"勝敗の行方"
暫く考えていたイリスは、静かに言葉を発していった。
「……これは、まさか"ガルム"ですか? それもこれは、白ワインを加えたオエノガルムでしょうか。一度だけ食べた事があるだけなのでうろ覚えではありますが、この繊細なお味はそうだと思えました」
その言葉はこの場にいる者達をきょとんとさせたが、唯一ミラベルだけは口をあんぐりと大きく開けて驚愕の表情をしていた。正直有り得ないといった表情だ。
ソースに関しては勝負の対象外だ。魚と調理法さえ答えてくれたらそれで十分だった。この知識は一流料理人であっても知らない者が多い。成人したとはいえ、年端も行かないと思えた彼女が答えられるなど、とてもではないが考えてもいなかった。
それをたった一度、それも一口食べただけでそれを答えるなど、並みの舌ではない。
震えが来そうなほど驚くミラベルだったが、イリスの言葉はそこで止まる事無く話し続けていった。
「ラティオのポワレですね。魚の切り身には塩胡椒で下味を付けて、オリーブオイルで両面をこんがりと焼いた後、ソースにはガルムに白ワインと酢、胡椒、オリーブオイルを混ぜ合わせたオエノガルムを焼いた魚を取り除いたフライパンに入れ、アルコールと少々個性的な香りを飛ばしてお魚にかけたんですね。さっぱりと食べられるメインのお魚料理としては最高に美味しいお料理ですね」
イリスから飛び出た聞きなれない言葉に反応したシルヴィアが、彼女に尋ねていく。
その様子は単純な好奇心から来るものであり、イリスが一体どれだけ凄いことを言葉にしたのかを理解しているのは、この場にいる者の中ではミラベルだけのようだった。
「ガルムとは何ですの?」
「ガルムとは、魚の中身を細切れにし、塩水に漬け、発酵させて作るソースの事です。そのお味はまろやかで繊細な風味をするものですが、製造過程の際、なんと言いますか、とても個性的な香りが出る為に、あまり街の中で作られる事は無いと聞いたことがありましたが……」
はっと意識を取り戻したようにミラベルは説明していくが、先程までの勢いは完全になくなっていた。
「その通りだよ。ノルンから二十ミィルほど歩いた所にある、特別に用意した場所でこれを作っているんだ。
尤も、作っている過程での匂いがキツいからそんなには作らないものだし、このソースは殆どあたし個人が食べたい為に作ったものだったから、これに関しては勝敗の対象外だったんだけどね……。それにしてもよく分かったね、お嬢さん」
彼女の言葉に苦笑いをしながら、たまたま知っていただけですよと答えるイリス。
彼女自身もこれに関しては確証は無かったのだと言葉にする。
正直な所、味も覚えていたのも偶然ですよと答えていった。
続く料理を用意する為に厨房へと戻るミラベルだったが、その足取りはとても軽そうに見えた。イリス達は絶品と思えるその魚料理に舌鼓を打ちながら、次なる料理を待ち焦がれるように楽しみにしていた。
魚料理の次に置かれた皿に乗っているのは、どうやら肉料理のようだ。
香ばしい香りが食欲をそそる、とても美味しそうな焼き加減に、常連達達も思わず手が出そうになってしまう。
丁寧にナイフを入れるイリスは、静かに口へと運ぶと、味わうように瞳を閉じながらそのお肉の味を楽しんでいく。続いて付け合せに添えられた野菜にも口を付け、味わいながら楽しむと、料理について話を始めていった。
「ボアのローストですね。この味と柔らかさは、上質で脂身の少ないフィレでしょうか。余分な味付けは一切する事無く、塩と胡椒のみで楽しめるお肉になっていますね。
付け合せのホワイトアスパラもローストされていて、とても香ばしくて美味しいですが、このお料理のすごい所は、お肉よりもお塩の方にありますね」
「お塩、ですか? イリスちゃん」
「はい。このお肉に振りかけられたお塩は、クリスタルソルトと呼ばれる"竹炭塩"でしょう。塩を竹筒の中に入れて、かまどの火を一定に保ちながら長時間焼き上げたものです。竹が焼ける事で、竹に含まれる栄養素が塩に染み出し、香りも旨みも豊かになるお塩になります」
もう笑いしか起こらないミラベルは、ずばずばと当てていくイリスに答えていった。
「その通りだよ。このフィレ肉には手の込んだことをせず、素材本来の味を楽しんで貰うために、塩と胡椒のみで味付けをしてあるのさ。
当然、普通の塩なんて使ってないさね。お嬢さんの言ったように、これは竹炭塩を振りかけたんだ。そうする事で味に深みが出て、よりお肉を美味しく食べられるんだよ」
「長時間って、どのくらいでこのお塩が出来上がるんですの?」
「場合によりけりですが、このお塩は十アワール以上はかけたお塩ではないでしょうか?」
