11
素朴な木材で縁どられた窓枠に肘をかけて、デュリオは大きくため息を吐いた。
もうすぐ祖国を発ってから二年になる。
それなのに目的のジステモ教授には会えずじまいで、どうにか得た情報を辿って後を追えば、メイアウト王国に戻ってきていた。
一年前、デュリオが王城に滞在していた間に、教授は移動してしまったらしい。
それからデュリオはオリヴィアの手紙を受け取ると、教授の後を追いながらも各国で父の旧友の許を訪ねていたので、どうしても入れ違ってしまうのだ。
そしてようやく教授に追いついたのだが、どうやら宿に大きな荷物を残したまま山に籠ってしまったらしい。
同じ宿に部屋を取ったデュリオが教授の帰りを待って、ひと月が経とうとしていた。
もうそろそろ夕食の時間だが、窓の外は残照のお陰でまだ明るい。
しかし、山の中はもう暗く、教授も山小屋か何かに戻っているだろう。
(いったい、教授はいつ帰ってくるんだ……)
オリヴィアの力について何かアドバイスをもらえれば、オリヴィアはもっと堂々と植物に触れ合えるようになるのではと思ったのだが甘かったようだ。
力のことを隠しているオリヴィアにとっても、やはり迷惑だと思われる可能性もあり、ただの独りよがりのような気がしてくる。
デュリオが再びため息を吐くと同時に、部屋にノックの音が響いた。
おそらく夕食が運ばれてきたのだろうと、従僕に対応を任せていたのだが、急に甲高い声が聞こえ、デュリオは驚いて振り返った。
「デュリオ! ここで会えるなんて思いもしなかったわ!」
「……マリエラ殿下、お久しぶりでございます」
「ちょうどね、この近くの離宮に退屈しのぎにに遊びに来てたの。そうしたら、デュリオがこの街にいるって聞いて、飛んできちゃった。この国に戻ってくるなんて、やっぱり私に会いにきてくれたのよね?」
「まったく違います」
「もう! ここには私とあなたしかいないのよ? 遠慮しなくていいんだから」
人の話を聞こうともせず、よくここまで自分本位に思い込めるものだと、デュリオは半ば感心していた。
だが、さっさと追い返さなければならず、どう言ったものかと考えながら口を開く。
「マリエラ殿下、せっかくお越しいただいたのに申し訳ございませんが、どうかお早くお戻りください。この場にいらっしゃっては、殿下の名誉に関わります」
「先ほども言ったけど、遠慮はいらないのよ。だから、殿下だなんて堅苦しい呼び方はやめて。それに、私のことを思ってくれるのは嬉しいけど、名誉なんていいの。だって、デュリオが責任を取ってくれればいいんだから。素直になって」
「……マリエラ殿下、私には国に大切な婚約者がおります。私は彼女以外に考えられないのです。ですからどうか、お引き取りください」
今度こそきっぱりと言い切ったデュリオの言葉は、ようやくマリエラに届いたようだった。
マリエラは一瞬黙り込み、それから可愛らし顔を歪めて笑う。
「嫌だわ、デュリオ。いったい彼女に何の弱味を握られているの? ケインスタインでも有名なんでしょう? 不釣り合いな縁談だって。彼女か彼女の家族に脅されているなら、私が助けてあげるわ。たかが子爵家の娘が、お父様が認めるほどのあなたと結婚しようなんてずうずうしすぎるもの。お父様から彼女にこの婚約を破棄するよう言ってもらうから安心して。ね?」
「黙れ」
「え? 何て言ったの?」
「黙れ、と申し上げました」
「え?」
デュリオらしくない言葉が聞こえた気がして、マリエラは訊き返したのだが、やはり聞き間違いではなかったらしい。
影のように控えていたマリエラの付き添い女性も、さすがに息を呑んだ。
ゆっくりと話すデュリオの顔には笑みが浮かんでいるのだが、どこか不穏な空気をまとっている。
「ありがたいお言葉をいただきましたので、遠慮なく、素直に申し上げますが、私にとってあなたは甚だしく迷惑な存在です。私の婚約者は誰にでも優しく、困っている人を助けることはあっても、誰かを困らせるようなことは決していたしません。彼女を侮辱しないでいただきたい。いい加減にあなたは甘えを捨て、このように自分本位で我が儘な行動をせず、王女らしく義務を果たすべきでしょう。さあ、どうかお帰りください。そしてまずはこうして無用心にも街へいらっしゃったことで迷惑をかけた者たちに謝罪なさるべきです」
