無い限りは使うのを気を付けたいと仲間達に話した。
「むぅ。レティシア様も、相当に凄まじいものをイリスに託したのだな」
「ですわね。この魔法があれば、病気いらずになるのかしら」
「いえ、流石にそこまではいかないと思います。何よりもこの魔法は、使うだけで効果が得られるものとは違うようですね」
「どういう事だい、イリス」
ロットの問いに、丁寧に説明を始めるイリス。
この魔法の最大の利点である"毒を無効化する"というものは、言い換えれば"毒の治療が出来る"という意味であるが、そこにこの魔法を使うだけでは、満足な効果は得られないとイリスは言葉にしていった。
続けて、無毒化するには相応の知識が必要になると説明する。
「今回はお酒が体内に残っている状態を正常だった身体へと戻す様に毒化除去を使いました。
この魔法に必要となるのは、患者とも言うべき人の状態を正確に把握し、何がその人を蝕んでいるのかという原因を理解した上で、どう治療すればいいのかという知識が求められるんです。
それを知らずにこの魔法を使っても効果を得る事は出来ず、ただ魔力を消費するだけになってしまうそうです。
これは今の世界で言うところの薬師や、おばあちゃんのような薬学、調薬学に十分な理解のある者が行わなければならないんです。
レティシア様の時代には、病気の方達を診ていた"医者"と呼ばれた存在がいたそうですが、その職に就ける者は本当に限られた極々一部の方だったようですね」
毒と一口に言っても、その効果は全く違う。
似たような症状を出していても、その治療法は違ってくる場合も多い。
しっかりとそれを理解し、どんな薬草や調薬を使えば患者に効くのかを把握している者は相当に少なくなる。
それこそエデルベルグのような大国でもなければ、医者などはいなかったのだと、レティシアの知識には残っていた。
以前にもイリスは思った事があったが、どうやらこの知識には相当の偏りがあり、レティシアの手に入れた知識を中心としたもので構成されているようだ。
その中に医者の存在も載っているだけではなく、当時の"医療技術"と呼ばれた、現在では誰も知らないような秘術の類が大量に含まれていた。
恐らくではあるが、レティシア自身が魔法の研究とは別に、医術と当時では言われた技術を学び、習得していたのだろう。
この膨大とも言える医術の知識は、人から聞いたり、本を読む事だけで手に入るものでは決してない。遥かにそれを凌駕してしまっている。
そしてその気持ちもイリスには理解が出来た。
大切な誰かが目の前で病気にかかり、それを見守る事の辛さ、そして目の前で失われていく生命の重さに、彼女もまた苦悩したのだろう。
そうでもなければ、魔法とは直接的に関係が無いと思われる技術の習得をするはずが無い。そう思えたイリスだった。




