"香樹"
香樹の街エルマ。
この街はその名の通り、"エルマ"と呼ばれた樹木が近隣に生い茂る、森の豊かな木材の街だ。位置的にはノルンとアルリオンの中間辺りにある街で、人口は凡そ六百人が暮らす、ノルンよりは多少大きな街となっている。
東にある森林地帯に隣接されるように建造されており、木材による生計を立てている者が多く暮らす街で、ラーネ村よりも大きく、木材で出来ているのにしっかりとした城壁とも思えるような頑強な壁で守られた街だ。
ここからアルリオンまでは荷馬車で六日。西に位置するエークリオまでは凡そ八日といったところだ。エークリオまでの道のりに街は無く、エルマから丁度四日行った所にある大きめの野営地があるだけとなっている。その場所は石の壁と鉄の扉で囲われただけの空間で、あくまでも安全に野営が出来るだけの場所となっていた。
フィルベルグからアルリオンを目指すには、エークリオを通ると少々遠回りになってしまう。エークリオとアルリオンの中間に街が無いために危険な道のりとなるためだ。
用事でもない限りアルリオンへと向かう者は、エークリオを訪れたりはしなかった。
エルマと呼ばれた木材は、とても香りが豊かで、木材特有の清々しい香りの中に、どことなく甘さが漂う不思議な香木で、軽いのに頑丈で、湿気だけではなく水に非常に強く、火にも耐久性のあるとても不思議な木材だ。加工する事も難しいのだが、これほどの上質な木材を扱うことが出来る職人は、誰もが認める匠だと言われる。
逆に言うのならば、この木材を扱えるようになった者が、一流の木工職人とまで言われており、世界中から木材加工の経験がある職人が集まり、この街で腕を磨き、そして各々の居場所に帰っていく。ここはそういった街でもあった。
この街はフィルベルグにもアルリオンにも、そしてエークリオにも属していない独立した特殊な場所でもある。
理由は様々あるが、一番の大きな理由を挙げるのならば、この街の始まりがたった数名の樵から作られた小さな拠点だったという事だろうか。
以降は徐々に職人が増えていき、今現在では世界中にエルマを送り出す、香樹の街と言われるまでに成長を遂げていた。
街並みはエルマを使った建造物で溢れてはいるが、これはあくまでも売り物にならない切れ端を組み合わせて作り上げていったものだと、ロットは以前エルマの職人に聞いたことがあるそうだ。
木屑には木材では出せない芳醇な香りがする為、芳香剤として世界中で売買がされていて、その香りは数年は保つ事が出来るもので、中でも女性に人気となっている。
木材の切れ端だけではなく、その加工過程に出た木屑に至るまで、一切余す所なく扱える木。それがエルマだ。
街には上品なエルマの香りが溢れ、その香りを損なわないように、屋台など匂いの強く出るものは置かれてはいなかった。
店に関してもこの街は少々特殊で、それぞれの商売に合わせたコミュニティーと呼ばれる組織が結成されており、食材屋や料理屋、武具屋など、それぞれの職人が纏ってひとつの店として運営している特殊な場所だった。
その為それぞれの店に名前は無く、ひとつのとても大きな建物として一箇所に纏って運営していた。
コミュニティーと呼ばれたこの組織自体は、エークリオを元にしたものであり、そこからエルマ独自に作り上げていったらしく、この街そのものが小さな国のような存在となっている。
街は住宅区、飲食街、中央区、そして職人区に分かれており、冒険者ギルドが置かれているのは中央区になるそうだ。六百人もいる街とはいえ、その大きさは然程のものではないようで、直ぐに目的地まで着くらしい。
街の中央にあるギルドや、それぞれのコミュニティーが置かれた中央区を中心として囲うように区分けされた、かなり考えられて造られた街となっている。
その中でも特殊なのは、飲食街と呼ばれた場所だろうか。
エルマの壁側に作られた横に長い建物は、多くの飲食店が並び、そこだけまるで違う場所のような世界が広がっている。
大きく作られた煙突と二重に取り付けられた扉によって、食べ物の香りを街に溢れさせることを抑え、木材本来の香りを邪魔しないように配慮されて街が造られていた。
この街のギルドには多くの冒険者も在籍しており、採取や運搬、護衛などの依頼が休む事無く募集されている為、ここを拠点として活動している冒険者も多い。プラチナランク冒険者がこの街には数名居るという噂も、フィルベルグに届いているくらいだ。
エルマ特有の香りに魅せられて、この街に長く滞在している者も多いと先輩達に説明をされたが、良く分かるといった表情で頷いてしまうシルヴィアとネヴィアだった。
だが、問題点も沢山ある。
とりわけその障害となっているのは、魔物の強さだろう。
つまりは集団で襲ってくるウォルフの存在だ。
このエルマ周囲に他の魔物はあまり確認されていない。
東にあるエルマの森林地帯の殆どが、ウォルフの縄張りと化しているそうだ。
