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女学院の入学式。
オリヴィアは周囲のひそひそと囁き交わされる声に興味のないふりをしながら、真っ直ぐに前を向いて席に座っていた。
本当は心臓がばくばくと破裂しそうなほどに速く打ち、できることなら家に逃げ帰って温室に飛び込みたいほどである。
それでも平静でいられたのは、マヌエラからの「あなたは十分に綺麗になったわよ」という励ましの言葉と、何より婚約者としてデュリオに恥をかかせてはいけないという強い決意のためだった。
もちろんマヌエラの言葉には「まあ、私にはかなわないけどね」というおまけつきである。
マヌエラはオリヴィアの婚約者がアンドール侯爵家の嫡子であるという強みを活かして、しっかり格上の伯爵家に嫁ぐことができたのだ。
そのせいか、昔に比べてオリヴィアにずいぶん優しくなっていた。
両親ももうオリヴィアを恥ずかしい存在とは思っていないらしく、人前に出すことを厭わない。
ただし、女学院にこうして入学できたのは、デュリオが父であるカルヴェス子爵を説得してくれたからだった。
そのことを知らされたのはデュリオが旅立った翌日で、入学式までは十日もなかった。
デュリオの旅立ちを見送ることもできず、お礼さえも伝えることができなかったことは、今も残念に思っている。
あの日、肝心な時に熱を出してしまった自分が腹立たしい。
そのことを思い出して、オリヴィアは小さくため息を吐いた。
「ねえ、あなたオリヴィア・カルヴェスさんよね?」
「……はい。そうですけど?」
いきなり隣の女生徒から声をかけられて、オリヴィアは警戒しながら答えた。
姉のマヌエラからは「女学院は戦場よ。微笑みの下にはみんな驚くほどの策略を巡らせているんだから。笑顔で近づいてくる子には気をつけなさい」と忠告されている。
女生徒は表情をこわばらせたオリヴィアを目にして、にやりと笑った。
「わたしはローラ。ローラ・アジャーニ。アジャーニ子爵家の長女よ。そして下に妹が三人、弟が二人いるの。今のところは」
「今のところ?」
「まだこれからも増えるかもしれないから。うちの両親、馬鹿みたいに仲がいいの。領地も小さいというのに、わたしたちの持参金はどうするつもりなのかしらね……。って話が逸れたわ。とにかく、わたしのことはローラって呼んで。仲良くしてくれれば嬉しいわ」
「あの……」
「ああ、警戒するのも仕方ないわよね」
そこまで言って、ローラと名乗った女生徒はオリヴィアに顔を近づけ、内緒話をするように片手で口を隠しながら続けた。
「今もあなたにどうにか話しかけようと虎視眈々と狙っている子たちばかりだものね。その中でわたしがぬけがけしたものだから……。ほら、みんなの歯ぎしりが聞こえるようでしょう?」
「えっと……」
くすくす笑うローラに何を言えばいいのかわからず、オリヴィアは言葉に詰まってしまった。
こんなに率直に話されると、マヌエラの助言のあれこれも役に立たない。
「心配しなくても大丈夫よ。ここにいる子たちはみんなあなたと仲良くなりたいだけ。そうすれば社交界に出る時に箔が付くし、いい縁談も舞い込んでくるしね。オリヴィアさんも社交界に出る前に、ここでなるべく味方を増やしていたほうがいいわよ」
「味方?」
「ええ、そう。今はあなたの婚約者であるデュリオ様は遊学中でいらっしゃらないから、社交界のお姉様方も手出しができないわ。でもお戻りになったら、きっとあなたからどうにかして奪おうとするでしょうね。その頃には、わたしたちも社交界にデビューしているでしょうけど、まだまだヒヨコなわたしたちが一人で敵う相手ではないもの。だからヒヨコたちは一致団結するのよ」
女学院に入学早々、聞かされた内容の露骨さに、オリヴィアは唖然としていた。
今まで友達がいなかったせいか、とにかくついていけない。
女の子とはこんなことを話すのかと、どうでもいいことに考えがいっている。
そんなオリヴィアの様子を見て、ローラはまたくすくす笑った。
「わたしね、あのデュリオ様が自らお選びになった婚約者がようやく世間に出てくるってことで、すごく楽しみにしていたの。いったいどんな子なんだろうって」
「え……」
