"優しく流れる時間"を
誰もいない静かな教会裏のとある場所に、一人の女性が目の前にある墓碑に向かって話しかけていた。
実年齢よりもずっと大人に見えるその女性は、墓碑に刻まれている名を愛おしそうに撫でながら、静かに言葉にしていった。
「……お姉ちゃん、私ね、冒険者になろうと思うんだ――」
* *
髪を短く切った翌日の朝。
イリスは昨日の晩に考えていた事をレスティに告げていく。
「おばあちゃん、私、冒険者になろうと思うの」
優しい祖母と真正面に向き合いながら、イリスは自分がしたいことを、そしてこれからしようとしていることを包み隠さず伝えていった。
そんなイリスに口を挟まずしっかりと聞いていたレスティは心配に思っていたが、その言葉を最後までイリスが話し終えてから、静かに口を開いていった。
「どうして冒険者になろうと思ったの?」
「私は世界を知らな過ぎるから。冒険者になって世界を見てみたいの」
「それは冒険者じゃなくても出来ることじゃないかしら」
そんなことはイリスには言わなくても分かっている筈だとレスティは理解している。それは冒険者ではなくても出来る。例え薬師であったとしても支障はないと。
ならば何故、危険がつきまとう冒険者という職を選んだのだろうかとレスティが疑問に思ってしまうのも、それは仕方の無い事だろう。
そのレスティの気持ちをイリスも理解した上で、言葉を返していった。
「うん、そうだね。でもね、それじゃあ護って貰うだけになっちゃうの。私は護られる事じゃなくて、自分の足で前に進んで行きたいの。それには戦う力が必要になると思うんだ。魔物を倒す為の力じゃなくて、誰かを護る為の力が私は欲しいの」
「それはつまり、魔物と戦う事と同じになるのよ? 命だって危険に晒されてしまうのよ?」
「そうだね。でも、魔物を倒す事だけが戦う事じゃないと思うの。自分の力で前に進んでいく事も戦いだと、私には思えたの。それには力を身に付けて、自分の足で世界を歩く事が私にとっては戦う事なんだと思うんだ。
そのために私は強くなる。今よりも、もっと。ずっとずっと強くなる。もう私は護られて後ろにいるのは嫌だから。今度は私も戦えるようになる。今はまだ護って貰っているけど、私も同じ場所に立って歩いて行きたいの。自分を護り、誰かをも護る強さを持って、私はこの世界をこの目で見てみたいの。
だから私は十五歳になったら冒険者になる。護って貰うだけじゃなくて、自分でも戦える強さを身に着けて、自分自身の足で歩いて行ける強さを手に入れる為に」
真っ直ぐレスティを見つめながら語るイリスの瞳の色は、とても強い覚悟と決意の色をしていた。
これだけ強い想いを持たれてしまったら、もう何も口に出す事などレスティには出来なかった。いや、そんなこと誰にも言えることではない。
寧ろこれだけの成長を見せた孫を誇らしく思うべきなのだろう。なのに、レスティにはそれが出来ずに、言葉すら発する事も出来ずに黙り続けていた。
アンジェリカの時のように褒めてあげる事が出来なかった。
イリスが見せた意志の強さを誇らしく思わない訳ではない。
あれだけの事が起きても尚立ち上がるだけではなく、前に進もうと意思を示したイリスは、これから本当に凄い事をしようとしている。
それなのにレスティには、イリスを褒めてあげる事が出来なかった。
逆に言いようのない不安な気持ちが、彼女を包み込んでいくように感じられた。
それが一体何なのかをレスティには理解出来ないが、どうか最悪な事にだけにはなりませんようにと、女神アルウェナへ、そしてこの世界を創りイリスを導いて下さった、女神エリエスフィーナへ祈りを捧げるレスティであった。
* *
その日の客足が遠のいた頃、イリスはいつものようにお昼休憩にと時間を貰い、姉の元へと来ていた。
大切な姉が眠るこの場所は、教会自体が街から離れた場所にあるという事もあり、周辺はとても静かで穏やかな時間が流れていた。
