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翌朝、アンドール侯爵家へ訪問の許可を得るために向かった使者は、デュリオが旅の疲れからか熱を出してしまったのでご遠慮願いたいという断りの手紙を携えて戻ってきた。
その内容に子爵夫人は卒倒してしまったが、夫人の侍女が慌てて気付け薬を鼻に当てる。
その間、オリヴィアは恐怖を抱いて見守っていた。
薄情なようだが、夫人はよく卒倒する。
そしてすぐに気がつくのもいつものことだ。
ただ今回は、夫人の意識が戻った時にオリヴィアに浴びせられるだろう罵声を思うと怖くて仕方なかった。
「ああ、まさかお会いしてもいただけないなんて……。オリヴィア、すぐに謝罪の手紙を書きなさい!」
「ですが、お母様――」
「口答えは許しません!」
ひとしきりオリヴィアに罵声を浴びせた後、いつもの言葉を放った夫人の金切り声に、その場にいた誰もが顔をしかめた。
そこにシルー夫人が割って入る。
「子爵夫人、お怒りはごもっともですが、ここでオリヴィアが謝罪の手紙を書いたとして、もしデュリオ様が噂をご存じなかったらどうします?」
「何ですって?」
「デュリオ様はご帰国されてからまだ社交の場にお顔をお出しにはなっておられません。ということは、噂をお聞きになっていらっしゃらない可能性のほうが大きいのではないでしょうか? もちろんアンドール侯爵夫妻に関しましては何とも申し上げられませんが、病床のご子息にそのような話をされるとも思えません」
「……確かにそうね」
「はい。ですから、ここはお見舞いのお手紙を書くべきです。その中で、どれほどにデュリオ様をお慕いしているかを、オリヴィアが告げれば、もし噂をお耳にすることがあっても印象は違ったものになるのではないでしょうか? もちろん、あの忌々しい噂がお耳に入る前にお会いできれば一番なのですが……」
そこまで発言すると、シルー夫人はオリヴィアをちらりと見た。
シルー夫人はオリヴィアに対してとても厳しいが、それは付き添い役――お目付け役として優秀だからだ。
子爵夫人も冷静なシルー夫人の言葉に落ち着きを取り戻し、納得したようだった。
「そうね。確かにシルー夫人の言う通りだわ。オリヴィア、今から急いでお見舞いのお手紙を書きなさい。どれだけあなたがデュリオ様をお慕いしているか、ご帰国を待ちわびていたかをお伝えして、一昨日の失礼な態度をお詫びするのよ」
「お母様、あの――」
「言い訳はいいから、早く部屋へ戻りなさい!」
「いえ、お花を! デュリオ様にお花を一緒にお贈りしたいのです。そして、そのお花も私が選びたいのです」
「まあ、お花を贈るのは素晴らしいことだわ。でもあなたが選ぶなんて……」
「私はデュリオ様のお好きなお花を存じております。ですから、庭に咲いているものの中から選びたいのです」
「……では、先に贈る花の種類を庭師に告げなさい。その間に、あなたは手紙を書くのよ。とにかく急ぎなさい!」
「……はい」
デュリオとは何度も庭を散策して植物について語り合った。
今の時期は、一番好きだと言っていたスノーフレークは咲いていないが、他にもデュリオの好きな花は全て覚えている。
オリヴィアは急ぎ庭へと出て、庭師頭のアントンを呼ぶことなく、一人で花を摘んだ。
カーネーション、サルビア、マーガレットなど色とりどりの花を選んでいく。
花たちに「ごめんね」と声をかけると、「全然平気だよ」と応えてくれた。
さらには「頑張るからね」と聞こえた気がしたが、何のことかはわからない。
それから急いで部屋に戻り、花をネリへと預け、書物机に向かう。
しかし、オリヴィアは母の言うように「お慕いしている」などとは書かなかった。
「きちんと書いたんでしょうね?」
「……はい。わたしの気持ちをありのままに」
「そう。では、急ぎ侯爵家へ使いを出しましょう。お花も素敵じゃない? 上出来だわ」
文面を検めると母に言われなかったことに安堵しながら、オリヴィアは使いの従僕に手紙とネリが綺麗にアレンジしてくれた花束を託した。
好きだと伝えることはできなくても、帰ってきてくれて嬉しいという気持ちは綴った。
そして早くお体の具合がよくなりますようにとも。
ブレイズについては何も触れていない。
不安に思いながらも従僕が出ていく姿を見送っていると、母である子爵夫人が厳しい声で言いつける。
「オリヴィア、今日のお茶会と夜会は欠席することは許しませんからね」
「お母様?」
「ここで欠席なんてしてみなさい。疚しいことがあると、噂を肯定することになりますからね。それと、今後一切、ルゼール卿とは会わないこと。もしどこかの場で会うことがあっても、挨拶以上の接触は認めませんからね」
そう言うと夫人はさっさとその場を去っていった。
おそらくいつもより早く起きたために、もうひと眠りするつもりなのだろう。
その後ろ姿を見送りながら、オリヴィアは深くため息を吐いた。
お茶会も夜会も欠席できない。
自業自得とはいえ、これから待ち受ける試練を思うと、オリヴィアは挫けそうになった。
そんなオリヴィアの腕をシルー夫人が掴む。
「オリヴィア、こういう時こそ、背筋を伸ばして堂々としていなさい」
「シルー夫人……」