「でも、すごく拍子抜けしちゃったわ。――あ、悪くとらないでね。嬉しいっていったほうがよかったかな? あのデュリオ様がお選びになったんだから、それはもう非の打ちどころのない神々しいまでのご令嬢が現れると思っていたの。考えてみたら、そんな人いるわけないわよね?」
「それは……」
噂ではアンドール侯爵家のエリカ嬢は、それはもう天使のようだと言われている。
そして予想通り、将来の王妃候補として一番有力視されているらしい。
アンドール侯爵は「娘は誰にもやらん!」と誰に憚ることなく宣言しているらしいが。
そのことについてはデュリオも苦笑していたが、「まあ、僕もエリカを必ず幸せにしてくれるやつじゃないと認めないけどね」と言っていた。
エリカ嬢はまだたったの五歳だが、きっと彼女が成長すれば非の打ちどころがない令嬢になるのだろう。
そう考えて、オリヴィアは微笑んだ。
「ああ、なるほど。何となくわかったわ」
一人何かに納得したのか、ローラはふむふむと頷いた。
よくわからないが、ころころと表情がよく変わる子だ。
「ちなみにね、わたしの狙いはお金持ちで、爵位はなくていいの」
「え?」
「結婚相手の話よ。爵位があってお金持ちでってなると、ライバルも多くてなかなか難しいでしょう? だからお金持ちに狙いを絞るの」
「……あの、まだ社交界デビューもしていないのに……どんな男性がいるかもわからないのに、決めてしまうの?」
「爵位があったり継承者だったりの男性の情報なら、デビューしてなくても知っているわよ。わたしだけじゃなくて、女学院にいる子たちなら当然ね。母親たちがもう目をつけているし、わたしたちも情報を共有しているから。今、高等科や訓練所に通っている男子に目をつけている子もいるけど、わたしは好みのタイプがいなかったのよねー」
「好みのタイプ……。でも、結婚は両親が決めるものでしょう?」
オリヴィアは問いかけながらも、なぜこんな話になっているのだろうと内心首を傾げた。
それともこれが同年代の女の子たちの日常会話なのだろうかと考える。
今まで同年代の子と話をしたことがないので、さっぱりわからない。
ただ確かに、母と姉のマヌエラは「どこどこの伯爵家のご子息が~」とか「あの方は爵位はあっても財産がないから~」などと話していたことを思い出す。
やはりこれが女の子同士の会話なのだろう。
「あら、今どき親が決める結婚なんて古いわよ」
「そうなの?」
「そうなの。――って言えたらいいんだけど、親が決めてしまえば娘のわたしたちは文句は言えないわよね。ただ今の時点で婚約者がいる子たちは上位貴族の子たちくらいよ。あとは自力で見つけるか、見初められるかしないといけないってわけ。そのためには、ここでいかにコネを作るかが勝負なの。ちなみに社交界に出て、とんでもないのに見初められちゃって、本人は嫌なのに父親が了承したばかりに泣く泣く……って子もけっこういるから、その点はわたしはついてるわね。両親が恋愛結婚だから、そういう無理強いはないの。ただねえ、妹たちのことを考えると、できるだけ持参金は少なくていいって人にしたいの。むしろ妹の持参金を出してくれるくらいの太っ腹の人。ええ、この際、お腹が出ていても気にしないわ。お金があって、次に少しの愛情があれば」
「少しでいいの?」
「ええ、それで十分。あまり好きになっても、相手の心が離れてしまった時につらいじゃない。わたしの両親の場合は異例だってわかってるし」
呆気に取られて聞いていたオリヴィアは、最後の言葉に胸を刺された。
だが、ここ最近ずっと練習していた感情を隠す微笑みを浮かべる。
「それで、どうしてわたしにそれを言うの?」
「うーん。まあ、そんなに緊張しなくてもいいのよって言いたかったの。ご家族に何を言われて入学したのか知らないけれど、オリヴィアさんってばすごく緊張して警戒心むきだしなんだもの」
「……そんなにわかりやすかった?」
「そうでもないわ。さっきも言ったけど、わたしは弟妹が多いからわかっただけ。みんなそれぞれ個性が強くてね、長女としては大変なのよ。それでオリヴィアさんのことも放っておけないって思ったの。って、これも長女気質なのかも。嫌だわ、妹にはよくお節介がすぎるって言われるんだけど……ごめんなさい。不快だった?」
今まで自信を持って喋っていたローラが急に不安そうな顔になる。
その差がおかしくて、オリヴィアはつい笑ってしまった。
途端に体から力が抜けていく。