あの時とは打って変わって晴天となった今日は、秋の涼しげな風を周囲へと運び、イリスの身体を優しく包んでいく。
とても静かに小鳥の囀りが聞こえるこの場所に来たのは、イリスにとっては二度目となる。辺りには誰も見えないため、更に静まり返っているように感じるが、ここは光がとても良く照らしている場所で、不思議とあの日とは違って息苦しく感じる事はなかった。
イリスは持っていた花束を、たくさん添えてある場所に丁寧に置いていき、彼女の名前が刻まれている石へと優しく触れていく。
傍らには本当に沢山の花が添えてあり、数え切れないほど多くの人が彼女を悼んで下さっているのが分かる。イリスがお客さんから聞いた話によると、彼女の事を救世主と呼んでいる人が多いのだそうだ。
確かにあれだけ凄い功績を上げたことを考えれば、一番活躍したと言えるかもしれない。
今朝、イリスを心配して来店してくれたレナードから聞いた話では、ミレイの活躍は本当に凄かったのだと教えてくれた。
もし彼女がいなければ、本当に多くの人が亡くなっていた可能性が高いのだと。
思えば嘗てのアルリオンでは、三千七百人以上もの被害者を出してしまった最悪の事件だ。それを重傷者0、軽傷者多数で済ませた程度で終わったのだから、それはとても凄い事なのだろう。
そして犠牲者はたったの一名に抑えることが出来た。
後の歴史にまで書かれるであろう事件として、この数字は刻まれる事になる。
それを読んだ後世の者はこう想うだろう。
彼女の犠牲で国が、世界が救われたのだと。
彼女こそ世界の救世主なのだと。
だがそれを喜ぶ者など、この花を添えてくれた者達の中には誰一人としていなかった。誰もが自身の無力さを噛み締め、悔しい想いで日々を過ごしている。
イリスもそんな一人だった。自分に何が出来て何が出来ないのか、その判断すら付かない現状では何も答えなど出ることは無かった。
それでもイリスはするべき事を見つけることが出来た。
そして、大切な姉へのお別れも。
「ごめんね、お姉ちゃん。心配かけちゃったよね? でも、もう大丈夫だから」
笑顔で答える妹の頬に一滴の想いが、ゆっくりと伝っていった。
「……お姉ちゃん、私ね、冒険者になろうと思うんだ。フィルベルグを出て、世界をこの目で見てみたいの」
それでねと話を続けようとしたイリスだったが、言葉に詰まってしまう。
あの夜の事を思い出してしまった。あんなにも辛い事など、もう二度と起きて欲しくないと思いながらも、イリスはあの日の辛さを飲み込んで話を続けていった。
「私、お姉ちゃんがこうなった原因を探して、その解決法を見つけようと思うの。元々の目的にも繋がるだろうし、きっと世界に出ないと分からないと思うんだ」
もちろんフィルベルグでお勉強をしっかりしてからなんだけどねと、微笑みながらイリスは答えて言った。
レスティでさえ解決出来なかったその元凶は、このままにしておけばきっと忘れ去られてしまう。そうなれば大好きな姉が亡くなった理由を、誰も知らないまま文献にのみ記されてしまう事になるだろう。
それがイリスには堪らなく嫌だった。原因も分からず書物に残すことも良くないと思えたし、何よりもイリス自身が納得など出来ないからだ。
その原因を知る事が出来れば、必ず次に活かせる筈だ。
そうすればきっと、あんな想いを誰もしないで済むとイリスは思っていた。
イリスにとってこの世界は、知らないことが多過ぎる。
なんにも知らないと言い切れてしまうほどだろう。
それならば幾らでもまだするべき事がある。
イリスはまだまだしなければならない事がある。
少しずつ前に進んでいくからねと、大切な姉に報告をしていくイリス。
そんな彼女の元にローレン司祭が訪れてくれた。
穏やかな笑顔で挨拶をして下さった司祭様に、イリスは思わず申し訳なく思ってしまう。
「すみません。せっかくお姉ちゃんのためにお祈りのお言葉を戴いていたのに、私ぜんぜん聞いてなくて……」
その言葉にローレンは顔色を変えず、優しく微笑んだまま答えてくれた。