「今回の噂は私の責任でもあるわ。あの時、私も同行するか、中止させるかすればよかったのだから。もちろん、私はあなたとルゼール卿がお互いにただの友人としか思っていないと知っているわ。とてもいい友人だとね。だから今まで黙っていたけれど、やっぱり注意するべきだった」
後悔を滲ませるシルー夫人を、オリヴィアは驚いて見つめた。
夫人は自嘲するように唇を歪ませる。
「社交界はね、とても恐ろしいところよ。何人もの若いお嬢さんが誘惑され、罠に嵌められ、身を落としていくのを見たわ。だからこれは私の失態でもあるの。でもね、挽回はできるわ。だって疚しいことは何もない、証拠もない、ただの噂よ。ここで逃げてはダメ。敵には立ち向かいなさい。私はあなたの味方よ、オリヴィア。いいわね?」
「――はい、わかりました」
オリヴィアにとってシルー夫人は、母につけられた見張り役だと思っていた。
だが考えてみれば、夫人はいつもオリヴィアの傍にいたが、友人関係に口出ししてきたことはなかったのだ。
問題のありそうな男性が近づいてきた時も、嫌味を言ってくる女性たちがいた時も、夫人は常に近くで睨みをきかせていた。
もしオリヴィアが上手くあしらうことができなかったら、きっと夫人が助けてくれたのだろう。
オリヴィアはお茶会の支度のために部屋に向かいながら、自分の傲慢さに恥ずかしくなっていた。
社交界でもしっかりやれていると思っていたが、それはみんなの助けがあったからこそだ。
ローラや女学院の友達、ブレイズ、そしてシルー夫人。
(それに、社交界の人たちがわたしを特別扱いをしてくれていたのは、デュリオ様の婚約者だからよ。わたしからその肩書を取れば、ただの小娘だわ)
いつの間にか自分は驕っていたようだ。
デュリオの婚約者という立場が揺らいでいる今、こんなにも怯えているのだから。
母が手を上げるほどに怒り狂っていたということは、もうかなり噂は浸透しているのだろう。
だが、元々デュリオとは婚約破棄をするつもりだった。
まさか、このようにデュリオに恥をかかせることになるとは思わなかったが、取り返しはきくはずだ。
オリヴィアはお茶会の支度をしながら、改めて自分を見直してみた。
頬の腫れはすぐに冷やしたおかげで、今はもう引いている。
社交界にデビューしてまだ数ヶ月なのに、不安そうな茶色の瞳に力を入れれば自信に満ち溢れているようだ。
(大丈夫。これからもずうずうしいほどに堂々としていればいい。それから、将来のアンドール侯爵夫人として相応しくないとデュリオ様に思ってもらえれば……そして、デュリオ様のほうからはっきりと婚約破棄を言い渡してくださればいいのよ)
今回のように男性と浮名を流せば簡単ではあるが、それではデュリオの名誉まで汚してしまう。
だから、次にデュリオと会うことがあれば――確実にその機会はあるだろうが、その時に婚約を破棄してくれるよう今度こそしっかりお願いしよう。
そう思うと胸の傷がずきりと痛んだが、ただの気のせいだと言い聞かせた。
あの時心配されたようなひどい傷痕は残っていない。
かすかに引きつれた程度だ。
そもそも、オリヴィアは生涯結婚する気もなく、女学院卒業証書を大切にしまっている。
これを持っていれば、国内では無理でもどこか違う国で、自分を雇ってくれる家庭はあるはずだ。
当面の旅費と生活費くらいなら信託財産がもうすぐ手に入るのだから。
そこで以前、お茶会の席で耳にした情報を思い出し、オリヴィアは机に向かって急ぎ一通の手紙を書いた。
これは両親に知られれば大変なことになるだろうからと、直接執事に託すことにする。
「お嬢様、そろそろお出かけになりませんと……」
「あら、もうそんな時間なの?」
心配そうなネリに声をかけられて、オリヴィアはそっと手紙を伏せた。
オリヴィアは安心させるように笑みを浮かべたが、幼い頃から世話を焼いてくれたネリには嘘だとしっかり見抜かれたようだ。
それでもネリは何も言わない。
そして、見送りの執事に今すぐ手紙を出してくれるよう頼むと、待っていたシルー夫人とともに馬車に乗り込んだ。
この先はオリヴィアにとって最初の戦いの場になるだろう。
招待を受けた時にはとても嬉しそうだった女主人は、オリヴィアが訪れると明らかに困惑したようだった。
それでも素知らぬふりをして会場に――日当りのいいテラスに入ると、一瞬その場がしんとなる。
そして、誰もが一度オリヴィアに視線を向けたがすぐに顔を逸らし、何も見なかったかのようにまたおしゃべりに花を咲かせた。
今までなら我先にとオリビアに近づいて挨拶をしてきたというのに、こうまで違うのかと、逆におかしくなってくる。
「あら、しょげかえるかと思ったけれど、笑う余裕があるのなら大丈夫ね」
「覚悟はしていましたから。でもこれほどにあからさまだと、おかしくて。シルー夫人にはとんだ貧乏くじを引かせてしまって、ごめんなさいね」
「謝罪の必要はないわ、オリヴィア。私はこれも含めて楽しんでいるのだから。あなたが私をただのおばあさんと思っているのなら間違いよ。私はね、あなたたち若い子にも負けないほどに夢見がちで、恋愛小説が大好きなの」
励ましの言葉をくれるシルー夫人に、オリヴィアは迷惑をかけている謝罪をした。
すると返ってきたのは意外な言葉。
なぜここに恋愛小説なんて話がでてくるのかはわからなかったが、とにかくオリヴィアは拷問のようになるだろうと覚悟していた場でシルー夫人とそれなりに楽しむことができた。