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オリヴィアは母にお願いして新たに雇ってもらったマナー教師に、淑女として恥ずかしくない教養や所作を徹底して教わった。
両親はそんなオリヴィアに喜び、大いに応援してくれている。
姉のマヌエラにも、どうすればそのように美しくなれるのかと訊けば、まんざらでもない様子で肌のお手入れ方法などを教えてくれた。
兄のジェストは王立学院正等科でデュリオと同級生だったため、色々な話を訊き出した。
当然、デュリオはもてるらしい。
しかも、成績はどの科目でもトップで、いつも二番に甘んじなければならないジェストは悔しい思いをしているとか。
それでも将来の義兄となるジェストに、デュリオは親しげに話しかけてくるようになり仲良くなったらしい。
ジェストが漏らしたところによると、アンドール侯爵家と姻戚関係になるジェストや女学院でのマヌエラの立場もかなり向上したそうだ。
それほどにアンドール侯爵家の影響力は強い。
またジェストはデュリオの婚約者であるオリヴィアのことを、色々な生徒からよく訊かれるらしいが、適当に誤魔化していると言う。
オリヴィアはそれを聞いてほっとしていたが、実はマヌエラや両親も同様にオリヴィアのことを訊ねられれば口を重くするため、噂ばかりが先行してしまっていた。
アンドール侯爵家の嫡子であるデュリオがぜひにと望んで実現した婚約なのだから、オリヴィアはそれほどに素晴らしい令嬢なのだろうと。
オリヴィアが知れば震え上がってしまうほどの噂だったが、幸い子爵家から出ることのなかったオリヴィアの耳には届かなかった。
ぜひオリヴィアに会いたいと願う者たちが子爵家を訪れることが多くなったが、母である子爵夫人は何かと理由をつけてオリヴィアを部屋から出すことはなかったのだ。
その頃のオリヴィアは、挫けそうになりながらも自分磨きに精を出していた。
事実を打ち明けたあの日から、デュリオの訪問はふた月に一度程度になってしまっている。
あの翌月には、デュリオの幼い妹が熱を出したために、訪問を取りやめにしたいと手紙が届いたのだ。
母はそんなことぐらいでと憤慨していたが、オリヴィアは本当の理由を告げることはできなかった。
やはり嘘を吐いたことで呆れられたのだろう。
その翌月にはデュリオは訪問することになっていたが、その前にオリヴィアはもう嘘は必要ないと両親にきっぱりと言い切った。
真実を打ち明けたのだと告白する勇気はなかったが、どうにか考えた言い訳――いつまでも歩けないと思われては婚約に影響するかもしれないと言い張ったのだ。
さすがに両親も、その言葉には納得した。
怪我をしてから半年も経っているのに未だに怪我が治らないのは、まずいかもしれないと。
そして会わなかったふた月で、回復したと思わせるには十分だと判断したらしい。
立ち上がって出迎えたオリヴィアに、ふた月ぶりのデュリオは変わらず穏やかな笑みで先月のキャンセルを謝罪してくれた。
産まれたばかりの妹はとても体が弱く、未だに予断を許さないのだと。
アンドール侯爵家の令嬢ともなれば、将来は王妃になってもおかしくはない。
しかも年の離れた妹なのだから、デュリオにとってはとても大切な存在なのだろう。
それからも度々、妹の体調を理由に会うことはできなかったが、オリヴィアは仕方ないことと受け入れていた。
いつか、この婚約は破棄することになる。
だから今からデュリオと二度と会えなくなることにも慣れておかなければならない。
おそらく婚約を破棄してしまえば、オリヴィアは社交界にいられなくなるだろうが、それでも何かの間違いで会うことがあれば平気なふりをしなければならない。
それならと、今から平常心を保つ練習をしていた。
それも、目の前で穏やかに話をするデュリオを見ていると、とてつもない難題に思える。
「――だからね、オリヴィア……聞いてる?」
「はい?」
「どうかしたの? なんだかぼうっとしているようだけど、僕の話は退屈だった?」
「ま、まさか! そんなことはありません。ただ、その……」
「うん、何?」
「えっと……デュリオ様が……」
「僕が、何?」
あまりにかっこよくて見惚れていたなんて、とてもではないが言えない。
今になって気付いたことだか、オリヴィアにとって〝トム〟は初恋だった。
そして〝トム〟は王子様になって、オリヴィアの前に現れ、会うごとにかっこよくなっているのだ。
「好き」の気持ちを止められるわけがない。
