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「オリヴィア、久しぶりだね。このように突然訪問したことを許してくれればいいんだけど」
「……デュリオ様、お久しぶりでございます。ご無事でのお戻り、何より安心いたしました。ですからどうか、お気になさらないでください」
入って来たデュリオはオリヴィアだけを真っ直ぐに見つめて、挨拶と突然の訪問に対する謝罪めいたことを口にした。
デュリオは二年の歳月を経て、体つきが逞しくなり、少し日に焼けた顔も精悍さを増して、すっかり大人の男性になっている。
オリヴィアはそんなデュリオから目を逸らし、どうにかこの場に相応しいだろう挨拶を言うだけで精いっぱいだった。
思い描いていた理想以上の姿で戻ってくるなんてずるい。
だけど、とにかく無事でよかった。
そんな混乱した気持ちに支配されてうろたえるオリヴィアを横目に、ブレイズが進み出てデュリオに握手を求める。
「やあ、アンドール。久しぶりだね。色々と噂は耳にしていたけど、とにかく無事に戻って僕も嬉しいよ」
「――ああ、ルゼールか。久しぶりだな。……どうやら私は間の悪い時に来たみたいだね? これから外出かい?」
まるでブレイズの存在に今気付いたかのように応じながらも、デュリオは外出用のドレスを着たオリヴィアの姿を改めて見つめた。
それから昔と変わらない穏やかな笑みを浮かべて問いかけてくる。
「え? あ、はい。いえ、あの――」
「君が帰ってくるのに、間の悪い時なんてあるわけないだろう? オリヴィア、公園へはまた今度行こう。今日は久しぶりの再会を楽しむといいよ。僕はこれで失礼するから」
「でもブレイズ――」
「オリヴィア、私をあなたの婚約者に紹介してちょうだい」
今度もまたきちんと答えられないオリヴィアを庇うように、ブレイズが答えてくれた。
しかし、先約はブレイズであり、このまま帰してもいいのかと迷うオリヴィアの言葉を遮って、付添いのシルー夫人が立ち上がってオリヴィアの腕を握る。
その細い体になぜこれほどの力があるのかというくらい強く握られながらも、オリヴィアはどうにか笑みを浮かべた。
「デュリオ様、こちらはわたしの付き添いをしてくださっている遠縁のシルー夫人です。夫人、こちらはご存知のようにわたしの婚約者のデュリオ・アンドール伯爵よ」
「はじめまして、シルー夫人」
「はじめまして、伯爵。お噂はかねがね伺っておりますわ。オリヴィアも待ちわびていた方が戻っていらして、喜びのあまりぼうっとしてしまっているようですわ。ね? オリヴィア?」
「え? え、ええ……」
実際、シルー夫人の言う通りだった。
やっぱり思い込みなんかじゃない。
デュリオと会えない年月が、さらに「好き」という気持ちを育てていた。
会ったらきっと、もっと好きになる。もっと好きになったら、別れることがつらくなる。
オリヴィアはそれが怖くて心を守ろうとしていたらしい。
(今からでも、わたしは彼の唯一になれる?)
何度も何度も自問しては、鏡の前に立って、ため息をこぼしていたのもそのせいだ。
外見を懸命に磨いて、マヌエラに合格点をもらえるようにはなった。
内面も懸命に努力して、学院でも優の成績をたくさんもらった。
社交界にデビューして二ヶ月。
母にもシルー夫人にも注意されることなく、笑顔を作ってそつなくご婦人方の相手もできるようになった。
紳士たちからのお世辞含みの美辞麗句にも動揺せず、さらりとお礼を言ってかわせるようになった。
(それでもデュリオ様の隣に立つには、まだ足りないわよね?)