「なっ、なんて無礼な……」
「殿下がお許しくださったことですが、先ほどのお言葉はやはりただの気まぐれだったのでしょうか? もし私が許せないとおっしゃるのなら、どうぞ私を捕縛なさればいい。理由を問われれば、私は自分が殿下にどれだけの無礼を働いたか、いつでも誰にでも事の次第の全てお話しいたしましょう」
「も、もういいわ! デュリオって最低ね! 私はあなたに騙されたって、お父様に言いつけてやるんだから!」
最低でいいから早く出ていってほしい。
でないともっと辛辣な言葉が口から飛び出しそうで、デュリオは硬い笑みを浮かべたまま黙っていた。
マリエラはまだまだ言いたいことがありそうだったが、付き添い女性に促されて部屋から出ていく。
女性はマリエラの背を押しながらも、最後に目で謝罪をしてきたので、おそらくデュリオが一時でも罪に問われることはないだろう。
(まあ、部屋の外に待たせていた騎士たちに捕縛を命じなかっただけ、マシか……)
ようやく静かになった部屋で、デュリオはやりどころのない怒りを収めようと、何度か深呼吸をした。
自分でも今のは大人げなかったとは思う。
マリエラは妹のエリカよりも小さな子供なのだと思って、今まで接してきたのだが、オリヴィアのことに触れられ、最近の苛立ちも相まって八つ当たりしてしまったのだ。
事情を説明して謝罪する手紙をルシアーノに送ろうと考えたデュリオは、従僕たちの様子に気付いた。
どうやら今まで怒ったことのなかった主人の態度に戸惑っているらしい。
デュリオは彼らに謝罪の意味も込めていつもの穏やかな笑みを向け、それから手紙を書くために机に向かった。
一方のマリエラは怒りが収まらず、淑女にあるまじき足音を立てて宿屋の階段を下りていた。
その様子を宿屋の主人や従業員、宿泊客などが恐る恐る見ている。
マリエラは名乗ってはいないのだが、不遜な態度とお付きの者たちの様子から、自ずと正体は知られていた。
幸い上級宿なので従業員も宿泊客たちも身を弁え何も言わない。
ただ若い従業員の一人が盆を持ったまま呆気に取られて彼女を見ていたために、無礼だとマリエラは怒鳴りつけようとした。
その時、たまたま盆に載せられている手紙が目にとまった。
宛名にデュリオの名が記されていたために、注意が向いたのだ。
「――あっ!」
若い従業員の驚きの声が上がる。
マリエラは盆の上から手紙を取り上げると、裏返して差出人を確認した。
途端にマリエラの形相が変わり、思わず従業員が後ずさる。
付き添い女性もさすがにまずいと思ったのか、「お嬢様――」と、今さらな呼称で止めようとしたが、マリエラはぎろりと睨みつけて黙らせると、手紙をくしゃりと握りつぶし、炎魔法でぱっと燃やしてしまった。
その行動に誰もが青ざめ息を呑んだが、非難することができる者などこの場にはいない。
「このことは誰にも内緒よ? もし一言でも漏らしたら許さないわ。いいわね?」
王女の迫力に押され、その場にいた誰もが無言のまま首を縦に振った。
確かに最高級の部屋に泊まっている男性客はそれなりに身分ある人物なのだろうが、特に爵位があるわけでもないらしいことは、記入された宿泊帳からも手紙の宛名からも窺える。
自国の王女の言葉は絶対であり、皆は見知らぬ男性客よりも王女に従わざるを得なかった。
こうしてデュリオ宛ての手紙は――オリヴィアからの手紙は王女によって奪い取られ、読まれることなく燃やされてしまったのだった。
その日から二日後――。
デュリオは従僕によって、ようやく待ち人が戻ってきたことを知らされた。
ジステモ教授が疲れているだろうことは予想できたが、また逃がさないうちにと、デュリオは早々に面会の申し込みを宿屋の主人を通してお願いした。
すると意外にも、今からでも大丈夫だとの答えが返ってくる。
急ぎ身支度を整えたデュリオは、その言葉に甘えて教授の部屋のドアをノックした。
「おや、これは思ったよりもお若い方ですね。どうぞお入りになってください」
ノックからそれほど時間を置かずにドアを開いたのは、身なりのいい老齢の男性。
