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それからの日々は夜会や演奏会などで忙しい毎日を送っていた。
社交界のお姉様方からは痛烈な嫌味を言われることはあったが、実害は今のところない。
ただ昼間は知り合った紳士たちから散歩などに誘われて出かけなければならず、はっきり言って苦痛だった。
だからオリヴィアは朝起きると、両親がまだ寝ているうちに庭仕事を手伝い、植物たちに愚痴を聞いてもらう。
すると、植物たちは慰めてくれ、歌を歌って励ましてくれるのだ。
「毎日がちっとも楽しくないの。それなのにお昼は誰かとお散歩に行って、どこかのお茶会に出席して、夜会で踊らなければいけないのよ。それが苦痛でしかないのに、嫌だって言えない自分が一番嫌」
温室で植物相手にひと通り愚痴を言うと、少しだけ楽になった。
すると今度は、植物たちに申し訳なく思う。
それでも言わずにいられないのは、デュリオからの手紙がもうふた月以上も届かないからだ。
ひょっとして母の思惑通りにはいかず、噂を聞いたデュリオは逆に清々しているのかもしれない。
このまま離れていれば、待ちくたびれたオリヴィアが別の男性と結婚するかもしれないと。
何度も考えた可能性に悲しくなって、オリヴィアはぐっと歯を食いしばった。
これくらいで泣いていては、将来の婚約破棄が上手くいくわけがない。
オリヴィアは立ち上がると、植物たちに笑いかけた。
「ごめんね。愚痴ばっかりで。でも聞いてくれて、ありがとう。本当はね、悪いことばかりじゃないのよ。新しい友達もできたし、耳寄りな情報だって仕入れることができたんだから」
そうオリヴィアが言えば、植物たちからは「大丈夫だよ」と優しい気持ちが返ってくる。
またいつものように元気をもらったオリヴィアは、二輪馬車での散歩を約束したための準備に部屋へと戻った。
今日の散歩の相手はブレイズなのだ。
彼はいっしょにいて心から楽しめる唯一の男性だった。
デュリオの婚約者としてではなく、ただのオリヴィアとして付き合ってくれているからだろう。
最近では、他の男性たちと違って何度もオリヴィアを誘うブレイズは、どうやらオリヴィアに報われぬ恋をしているらしいと噂になっている。
先日、そのことを心配したオリヴィアに、ブレイズは謝罪してきた。
「ごめんね、オリヴィア。僕は、本当は君を利用しているんだ」
「利用?」
「実は……僕には好きな人がいる。だけど、世間にそのことを知られるわけにはいかないんだ。彼女に迷惑をかけてしまうから……」
意外な告白にオリヴィアは驚いた。
だけど、好きな相手への気遣いも、オリヴィアへ正直に打ち明けてしまうところもブレイズらしくて、オリヴィアは心が温かくなって微笑んだ。
「ブレイズ、これは利用ではないわ。協力よ。わたしもあなたがいてくれるおかげで、どれだけ助けられているか……。いつもありがとう」
「……僕もオリヴィアにたくさん助けてもらってるよ。ありがとう」
お互い、お礼を言い合って、微笑み合った。
傍から見れば、穏やかな愛を育んでいるように見えたかもしれないが、これは友情なのだ。
自分と同じように報われぬ恋をしているらしいブレイズに、オリヴィアはさらに親しみを抱いたが、何より彼自身の人柄が好きだった。
いつかオリヴィアも本当のことを打ち明けられればと思う。
「――お待たせして、ごめんなさい」
散歩用のドレスに着替えたオリヴィアは、応接間で待たせていたブレイズに、部屋に入るなり謝罪した。
ブレイズは気を悪くした様子もなく、微笑みながら立ち上がると、オリヴィアの手をとって手袋越しにキスをする。
お互い気心の知れた二人の他愛ないやり取りだった。
そこにわざとらしく咳払いをしたのは、オリヴィアの付き添い役のシルー夫人だ。
シルー夫人は母の遠縁の未亡人で、オリヴィア自身の社交が忙しくなったために最近雇われたのだが、彼女は未婚女性の付き添い役としては素晴らしい能力を発揮している。