その疑問が今、確信に変わった。
記憶にはっきりと残っていたデュリオよりも、さらに立派になって戻ってきたデュリオにはどうやっても追いつけない。
身につけたマナーも何もかもが頭から消えてしまったオリヴィアに焦れて、シルー夫人が代わりにデュリオに席を勧めている。
「いえ、今日は戻ってきたことを伝えたくて、このように非礼を承知でお邪魔したのですから、もう失礼させていただきます。オリヴィア、突然すまなかったね。どうかこのままブレイズと出かけてくれ」
「いや、せっかくなんだから――」
「実はまだ屋敷に帰ってないんだ。先に荷物だけ戻っているだろうから、あまり遅くなると両親が心配すると思う。では、子爵と夫人にはまた改めて挨拶に参りますと伝えてくれるかな、オリヴィア?」
「は、はい」
デュリオはシルー夫人の勧めを断ると、引こうとしたブレイズを遮り、オリヴィアにまた穏やかに微笑みかけた。
オリヴィアはただ頷くだけで、ぼうっとしているうちにデュリオは応接間から出ていく。
「オリヴィア、せめてお見送りをしなさい」
夫人に促されて、はっと我に返ったオリヴィアはブレイズに視線だけで詫びて後を追った。
「デュリオ様!」
玄関で執事から帽子を受け取っているデュリオに声をかける。
しかし、振り向いた彼に何を言えばいいのかわからない。
あんなにマナーレッスンを受けたのに、頭の中は真っ白だった。
「オリヴィア?」
「……お、お帰りなさいませ、デュリオ様」
これから自分の屋敷に帰ろうとしている相手に対して何を言っているのだと、もう一人の自分に激しく詰られる。
デュリオは一瞬驚いたようだが、すぐに満面の笑みを浮かべてくれた。
「うん。ただいま、オリヴィア」
もう何年も見ていなかった笑顔に、オリヴィアの胸が高鳴る。
ただでさえ速かった鼓動がもう耐えられないほどになり、胸が痛む。
最後にデュリオはオリヴィアの頬に軽く触れ、それから去っていってしまったが、それでもオリヴィアはその場に佇んでいた。
「オリヴィア、行こうか? ……オリヴィア?」
「え? あ、はい?」
あまりにもぼんやりしすぎていたらしい。
いつの間にか傍に来ていたブレイズに声をかけられてようやくオリヴィアは我に返った。
ブレイズは苦笑している。
「このまま、公園に行こうよ。というか、行ったほうがいいと思うよ? シルー夫人は不機嫌になっているし、きっとご両親ももうすぐ起きていらっしゃるだろう? できるだけ長く外出して、作戦を考えよう。そして、お昼からの予定にすぐに出かけたほうがいい。今晩は確か観劇にいくんだよね? お小言をもらう暇がないほどに忙しくしていたほうがいいよ」
ブレイズに忠告されて、まったくその通りだと気付いた。
母やシルー夫人から少し離れて、状況を整理したほうがいい。
オリヴィアはブレイズの気遣いに感謝して、それから二人で馬車に乗って公園へと出かけた。
「――きっと、デュリオ様を引き留められなかったことを叱られるわね……」
「そうかな? 僕は逆に機嫌が良くなると思うよ。説明の仕方次第ではね」
「説明の仕方?」
「そうだよ。アンドールが言っていたじゃないか。まだ両親にも会っていないって。戻ってきて真っ先に、オリヴィアの許へいきなり訪ねてきたのは、それだけ早く会いたかったからだろう? まあ、そこに僕が居合わせたのはまずかったけど、嫉妬させられたと思えばラッキーじゃないか」
ゆっくりと公園内の散歩道を歩きながら、屋敷に戻ってからの不安をオリヴィアが口にすると、ブレイズが笑いながら答えてくれた。
その内容にオリヴィアは唖然とする。
「嫉妬? デュリオ様が? それはあり得ないわ」
「そうかな? 余裕な顔をしていたけど、内心では嫉妬ではらわたが煮えくり返っていたと思うよ。僕としては、あのアンドールを嫉妬させられたと思うと、ちょっといい気分だよ。あ、別に嫌いってわけじゃないよ。むしろ尊敬している。だからこそ、嬉しいな」
「でも……」