「そ、そんなにかかるんですの!?」
思わず大きな声で聞き返してしまうシルヴィアだったが、ミラベルは『まいったね』と呟くように言葉にしながら答えていった。
「そうだよ。この塩は十二アワールほどかけてじっくり仕上げたもんだ。売り出したら最高級品なんて言えないほど高くなるだろうから、誰も買わないと思うけどね」
苦笑いしながら答える彼女の言葉を聞いて完全に固まる一同と、美味しそうに料理を楽しむイリスだった。
食べ終えたイリス達を確認し、全くどれだけ知識があるのかねと、苦笑いをしながら呟くミラベルは最後の料理を取りに厨房へと戻っていく。
最後の品はデザートとなる一品だ。
見た目は半球の形をしているもので、淡い黄色のクリームがかかっているようだった。上部にはちょこんと生クリームが添えられるように乗っており、そこにはとても細く切られたピールと思われるものがアクセントとしてかけられていた。
イリスはそのお菓子をフォークで小さく綺麗に切り分け、一度香りを楽しんだ後、口へと運んでいった。
頬に手を当てながら目を細めるイリス。
どうやらかなり美味しいと思ってくれている様子で嬉しくなるミラベルに、イリスは目を輝かせながら言葉を発していった。
「リモンチェッロを使ったデリツィアリモーネですねっ。美味し過ぎて頬が蕩けてしまいそうですっ。
半球型の外側にかかっているクリームには、レモンピールをすりおろして、リモンチェッロで整えてありますね。ソースとクリームの中間のような、デリツィア特有の滑らかな舌触りに、清々しいレモンの香りが口いっぱいに広がります。
スポンジの中央には少々レモンの酸味を利かせた別のソースが入っていて、味の変化が楽しめます。レモン特有の爽やかな香りと、甘過ぎずあっさりとしていて軽く食べられるように作られた大人の味付け。
しつこくならないように中のスポンジは繊細な味付けがされていて、レモンの味と香りを感じるソースと心地よく調和しています。まるでレモンに優しく包まれているみたい。
しっかりとお料理を食べた後であるにも拘らず、いくらでも食べれてしまうような、食べた人を幸せにする素敵なデザートですね」
幸せそうに一口ずつ味わうイリスに、シルヴィアが尋ねていった。
「デリツィアリモーネがこのお菓子のことなのは分かりますが、リモンチェッロとは何ですの?」
「リモンチェッロとは、レモンを用いたレモン特有の香りが楽しめるリキュールの事らしいです。お酒なので私は飲んだことはないですが、レモンの果皮を度数の高いお酒にある期間漬け続けて取り出し、そこに砂糖を溶かした水を加えて一週間からひと月ほど置いておいたものらしいです」
「やっと知る名前が出て来たな。酒場にも置いてある店は多いぞ。度数が高い酒だから、飲むには注意が必要だが」
「甘いお酒だから女性にも人気があるんだよ」
流石に酒には詳しいヴァンとロットが答えていく。
正直な所、これくらいしか分からなかったですねと、ロットはヴァンに話していた。彼も同じ気持ちのようで、結局どの料理も美味しいとしか思えなかったそうだ。
最後のデザートまでしっかりと答えられてしまったミラベルは、大きく笑いながら笑顔でイリスへと言葉にしていった。
「完敗だよ、お嬢さん。まさかあたしが料理で母親以外に負ける日が来るなんて、思いもしなかった事さね。まぁガルムを言い当てた時点で勝敗は決まっていたんだけどね。
それにしても凄過ぎるよ、お嬢さん。一体どこでそれだけの知識を学んだんだい?
それに、それだけの知識があるんなら、お嬢さんも料理が得意に決まっている。
お店をすればたちまち有名店になるよ。そっちに興味は無いのかい?」
「母から教わりました。料理は出来ますが、それでも母には敵いません。お料理店に関しては、今はまだ考えていないです。お昼にも言いましたが、私は冒険者ですので」
苦笑いをするイリスに、優しい笑顔で見つめるミラベルは、そうかいと静かに言葉にしていく。
「世の中にゃ凄い人がいるもんだが、まさかお嬢さんみたいな若い子がこれほどまでの技術を持っているだなんてね。
さぞかしお母様は凄いんだろうね。それにお嬢さんも立派に育って、お母様も喜ばれているだろうさ」
「ありがとう、ございます」
何よりも嬉しいミラベルの言葉に思わず涙が零れそうになるイリスは、頬を少しだけ赤らめながら満面の笑顔で答えていった。
ガルムは所謂魚醤です。古代ローマで愛された調味料なのですが、その発症はギリシアらしいですね。等級で分けられて、日用品から高級品まで幅広い層の人たちに愛された調味料らしいですよ。
ラティオとは、日本で言う所のスズキのことです。