要するに夜会などでも常にオリヴィアの言動に目を光らせ、不埒な男性どころか意地悪なお姉様方が近づいてくると、いつの間にか現れて彼らを追い払う。
それはとてもありがたいのだが、いい加減にブレイズだけは大丈夫だとわかってもらいたかった。
「今日はとても天気がいいから、きっと公園も素晴らしいと思うよ」
「ええ、本当に」
シルー夫人の前ではありきたりな会話をするが、二人きりになることが許されている昼間の散歩ではお互い色々なことを話した。
ブレイズの想い人はどうやら妹の家庭教師らしく、彼女の立場を尊重して気持ちを打ち明けることができないらしい。
確かに、雇い主の息子が使用人に言い寄るのは卑怯であり、たとえ誠実な気持ちであっても周囲には認められないだろう。
話を聞いていれば、彼女もまんざらではないのではないかと思うのだが、それは言わなかった。
二人には障害が多く、下手に希望を持たせるのは酷だからだ。
そしてオリヴィアは、今日はついにデュリオのことを打ち明けようと思っていた。
正直になりたいというよりは、誰かに聞いてほしくて仕方ないのだ。
デュリオからの手紙を待つのがつらい。
いつものようにひと月経った頃、かまわず前回と同じ宛先で出してしまおうかと思って、手紙を書いた。
だが出せないままふた月が過ぎ、それでも新たに社交界のことなどを報告する手紙を書いたのだが、結局それもまだ手元に残っている。
みんなが素敵な婚約者で羨ましいと言う。
その一方で、婚約者が傍にいないことを笑っている。
母は苛立ち、いったいどうなっているのかと、身分も忘れてアンドール侯爵に詰問しかねない勢いだ。
あのまま女学院にいれば平和だったのにと思うこともあるが、今この状況だからこそ、婚約破棄した時に周囲を納得させられるのではとも思う。
それでも最近、オリヴィアは考えることがあった。
ひょっとしてこの恋はもう過去のものなのではないかと。
二年以上前の大好きだったデュリオに、優しい内容の手紙を加えて、自分の理想を作り上げているだけかもしれない。
もしかしたら、再会したデュリオにがっかりすることだってあり得る。
そう思うと、苦しい胸の内が少しだけすっとして楽になれたのだった。
「――じゃあ、そろそろ行こうか?」
「え、ええ。ではシルー夫人、いってきます」
「オリヴィア、気をつけてね。ルセール卿、くれぐれもよろしくお願いいたしますよ?」
「はい、お任せください」
決して不埒な真似は許しませんと言うような口調のシルー夫人に、ブレイズは生真面目に頷いた。
しかし、オリヴィアと一瞬視線を交わしてにやりと笑う。
ブレイズに差し出された手を取り、立ち上がったところで、ドアがノックされた。
応答すれば動揺を押し隠した執事が来客を告げる。
両親はまだ寝ており、ジェストは昨晩から帰ってきていないらしい。
そうなると、前触れもない急な来客の対応はオリヴィアがしなければならず、申し訳ない気持ちを視線に込めてブレイズを見た。
ブレイズは変わらず、気にしないでとばかりに優しい笑みを浮かべたまま。
「それで、お客様はいったいどなたなの?」
「それが……アンドール伯爵――デュリオ様でございます」
「……え?」
一瞬、聞き間違えたのかと思ったが、執事の顔はどうしたらいいのかと指示を待っている。
ブレイズは呆然とするオリヴィアを励ますように、震える背中にそっと大きな手を置いてくれた。
まだ頭は混乱していたが、それでも厳しいマナーレッスンで鍛えられたオリヴィアはどうにか微笑みを浮かべた。
「では、デュリオ様をここにお通ししてくれる? それから急ぎ両親に知らせて、新しいお茶を用意してちょうだい」
「かしこまりました」
執事はどこかほっとした様子で頭を下げると、部屋から出ていってしまった。
もうすぐデュリオが現れる。
そう思うとじっとしていられずそわそわし始めたオリヴィアの背中を、ブレイズはそのまま押して、椅子へと戻してくれた。
シルー夫人はデュリオがやって来たと知って動揺を隠せず、珍しく座ったまま身なりを整えている。
そして、ほどなくして再び応接間のドアがノックされたのだった。