「こうして、僕と予定通り出かけたのも、アンドールを嫉妬させるためだって言えば、きっと子爵夫人なら喜ぶんじゃないかな?」
母のことをよくわかっているらしいブレイズの言葉に、オリヴィアは噴き出した。
だが、なぜか涙が込み上げてきて、慌てて押し止める。
ここで泣いてしまっては、ブレイズに迷惑だ。
だが、ブレイズはそんなオリヴィアの様子を見逃さなかった。
「ずっと疑問だったんだけど……ひょっとして、オリヴィアはアンドールと結婚したくないの?」
「まさか!」
「そうか……。じゃあ、その涙の理由を訊いてもいいかな?」
ブレイズの質問をすぐさま否定したオリヴィアに、ブレイズは優しい口調でまた問いかけた。
それからは涙こそ堪えることができたが、何年も一人で溜め込んでいたものを抑えることができず、次々と口からこぼれだしていく。
そんなオリヴィアのまとまりのない話を、ブレイズはずっと黙って聞いてくれた。
「――アンドール侯爵家の唯一、か」
呟いて、ブレイズはしばらく黙り込んだ。
公園の散歩道ももう二周目になっている。
木々を揺らす風の音と、他に散歩を楽しむ者たちの笑い声が聞こえる中、二人の間には沈黙が落ちた。
しかし、沈黙は苦痛なものでなく、オリヴィアは気持ちを落ち着けることができた。
「人の心は移ろいやすいからね。ずっと一人を愛しぬくなんてことは稀だと思うよ。それでも浮気を――愛人を作る者は作るし、作らない者は作らない。たとえ熱烈に愛し合ってるわけじゃなくても、お互いを尊重して過ごしている夫婦だっている。まあ、確かにアンドール侯爵と先代侯爵の奥様ただ一人への変わらぬ愛は有名だけど、僕はアンドール侯爵夫人が運命の相手だったからだとは思わない」
「ブレイズは運命を信じないってこと?」
「運命は信じるものではなくて、作るものだってこと。先代の侯爵夫人にお会いしたことはないけれど、現アンドール侯爵夫人には何度かお会いしたことがある。母と変わらない年齢の方だけれど、とても素敵な女性だと思った。あの方になら、侯爵じゃなくてもどんな男性でも愛情を抱き続けることができるんじゃないかな?」
ブレイズの言葉に、オリヴィアも一度だけ会ったことのある侯爵夫人のことを思い出していた。
侯爵夫人は末娘であるエリカ嬢の体が弱いために、あまり表に出てこないが、確かにあの方ならどんな人でも魅了してしまえるだろうと思った。
実際、オリヴィアも初対面にも関わらず、母といるよりも体から力を抜くことができたほどだ。
「ねえ、オリヴィア。それは侯爵夫人の天性のものだと思う? そりゃ、アンドール侯爵が惹かれるほどの方だったとは思うけど、その後に何もしていないのかな? 自分は〝アンドール侯爵の唯一〟だからと、愛されるだけで、愛される努力をしていないと思う?」
「それは……」
「オリヴィアはとても素敵な女性だと思うよ。アンドールっていう婚約者がいるからこそ、みんな半ば諦めているけれど、本当なら今頃は子爵もオリヴィアへの求婚者をさばくのに苦労していたんじゃないかな?」
「ブレイズ、それは言い過ぎよ……」
励まそうとしてくれているのはわかるが、あまりにも大げさな言葉にオリヴィアは笑った。
しかし、ブレイズは首を横に振る。
「慰めでも何でもなく本音だよ。だけど、今の話を聞く限り、オリヴィアがこれほどの女性になったのは、アンドールのためなんだよね? アンドールに相応しくなりたいって。それでいて、アンドールに本当に好きな女性ができたら、安心してオリヴィアに別れを告げられるようにって……本当にお馬鹿さんだよね」
公園の散歩も二周目を終わり、ブレイズは入口で待たせていた馬車へとオリヴィアを導きながらくすくす笑った。
「ブレイズ、わたしは本気なのよ?」
「わかってるよ。だからおかしいんじゃないか」
先に馬車に乗り込んだブレイズは、オリヴィアに手を差し出して引き上げる。
座席にオリヴィアが収まったことを確認して、馬に合図を送り、また話し始めた。
