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いつものようにひと月経って送った手紙に対するデュリオからの返事には、無事にメイアウト王立学院高等科を卒業することが決まった、とあった。
その後に続く内容は、王子に招待されてしばらくメイアウト王城に滞在することになったと。
少し前からの噂で、デュリオが友人となった王子を介して妹王女に出会い、とても気に入られたらしいとは聞いていたのだ。
両親はその噂に血相を変えた。
王子と仲良くなったという話までは当然だとばかりに自慢げにしていたのだが、王女のくだりになると途端に機嫌が悪くなる。
さらには夏休みを利用して戻ってきてくれるようお願いするべきだとオリヴィアに告げたり、それが無理ならオリヴィアが訪ねていくべきだと言い張った。
幸い、その噂が流れてきたのが夏休みも終わりにさしかかった頃であり、どうにかオリヴィアは逃れることができたのだが、今度の内容はさすがに両親も納得しないだろう。
しかし、噂で耳にする前に先に教えなければ、怒られるどころではない。
オリヴィアはどう言い繕おうかと一晩悩み、そして翌日になって母に打ち明けた。
すると予想通り母は怒りだし、オリヴィアの不甲斐なさを責め立てた。
結局、母を宥めることができたのは、デュリオの人柄の良さのおかげだった。
デュリオはとても誠実な人なので、たとえ王女殿下が恋に落ちることがあっても、応えることはないはずだと。
臣下ではなく、友好国の実力者であるデュリオに、メイアウトの国王も王女との結婚を命じることはできないはずで、きっと大丈夫だと。
母はひと通りの怒りが過ぎると、オリヴィアの言葉をしばし考えたのち、逆に機嫌を良くした。
確かに、デュリオの性格からして、一度した約束を反故にすることはないだろう。
むしろメイアウトの王女を拒んでまでオリヴィアを選んだとなると、さらに箔が付く。
その言葉に、オリヴィアはすっかり馴染んだ偽りの笑みを浮かべて応えた。
胸に残った傷痕をそっと押さえながら。
予想通り、デュリオがメイアウト王城に滞在することはあっという間に広がった。
それでもカルヴェス子爵家の者たちは余裕を持ってその噂を聞いていた。
そんな態度を訝って、勇気ある夫人が子爵夫人に問いかけたらしい。
単刀直入に「デュリオ様のお心が〝メイアウトの花〟と呼ばれる王女殿下に移ってしまわれないか、心配ではないの?」と。
「――それで、子爵夫人は何て答えたと思う?」
「……何て?」
「アンドール侯爵家の方は浮気心なんてお持ちにならず、唯一を大切になされると有名ですもの。綺麗な花はたくさん咲いていてなお、デュリオ様は我が家の花をお選びになったのよ。――ですって!」
ローラの言葉に、周囲からわっと歓声が上がる。
だがオリヴィアは母のずうずうしさに苦笑するしかなかった。
デュリオは選んだのではない、傷物を押しつけられたのだ。
それなのに、母の言葉ででたらめな噂がどんどん広がっていく。
オリヴィアはじくりと痛む胸の傷を押さえて、また偽りの笑みを浮かべた。
そんなオリヴィアを見て、ローラが何か言いかけたが、そこに別の声が割り込む。
「あらあ、デュリオ様が選ばれたのは、花は花でもまだ蕾でしょう? 咲いてみれば、予想と違ったなんてよくあることじゃない?」
「アンドール侯爵家の方の唯一は、奥様に対してだものね。母から聞いた話だけど、今の侯爵様もご結婚前はかなり浮名を流していらしたそうよ」
頭上から聞こえた声に、座ったままのオリヴィアが見上げれば、通りすがりらしい上級生の二人。
以前から、この二人は何かとオリヴィアに嫌味を言ってくる。
伯爵家の二人にとっては、自分たちより身分の低いオリヴィアがデュリオの婚約者なのが気に入らないのだろう。
オリヴィアは相手にすることもせず、二人から視線を逸らして飲みかけの珈琲に口をつけた。
昼休みのラウンジは生徒たちでごった返していたが、このやり取りの行方を気にしてすっかり静まり返っている。
その中で無視された二人は後に引けなくなったのか、オリヴィアの肩に手を置いた。
「ちょっと! あなた、いくらデュリオ様の婚約者だからって、上級生相手に無視して許されると思うの!?」
オリヴィアはどきどきしながらも、「淑女として堂々と」と自分に言い聞かせ、肩に置かれた手をちらりと見た。
それから上級生に真っ直ぐ視線を向けると、オリヴィアの気迫に圧されたかのように上級生の手が離れる。
