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「まあ! さすがに私の娘ね。マヌエラほどの華やかさはないけれど、やっぱりきちんと装えば美しく見えるわ。あなたには素敵な殿方を惹きつける必要はもちろんないけれど、あわよくばとデュリオ様を狙っている女狐たちを牽制する必要はありますからね」
部屋に入ってきた途端、まくし立てる母にオリヴィアは微笑んで応えることしかできなかった。
夜会用に装った姿の自分を目にしたオリヴィアは、いよいよだと思うと怖くて仕方ないのだ。
本当なら今すぐ温室に逃げ込んでしまいたい。
先に社交界デビューをした友達から、お茶会などで聞いた話によると、それはもうデビューしたばかりのヒヨコはお姉様方から手痛い洗礼を受けるらしい。
嫌味や皮肉は当然のこと、ひどい時にはドレスを汚されたり、足を引っ掛けられたりすると。
さらには年頃の未婚の娘を持つ母親からも厳しい目を向けられるのだとか。
『でも、オリヴィアは大丈夫よ。なんと言っても、アンドール侯爵家のデュリオ様の婚約者なんだもの。オリヴィアの機嫌を損ねるようなことをするわけがないわ』
『あら、油断はできないわよ。デュリオ様がいないうちに、蹴落としてしまおうとする女狐――じゃなかった、お姉様方だっているかもしれないわ』
『蹴落とすって?』
『それはもちろん、醜聞よ! 男性絡みのね。婚約者がありながら、別の男性と暗がりにでも行こうものなら大変なことになるわよ。ないものもあるって思わせられるんだから。いいわね、オリヴィア。社交界に出たら、絶対に男性と二人きりにはならないこと。お姉様方から何か伝言などがあっても信じてはダメ。どこかに――たとえ化粧室だったとしても、かならず付き添いを連れて行くのよ。わたしたちも守るからね!』
頭の中に、友達からの忠告が浮かび上がる。
初めて出会った時に、ローラが味方を増やしておくべきだと言っていた意味が、今ならよくわかった。
兄であるジェストがエスコートしてくれることになっているが、当てにならないだろうから。
きっと会場についたら、妹のお守りなどご免だとすぐに友人たちとカードゲームに興じるか、他の女性を口説くのに忙しくなるに違いない。
母はおそらくご婦人方との噂話に夢中になるだろう。
頼れるのはただ一人。
オリヴィアの卒業と社交界デビューを聞いて、急ぎ自分もと合わせてくれたローラだけだ。
『気にしないで、オリヴィア。わたしはあなたを利用する気満々なんだから。あなたの傍にいれば、きっと侯爵様とお近づきになりたいっていう、爵位はないけどお金はある方たちも多く集まって来るはずだから。私はその中からよさそうな人を見つけて結婚するつもり。貧乏子爵家の娘っていうのは、それほどに魅力はないかもしれないけれど、その友人が将来のアンドール侯爵夫人となれば、魅力的に見えるはずだからね』
そんなものはなくてもローラは十分に魅力的なのだが、この言葉は間違いなく本音だろう。
だが、オリヴィアを心配してくれているのも確かだった。
オリヴィアはこの陽気で計算高く、そして優しい友人が大好きなのだ。
いつも本音で接してくれるローラはオリヴィアにとって唯一信頼できる人でもあった。
アバック伯爵家の舞踏会は夫妻の結婚記念を祝うものであったが、その舞踏会をオリヴィアのデビューの場に選ばれたことが嬉しいらしく、オリヴィアは大歓迎を受けた。
たかが子爵家の娘であるだけのオリヴィアなのに、主賓級の扱いを受けることに居心地が悪い。
そんなオリヴィアの許に、からかいの笑みを浮かべてローラが近づいてきた。
今日はアジャーニ子爵夫妻と一緒に来たようだ。
「おかしいわね、今日はわたしの記念すべきデビューの日でもあるはずなのに、誰もわたしに注目してくれないわ」
「やめて、意地悪を言わないでよ」
わざとらしく拗ねたように言うローラがおかしくて、オリヴィアは小さく笑った。
それだけで、こわばっていた体から力が抜けていく。
エスコート役である兄のジェストは、ローラがやって来た途端に姿を消してしまった。
「ずいぶん立派なエスコートね」
「ええ、自慢の兄なの」
二人してまた笑っていると、若い娘たちだけでいることに気付いた紳士たちがやって来た。
紹介もなしにどうするつもりだろうとオリヴィアは思ったが、どうやらローラの知り合いらしい。
「やあ、ローラ。久しぶりだね」
「久しぶりね、ジャック」
「隣の麗しい女性を紹介してくれないかな」
「嫌よ」