それらと戦うことの出来る者、それに臆さない者。そして、魔物に蹂躙される可能性を考慮した上で、この場所で生きていく覚悟のある者だけが、この街に住んでいる。
故に、ノルンとはまた違った活気に溢れ、生きる者達が多く生活していた。
そんな話をギルドまで歩きながら飲食街の話をするロットとヴァンに、目を輝かせて聞いていた姫様達。とても興味津々の様子だった。
「色んな料理を少なめに、沢山の種類を楽しむことが出来るんだよ。勿論、気に入った料理を一杯食べることも出来るんだ」
「うむ。中々に面白い街だ。エークリオにも通ずるものがあるが、何よりもこの街は香りを楽しめる場所でもある」
「とても良い香りですね。まるで心が穏やかになっていくような、不思議な香りです」
「芳香剤も売っているのかしら? エステルが気に入ってくれるのなら、荷台にも置きたいですわね」
楽しそうに言葉にする姫様達だったが、イリスはどこか上の空でそれを聞いているようだった。ネヴィアがイリスに言葉をかけるが、声が小さかった為か、それに気付いた様子はない。
そんな彼女に言葉をかけ直していくロット。
今度はしっかりと聞こえたようで彼の方を向くが、それでもどこか心ここに在らずといった様子を見せるイリス。周囲が自分を心配していることに気が付いたイリスは、謝りながら言葉にしていった。
「あ。すみません。ぼうっとしていました」
余程ギルアムという存在がショックだったのかもしれない。
思えばイリスは、その生い立ちから魔物と馴染みが無い。
この世界の住人達と違い、割り切ってはいても、どこか心が追いついていかない事もあるのかもしれないと、シルヴィア達は思っていた。衝撃的な事実から乗り越え、安全な街に入った事によって、疲れが一気に噴出してしまっている事も考えられる。
先に宿を取って休ませるべきかとも思ったヴァンだったが、イリスは元気を取り戻したかのような表情を見せてしまったため、進言することは出来ずにギルドへと向かっていく事にした。
素敵な香りが広がる街並みを進むと、少々開けた場所に出たようだ。
ここが中央区と呼ばれるギルドや組合が存在する、エルマの中心部になる。
ギルドの前まで来ると一番後ろにいたイリスは、扉を伏し目がちに見つめながら立ち止まっていた。今まで見た事も無い彼女の姿に、やはり何かあったのだろうかと仲間達は心配するも、イリスは一言謝りながら、まずは報告をしましょうと笑顔を見せる。
エルマ冒険者ギルドは、ノルンよりも少々大きく設計された建物のようだった。
カウンターが二つある事から、利用者もそれなりにいることは分かるのだが、恐らくここは森や近辺に出現するウォルフの討伐や、他の街に向けての護衛任務が主となるのだろう。カウンターの多さが、まるで敵の強さを表してるかのようにも思え、複雑な感情を抱くイリス達。
ノルンと同じようにこの街の冒険者ギルドにも、飲食出来るスペースは無いようだ。
先輩たちによると、普通の街にはそういった設備は設けられていないのだとか。
時間帯が昼過ぎという事もあり、がらんとした室内。
入り口から遠いカウンターのひとつには、カーテンがかけられていた。
空いているカウンターへと向かうイリス達。
近くによると、中年の女性が話しかけて来た。
「新顔さんだね。エルマにいらっしゃい、と言いたい所なんだけど、話は街の入り口で聞いているよね? 今ちょっと問題が起きてて、エルマは出られないんだ。街の外に出る依頼の一切も、今は制限中でね。……討伐隊に参加、という訳でも無さそうだね」
イリス達三人を見ながら言葉にする中年女性。
流石に見た目で言うなら彼女達は、とても討伐に適した冒険者とは思えない。
女性がそう思ってしまうのも致し方ない事だったが、寧ろ王女と思われないことに、新鮮さを感じるシルヴィアとネヴィアだった。
彼女達は公務以外でフィルベルグを出た事が無い。
言うならば遠出と呼ばれるものは、シルヴィアはエークリオまで、ネヴィアに関してはラーネ村の隣町シグルにまでしか行った事がなかった。
流石にエルマまで来ると、フィルベルグの王女達が出歩いていても疑問に思う者が少ないようだ。当然、冒険者になっているという情報が届くにはそれなりの時間がかかるはずなので、美しい冒険者としか見られていないのかもしれないが。
それに冒険者になって直ぐに旅立っているので、まだそれを知る者はこの辺りにはいないだろう。それも今の内だけなのかもしれないが、それでも王女達はそのえも言われぬ開放感のような感覚を感じ、それを楽しんでいるようだった。
「ギルアムについての報告があるのですが、ギルドマスターにお取次ぎをお願い出来ますか?」
はっきりとした口調で告げるイリスの言葉に、受付の女性は目を丸くして驚いた様子を見せた。
香樹は、「かじゅ」ではなく、「こうじゅ」と読みます。造語です。
芳香剤ですが、正しくは芳香材です。