「……そのことについては、デュリオ様が戻っていらっしゃった時にはっきりすると思いますので、今あれこれとわたしが言うことは何もありませんから」
「っな、何よ! 余裕ぶって! せいぜいお戻りになったデュリオ様にふられないといいわね!」
捨て台詞を残して上級生が去っていくと、ラウンジの張り詰めていた空気がほっと緩む。
ローラ以外の子たちも緊張していたようで、オリヴィアは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、みんな。驚かせてしまって」
「ううん、大丈夫よ。というか、むしろオリヴィアがかっこよすぎて……」
「そうそう。やっぱりさすがねぇ」
「褒めても何も出ないわよ」
本当は小さく震えていたが、それを隠して冗談で紛らわした。
その後、授業を終えて帰宅したオリヴィアは、届いていたデュリオからの手紙に心躍らせた。
たった一通の手紙だけで、一日の――いや、ひと月の疲れが吹き飛ぶようだ。
相変わらずひと月に一通と頑なに自分の課したルールを守っているオリヴィアに合わせて、デュリオもひと月に一通である。
内容は王女に触れることなく、メイアウト王城の様子をいつもと変わらず滑稽に教えてくれるもの。
ただ最後に、近いうちにメイアウト王国を発つつもりだと書いてあった。
一瞬、戻ってくるのかと期待したオリヴィアだったが、次に向かう予定の国の名が挙げられており、すぐに落胆した。
そもそも期待するのが間違っているのだ。
まだ社交界デビューをしていないため、夜会に出ることはないが、母について昼間のお茶会にはたびたび出席するようになっていた。
そこでずいぶん社交術も学び、母からも及第点をもらっている。
容姿も目を瞠るほどの美人ではないが、懸命に努力したせいか、肌や髪の艶は姉にも褒められるほどになり、清楚な美しさがあるとまで言ってもらえた。
今ならひょっとして、密かに他の男性から求婚されることだってあるかもしれない。
オリヴィアは鏡の前に立って、じっと自分を見つめた。
右胸の傷痕はずいぶん薄くなっている。
これくらいなら、他の男性だって気にしないでくれるのではないかと思う。
婚約者がありながら求婚してくる男性はおそらく、あの未来のアンドール侯爵を出し抜いてやったという自尊心を満足させたい人物だろうから、将来的にはオリヴィアに飽きてしまうだろう。
しかし、オリヴィア自身も最初から裏切っているのだから――デュリオを好きなのだから、お似合いの夫婦かもしれない。
ただデュリオに恥をかかせてしまうのはどうにも耐えられそうになく、その案は却下した。
(本当は、自分で生活していけるだけの力があればいいんだけど……)
デュリオと婚約破棄することになれば、理由が何であれ、両親から縁を切られる可能性もあり、生活手段は確保しておかなければならない。
どこかの屋敷で家庭教師なり子守りなりの仕事を見つけるにしても、紹介状は必須だ。
その紹介状を書いてくれる当てはなく、下働きくらいならとも思うが、自分にできるのか自信はない。
やはり、デュリオがもうしばらく遊学を続けてくれて正解だった。
デュリオが帰ってくるまでには、どうにか自分の将来についていい案が浮かぶかもしれない。
そう考えているうちに月日は流れ、女学院に入学してから二年が過ぎようとしていた。
友達の中には結婚のためにすでに卒業してしまった子もいる。
女学院は花嫁学校のようなものなので、いつ退学することになっても卒業証書をもらえるのだ。
(ここの卒業証書があれば、家庭教師としては十分なのよね……)
貴族階級の家での家庭教師は無理だが、中流階級の家なら喜んで女学院卒の家庭教師を雇ってくれるらしい。
ローラがそう話していた時、あまりにも熱心に聞くものだから訝しがられたほどだ。
今のデュリオの噂は、彼がメイアウト王国王女との縁談を断ったために、出国を余儀なくされたことになっている。
それでも手紙のやり取りはひと月に一度。
どうやらメイアウト王国を出てからは、デュリオはオリヴィアの手紙を受け取ると場所を移動し、そこで返事を書き、またオリヴィアの手紙を受け取ると移動しているらしかった。
まるでオリヴィアから逃げたいのに責任感に縛られて、少しでも義務を果たすことを先延ばしにしているように思える。
(そもそも、アンドール侯爵家の家訓だなんて、見え透いた嘘よね?)