だが、そんなオリヴィアの気持ちに気付いた様子もなく、デュリオは不思議そうにぐっと顔を近づけて覗き込んでくる。
穏やかに微笑むデュリオを見ていられなくて、オリヴィアはついと目を逸らした。
この気持ちを知られてしまえば、婚約破棄の道は遠くなってしまう。
デュリオは優しいから、絶対にオリヴィアを傷付けたりしない。
「っ、あの、デュリオ様が羨ましくて……」
「羨ましい? 僕が?」
「ええ。だって、高等科では魔法薬学の授業もあるのでしょう? わたしもできれば、勉強したいと……」
「それなら女学院に入学すればどうかな? あそこも確か、希望すれば薬学の勉強もできたはすだよ」
「ですが、わたしは正等科にも通っておりませんし、そもそも両親が許してくれませんから」
「オリヴィアならそれくらい問題ないよ。子爵には僕から話してみようか?」
励ましの言葉をくれるデュリオに、オリヴィアは困ったように微笑んで首を横に振った。
立派な淑女になるための努力を続けながらも、植物に関する勉強は独学で続けている。
今もデュリオとは植物の研究に関する話をしていたのだが、それを両親に知られてしまえば「そんな女らしくないことを」と怒られてしまうだろう。
この春、女学院に進む年齢になったオリヴィアだったが、両親は許してくれなかったのだ。
「春からは、社交界デビューを前に少しずつお茶会などに出席して慣れていくようにと、母に言われているんです。いきなり社交界にデビューするのは、わたしには難しいだろうからと」
「え? もうデビューするつもりなの?」
「いえ、デビューはもう少しあとみたいですけど……」
貴族の子女はたいてい十三歳から三年間、王立学院の正等科へ入学する。
そこで勉学や魔法習得に励みながら同年代の友人を作り、社交界での基盤作りをするのだ。
卒業すれば男子はそのまま高等科へ進学する者もいれば、一年間の騎士訓練所に入所して騎士になる者、また高等科へ戻ってくる者などいるが、女子はほとんどが女学院へ進学する。
ただ正等科は男女共学のため、旧弊な考えの貴族などは娘を正等科へ入学させることをためらい、十六歳からの女学院にいきなり入学させることもあった。
また王立学院には高等科の先に研究科があり、本気で魔法学などを学びたい、研究したいという者たちはそちらに進む。
今のところ、貴族階級の女子の中に研究科へ進んだ生徒はいないが。
「……まいったな」
「え?」
ぼそりと呟いたデュリオの言葉に、オリヴィアは顔を上げた。
両親は早くオリヴィアとデュリオを結婚させたいらしく、オリヴィアの社交界デビューを急いでいるのだ。
あと一年でデュリオは高等科を卒業する。
卒業と同時にと考えれば、オリヴィアが女学院に通っている暇はない。
しかし、当然と言えば当然だが、デュリオには別の考えがあるようだ。
デュリオは困ったような笑みを浮かべて、オリヴィアを真っ直ぐに見つめた。
「僕は近々、遊学することになったんだ」
「遊学?」
「うん。ひとまずはメイアウト王国の王立学院に編入するんだ。それからしばらくは……メイアウトに留まるかもしれないし、他の国へ行ってみるかもしれない。そこはまだはっきりしていないんだけど、二年は帰らない予定なんだよ」
「二年……」
「自国内だけでなく、諸外国を見て回ることも必要だというのが、アンドール侯爵家の……家訓というか……。だからオリヴィアには、高等科は無理でも女学院には入学してほしいと思う。子爵にはこれから遊学のことを伝えるから、その時に話してみるよ」
今でもひと月に一度会えるかどうかなのに、これから二年も会えなくなる。
そう思うと涙が込み上げてきたが、オリヴィアは必死に涙を押し戻し微笑んだ。
「寂しくなりますね」
「……そうだね」
「でも……でもきっと、デュリオ様ならどちらにいらっしゃっても、大丈夫ですわ。ただ、お体だけはお大事になさってくださいね」
「うん。ありがとう、オリヴィア」
オリヴィアの様子をじっと見つめていたデュリオは、どこか複雑な表情ながらも微笑み返してくれた。
ひょっとしてオリヴィアが泣きそうになったことに気付かれたのかもしれない。
それでもまた穏やかな表情に戻って、デュリオは子爵に話があるからと応接間から出ていった。
その後、ほどなくして父の書斎から出てきたデュリオを見送るために、オリヴィアは玄関までついていった。
するとデュリオは両親が見ているのもかまわず、オリヴィアの頬にキスをすると、待っていた馬車に乗り込んだ。
オリヴィアは驚き呆然としたまま、去っていく馬車を見送ったのだった。