「いいのですよ。それにイリスさんは聞いていなかったのではなく、私の言葉が届かなかったのです。それ程までにミレイさんの事を大切に想っていたという事に他ならないのですから、イリスさんが謝る事なんて何一つないのですよ」
優しく温かなローレン司祭の言葉に嬉しく思うイリス。
沈黙が訪れ、可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえて来た。
この場所はとても穏やかで長閑な静寂に包まれている。
日差しもとても良くて、静かで優しい時間が流れていった。
しばしの沈黙の後、ローレンがぽつりと語りだした。
「以前、ここは生と死にいちばん近い場所かもしれない、と言ったのを憶えていますでしょうか?」
「はい。『ここは新たな人生を大切な人と誓い合い歩んでいく一方で、傷つき疲れた者が安らかに眠る場所でもある』と仰ってましたね」
イリスはそのとても印象的な言葉を、今でもはっきりと覚えていた。
それはとても素敵で、とても美しく、切ない言葉に思えた。
それは今も変わらない。
ただ、今回の事でイリスが受ける印象は少し変わってしまっている。
より大切に、より重く、そしてより切なく感じてしまった。
続けてローレンは言葉を紡いでいった。
普段通り穏やかで、とても優しい口調で、ゆっくりと。
その心地よい声に、イリスはまるで心が洗われる様な感覚を感じていた。
「この場所はとても穏やかで静かな場所です。ここでならミレイさんはゆっくりと疲れを癒すことが出来ると、私は信じています。
そして全ての疲れが癒えた頃、アルウェナ様の元へと導かれ、またいつの日か新たな命を授けて戴き、この世界へと舞い戻って来られると」
「そうなんですね。ここは、この場所は、生と死にいちばん近い場所であるだけではなくて、また新しく世界へ旅立って行くまでに休める場所でもあるのですね」
「そうですね。きっとこの場所は、それまでの時間をゆっくりと過ごす場所、なのかもしれませんね」
イリスは想う。
私もあの世界から旅をする時も、こんな感じだったのだろうかと。
あの時の感覚はまるで何も覚えていないけど、もしかしたら今お姉ちゃんも同じ気持ちなのかもしれない。
所謂"魂"というものが天に召されるまでの間、この場所で心穏やかに、そして静かに暮らし十分な休息を取った後に、また"天に還って"いくのかもしれない、と。
それをして下さるのがアルウェナ様か、エリー様なのかは分からないけれど、女神様のお力をお借り出来るのであれば、お姉ちゃんはきっと大丈夫なのだろう。
この場所でゆっくりと休み、またいつの日かこの世界へと還って来るのなら、もしかしたら私は、また巡り逢うことも出来るのかもしれない。
その時は新しい心と新しい肉体で生まれ変わるのだから、きっと私の事は覚えていないだろうけれど、それでも私にはそれが分かっただけでも、救われた気持ちになれる。
命は巡り、再び生まれいづる。
そしていつの日か、その役目を終えるようにまた天へと還り、また新しくこの世界に産声を上げる。きっと命とはそうやって巡り巡っていくものなのだろう。
私のような普通の人に神様の事は良く分からないけど、エリー様もあのひとと同じようにとても素敵な方だった。優しくて、思いやりがあって、誰よりも世界の人々を愛していた。ほんの少ししかお会いしてなくたって、その言葉を聞かなくったって、そのくらいは私にも分かる。
だからきっと、お姉ちゃんも今は休んでるだけなんだ。
もしかしたら声もまだ届くのかもしれない。
何の確証も無いけれど、イリスにはそんな気がしていた。
ローレンの言葉でイリスの心に残っていた、蟠りが無くなったように思えた。
ありがとうございますと口にしたイリスに、ローレンは優しく微笑みながらこちらこそ聞いて下さってありがとうございますと返されてしまった。
思わず二人は静かに笑い出し、再び穏やかな小鳥のさえずりを聴きながら、優しく流れる時間を共に過ごしていった。