確かに、ローラの言う通り、自分は緊張と警戒心でガチガチになっていたのだと、改めて自覚した。
「笑ったりして、ごめんなさい。不快になんて思っていないわ。むしろ色々と教えてくれてありがとう」
「そう? ならよかった……。すごく長々しちゃったけど、要するにそんなに警戒しなくても、ここにはオリヴィアさんの敵はいないって言いたかったの。むしろ、みんな憧れているのよ。あのデュリオ様にぜひにと望まれて婚約したんだもの」
「……わたしのことはオリヴィアって呼んでくれる? そして、仲良くしてくれるとわたしも嬉しいわ」
大きな誤解を――おそらく世間体のいいように母たちが広めた噂なのだろうが、オリヴィアはそれについては訂正しなかった。
デュリオは責任を取ってオリヴィアと婚約したのであり、別に恋愛感情をもっているわけではない。
今はこの国にいないために二人一緒の姿を見せることはなく、まだ実情を知られることはないだろうけど、いつかは目敏い人が気付くはずだ。
それともデュリオは上手く感情を隠して、オリヴィアに好意を寄せているふりをするだろうか。
(きっと、してくれるわね……)
そこまで考えて、オリヴィアは自嘲した。
こんな噂が広まっているのなら、優しいデュリオは誰にも悟らせないように一生偽ってくれるだろう。
だから、やはり婚約破棄をするためには上手く事を運ばなければならない。
それでもひとまずは、初めてできた女の子の友達と一緒に学院生活を楽しみたい。
先生が来るまでローラのおしゃべりを、オリヴィアは笑顔で聞いていた。
屋敷に戻ると、さっそくデュリオへ手紙を書いた。
入学式を無事に終え、新しい友達もたくさんできたのだと。
そして、こんな機会をくれたことにお礼の言葉も添える。
(これからたくさん、楽しい話をいっぱい書こう。今までデュリオ様ばかりだったから、余計に心配をかけていたのよ。新しい友達ができたから、もう一人じゃないって伝えれば、デュリオ様の負担も減るはずだわ)
何度か書き直した文面を読み返し、封筒に入れて宛先をさらに確認する。
宛先は〝メイアウト王国王立学院高等科 デュリオ・アンドール様〟。
デュリオは侯爵家がいくつか保有している爵位の中から伯爵の位を継いでいたが、学院の生徒に宛てるのに、爵位は明記しないほうがいいと判断したのだ。
両親に見つかると失礼だと怒られるかもしれないので、急いで執事に託し、すぐに出してほしいとお願いする。
それからほっとしたオリヴィアは、初登校の疲れもあってか、その日は両親に会うこともなく自室で食事をして眠りについた。
デュリオからの返事は二十日足らずで届いた。
距離を考えれば、オリヴィアの手紙が届いてすぐに返事を書いてくれたのだろう。
嬉しくなったオリビアはすぐに返事を書こうとして、ふとペンを持つ手を止めた。
今までひと月に一度会うだけだったのに、こんなに早く返事を出してはデュリオに負担をかけてしまう。
そう考えて、オリヴィアは前回手紙を出してからひと月が過ぎるのをじりじりした思いで待った。
デュリオが屋敷へ訪ねてきてくれるのは、ふた月も伸びることもあったが、手紙ならひと月に一度でも許されるだろうと考えたのだ。
その間、オリヴィアは学院生活を楽しむことに勤しんだ。
ローラの言う通り、初めは好奇心むきだしだった女の子たちも、話せば普通の子たちばかりでおしゃれやお菓子の話、時々は社交界で話題になっている男性の話と盛り上がった。
また、デュリオのことをしつこいくらいに知りたがったり、その弟でアンドール侯爵次男のレオンスと仲良くなりたいのだと下心を隠さず近づいてくる子たちもいたが、そういう子はローラや他の子たちに軽くいなされて自然と離れていった。
そして少々大げさなくらいに、学院での日々や母に連れられて初めてお茶会に参加した話などをデュリオへの手紙に書く。
もう大丈夫だと。いつまでも自分は一人ではないので、デュリオがいなくても大丈夫なのだと伝わるように。
デュリオからの返事はいつも当たり障りのない内容で、それでもメイアウト王国のことや学院でメイアウトの王子と仲良くなったことなどを面白おかしく語ってくれていた。
だが、いつも最後の締めくくりはお互いに「体に気をつけて」といったもので、「会いたい」はもちろん「好き」の一言もない。
そんなやり取りも十回を超えた頃、デュリオからの手紙を読んだオリヴィアは、覚悟していた時がきたと気付いた。