あの時は素直に受け取ったが、今思えば結婚までの時間を置くための言い訳だったように思える。
確かに、現アンドール侯爵は若い頃はあちらこちらと諸外国を周っていたらしいが、先代侯爵はこのケインスタイン王国から一度も出たことがないらしい。
それはそれで珍しいことではあるが、家訓のことは持ち出さず、それとなくお茶会でご婦人方に探りを入れてわかったことだった。
それと同時に知った、アンドール侯爵家の唯一。
政略結婚の多い貴族たちにとって、夫婦とは名ばかりでお互いに愛人を持つことも珍しくない中、アンドール侯爵家の男性たちは代々妻だけを大切にしてきたというのだ。
中には上手く隠れて愛人を囲っていたに決まっているわ、などと意地悪なことを言う人もいたが、それはおそらくオリヴィアを不安にさせるためのものだろう。
(でも、わたしは唯一じゃないから……)
現侯爵も先代侯爵も、爵位継承者としては比較的結婚は遅かった。
それだけ唯一の女性に出会うことができなかったのではないかと思う。
オリヴィアだって、少しは前向きに考えたことだってある。
ひょっとして自分は本当にデュリオの唯一なのではないかと。
しかし、もうすぐデュリオが旅立ってから二年が経とうとしている今、その希望も虚しくなっていた。
先日受け取った手紙によると、まだまだ帰って来る気配は窺えなかったのだから。
(いっそのこと、早くデュリオ様に運命の人が見つかればいいのに……)
そうすれば、さすがにデュリオもこの婚約をなかったことにしてくれるはずだ。
オリヴィアは早く自由になりたかった。ずきりと痛むこの胸の苦しみから。
知らず胸を押さえてため息を吐いたオリヴィアの許に、ネリがやって来る。
「お嬢様、奥様がお呼びでございます。居間にいらっしゃるようにと」
「わかったわ。ありがとう、ネリ」
ネリの表情から察するに、おそらく母は機嫌が悪いらしい。
憂鬱な気持ちで居間へと向かったオリヴィアは、そこで驚くことを聞かされた。
「卒業……ですか?」
「ええ、そうよ。女学院には二年も通ったのだから、もう十分でしょう? 明日には残った荷物を片づけていらっしゃい」
「ですが、お母様……」
「口答えは許しません。学院にはもう連絡してありますからね。五日後にアバック伯爵家で開かれる舞踏会に招待されているから、あなたも同行させるつもりよ。エスコート役はジェストに頼んでいるから、安心しなさい。いよいよ、あなたの社交界デビューよ」
突然の卒業宣告にまだ驚いているオリヴィアを気にした様子もなく、母である子爵夫人は意気込んでこの先の予定を告げた。
オリヴィアは数少ない逃げ道を一つ塞がれたような気分で、呆然と母を見つめるだけだった。