四人いるうちの一人、ジャックという男性が声をかけてきたが、ローラの声の調子から本気で嫌っていることがわかる。
しかし、男性たちは冗談だと思ったらしく、その場に笑いが起こった。
その中で茶色のくせ毛が特徴的な男性だけがローラの気持ちを察しているようで、気まずそうにしている。
ジャックという男性はローラを自分の従妹だと男性陣に紹介し、彼らをローラに紹介していった。
茶色の髪の彼はルゼール男爵の子息でブレイズというらしい。
「それで、ローラ。こちらの素敵なお嬢さんのお名前を教えてくれないのかい?」
どうやら放蕩者を気取っているらしいが、いくら従妹とはいえ、未婚の女性にこのように近付くなど失礼な上に無粋である。
オリヴィアがちらりと母のほうを見れば、すでにおしゃべりに夢中になっているようで、娘に注意を払うこともない。
エスコート役のジェストもいない今、誰も庇ってくれる者もおらず、ローラの顔を立てるためにもオリヴィアは小さく頷いた。
ローラは一瞬謝罪するような視線をオリヴィアに向け、従兄に対して笑顔を浮かべながら、その瞳を怒りに煌めかせて口を開いた。
「こちらは、わたしの友人でカルヴェス子爵家のオリヴィア嬢よ」
「では、あなたがあのアンドールの婚約者ってわけか!」
知っていただろうにわざとらしく驚く男性たちに、オリヴィアは珍しく苛立った。
どうやら四人は王立学院でデュリオと同級生だったらしい。
その事実に気を取られている間に、なぜか彼らとダンスを踊ることになってしまっていた。
今日は踊るつもりはないとローラが断っているにも関わらず、強引にジャックは腕を取る。
このままではオリヴィアも誰かと踊らなければならず、困惑して思わずブレイズに視線を向けた。
すると、ブレイズはすかさず他の二人を押しのけて、手を差し伸べてくれる。
なぜかほっとして、オリヴィアは素直にその手を取った。
「……ありがとうございます」
「何についてのお礼でしょう?」
「こうして踊ってくださっていることです」
「それなら、僕のほうがお礼を言わなければ。どうやら僕はあなたが家族以外と踊るダンスの初めてのパートナーのようですから。アンドールに怒られるだろうな」
礼儀正しい距離を保って踊るブレイズは紳士そのものだ。
なぜあの三人と一緒にいるのか不思議である。
「デュリオ様はこれくらいで怒ったりしませんわ。むしろ、わたしを助けてくださったのですから、感謝されるかもしれませんね?」
言いながら、その通りだと自分でも思った。
きっとこの先、色々な男性からのダンスの誘いをオリヴィアが受けても、笑顔で送り出してくれるだろう。
思わずため息を吐いたオリヴィアに、ブレイズは申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、さっきは強引だったよね。彼らも悪いやつらじゃないんだけど、ちょっとばかり羽目を外したがるというか……。でもこのあとはちゃんと夫人のところへ送り届けるから安心していいよ」
「本当に……ありがとうございます、ルゼール卿」
「ブレイズでいいよ。でも僕はオリヴィア嬢と呼ばせてもらうね。アンドールの怒りをさらに買いたくはないからさ」
「いいえ、どうかオリヴィアと呼んでください」
やはり最初に思った通り、ブレイズは気遣いのできる人だった。
彼とはきっと友達になれるだろう。
オリヴィアは自然に微笑んで踊りを楽しみ、曲が終わると母の座る場所までブレイズに連れて行ってもらった。
しかし、母はブレイズの礼儀正しい挨拶を高飛車に受け止めただけ。
それがオリヴィアには申し訳なく恥ずかしかったが、ブレイズは気にしていないとでもいうように微笑みを残して去っていった。
「デュリオ様を煽るには、彼は少し物足りないわね」
「え?」
「あなたが社交界で紳士たちの注目を集めていることが噂になれば、デュリオ様も急いで戻ってきてくださるでしょう? 殿方は意外と嫉妬深いものですからね。だからこれからはあなたに相応しい殿方から誘われたら、かまわず踊りなさい。ただし、節度は守ってね。気をつけないと、どこに落とし穴が用意されているかわからないわよ」
扇子を広げて口を覆い、こっそりと忠告する母の言葉を、オリヴィアは唖然として聞いていた。
突然の社交界デビューもそんなくだらない策略のためなのかと思うと悲しくなる。
母は自分で嘘の噂――デュリオがオリヴィアを望んだという話をしすぎたあまり、真実だと思い込んでしまったのではないだろうか。
その日は結局、オリヴィアは父である子爵とホストのアバック伯爵と踊り、会場をあとにした。