「オリヴィア、運命は待っていてもやって来ないと思う。努力を続けていれば、運命と呼ばれるものにいつかなるんだよ。だからお互い、努力をしないか?」
「お互い?」
「うん。僕は僕の運命を手に入れる努力をする。だからオリヴィアも〝唯一〟になる努力を続けなよ。幸い、相手は帰ってきたんだ」
ブレイズの言う運命とは、例の家庭教師のことだろう。
それはとても険しい道だとオリヴィアでもわかる。
ブレイズの両親は反対するだろうし、それでも強行すれば爵位継承権や相続財産を取り上げられることだってあり得るのだ。
さらには彼女がブレイズのことを想っているのなら、ブレイズのために身を引こうとするに違いない。
「大丈夫だよ。やってみせるさ」
心配げに表情を曇らせたオリヴィアに、ブレイズは朗らかに笑ってみせた。
それから対向してきた馬車を避けるために速度を落とし、明るく言う。
「それでもし、お互い玉砕したら、結婚しよう!」
「ブレイズ!」
「大丈夫。たとえ両親から勘当されても、信託財産があるから贅沢はできないけど田舎でひっそりと暮らすくらいはできるよ」
「それは、わたしだって少しくらいなら財産もあるけど……」
「じゃあ、決まりだね!」
あまりにも馬鹿馬鹿しい提案に、今度こそオリヴィアは心から笑った。
そのおかげで屋敷に戻っても、両親からのお小言を軽くかわすことができ、お茶会も観劇も楽しく過ごすことができた。
劇場ではデュリオが帰ってきたことはすっかり広まっており、オリヴィアはあれこれと訊ねられたが、ブレイズの言葉通り、一番にデュリオが会いに来てくれていたために、恥をかかずにすんだ。
それどころか、やはりオリヴィアはデュリオの〝唯一〟なのだと認められたようで、母は上機嫌だった。
しかし、翌日になって、夜会から珍しく早く帰ってきた母が、予定を入れず部屋でくつろいでいたオリヴィアの許に勢いよくやってきた。
その顔は怒りのために真っ赤になっている。
「オリヴィア! あなたは何てことをしてくれたの!?」
「お母様?」
母の怒りがさっぱりわからず、うろたえるオリヴィアに近付くと、夫人はいきなりその頬を叩いた。
パシンと乾いた音が部屋に響く。
「あなたという子は! デュリオ様という素晴らしい婚約者がいながら、ルゼール男爵の息子と駆け落ちの約束をするなんて!」
「……え?」
「昨日、公園で相談していたそうじゃないの! なんて子なの!? 今夜はその噂でもちきりよ! デュリオ様が戻っていらっしゃった途端に逃げ出す相談をするなんて!」
「そ、それは違います、お母様!」
「何が違うの! それで昨日は、お疲れになっているデュリオ様をおもてなしすることもなく、あの男爵の息子と出かけたのね!?」
「いいえ――っ!」
怒り心頭の母にはオリヴィアの言葉が届くわけもなく、さらにもう一度頬を叩かれる。
オリヴィアは頭がくらくらしながらも、昨日のあのブレイズとの冗談が誰かに聞かれていたことに気付いた。
今さらながら、なんて迂闊なことをとしてしまったのだろうと後悔したがもう遅い。
ブレイズは自分を慰めてくれようとしていたのに、この噂で迷惑をかけてしまうことになる。
それでもブレイズは男性だから、逆に「あのアンドール伯から婚約者を奪った男」として、人気を得ることもあるだろう。
しかし、オリヴィアの評判は地に落ちる。
だがそんなことよりも、デュリオが「婚約者を奪われた男」として名誉を汚してしまったことが、オリヴィアは申し訳なくて仕方なかった。
(こんなはずじゃなかったのに……)
力なく床に座り込み、顔を覆って泣き始めたオリヴィアに、母の怒りも少し冷めたようだ。
何度か荒い息を吐いてから言い放つ。
「明日、朝一番に侯爵家に訪問の許可をお願いするわ。お許しを頂き次第、釈明にいきますからね。いいわね!?」
「……はい、お母様」
謝罪で許されるとは思わないが、しないことにはどうにもならない。
その夜、オリヴィアは一睡もすることができず、朝を迎えることになったのだった。