デュリオこそ、もっと山男的な風貌の男性を想像していたために驚いたが、礼儀正しく口にはせず部屋へ入ると、頭を軽く下げ自己紹介を始めた。
「突然の訪問をお許しください。私はデュリオ・アンドールと申します。ジステモ教授の著書を拝読し、一度お会いして話をさせていただきたいと思い、このように無理を承知でお伺いいたしました」
「ふむ……。デュリオ・アンドールとおっしゃると、ケインスタイン王国のアンドール侯爵家のご子息ですね?」
「――はい、おっしゃる通りです。身分も名乗らず大変失礼いたしました」
「いやいや、それは別にかまいませんよ。旅には何かと危険もつきものですからね。あまり己の素性は明かすものではありません。今のはただの確認です」
ジステモ教授は優しく微笑みながら、おっとりとした口調で鋭くデュリオの正体を見抜いた。
やはり魔法薬学と植物学についての世界的権威であるなと、デュリオは高揚する気持ちを抑え、勧められた椅子に座ると話を切り出す。
それからは意気投合し、明日には国立学院がある隣の街に宿を移すと聞き、デュリオも同行することにした。
オリヴィアからまだ手紙が届かないのがかなりの心残りではあったが、隣の街なら半日程度の距離なので転送してもらえると判断したのだ。
そして、宿の主人に手紙が届いたら必ず転送してくれるように頼み、従僕の一人が先行して確保した宿屋の名前を告げる。
新しい滞在先の宿の名前を記す主人の手は、なぜか酷く震えていたのだが、デュリオは訝しく思いながらも問い詰めることはなかった。
メイアウト王国の要所でもある国立学院のある街は、どことなくケインスタイン王国のハルバリーの街に似ており、デュリオの郷愁を誘う。
しかし、その気持ちを抑え、植物についてもっと知るためにも教授の研究を手伝いながら、しばらく滞在することにした。
国立学院はやはり王立学院より設備的には劣るが、学ぶ意欲の高い庶民のためのものであるせいか、活気に満ち溢れている。
そこで教授の助手として認識されているデュリオは、新しい経験を多くすることができた。
ジステモ教授は採取した植物を詳しく調べるために、いつも近くの学院の設備を借りているらしい。
各国にある学院も教授の名声のおかげか快く貸してくれるので、気がつけばいたる所の客員教授になっているのだそうだ。
「デュリオ君、いい加減にしてくれませんか? そう暗い顔をされていると、こちらまで暗くなってしまいます」
「教授……もうオリヴィアからふた月以上も手紙が届かないんです」
「それなら自分から手紙を書いたらどうですか? 簡単ですよね?」
「しつこいやつだって思われたらどうするんですか?」
「いや、普通は思わないでしょう。毎日毎日送るならともかく、一度も自分から送ったことはないんですよね? 逆にそれがまずいのでは?」
「まずいって……どういうふうに?」
「さあ? 動物は専門外ですから。植物ならたいていは簡単なんですけどね。雄しべと雌しべの問題ですから。上手くいかなければ強引に受粉させればいい。……そうだ! やっぱり強引にいけばいいんじゃないですか? 手紙ってミツバチを待っているようなものですから、直接会いに戻って……えっと、ほら、押し倒せばいいんですよ! 既成事実ってやつです!」
「……もういいです。教授に訊いた私が馬鹿でした」
盛大にため息を吐いたデュリオは、開いていた本を閉じて立ち上がった。
以前泊まっていた宿屋から転送されてきた手紙は、家族からのものと、ルシアーノが名前を伏せて送ってきた謝罪文――戻ってきたマリエラの付き添い女性から聞いた話とデュリオの手紙で事情を知り、マリエラの迷惑行為を謝罪してくれたもの。
その他にも何通かあったが、オリヴィアからは未だにない。
デュリオは本を書架に戻しながら、再びため息を吐いた。
何らかの事故で手紙が届かないという可能性もある。
オリヴィアの自分に対する気持ちに自信がないあまりに気付かなかったが、だからといって今さら『手紙をくれましたか?』なんて訊けるはずもない。
逆になぜこんなに遅くなったのだと、薄情だと思われてしまうだろう。
デュリオは書架に手をつき、がくりとうなだれた。
オリヴィアが何か事情があって手紙を書けない状況――病気や怪我などなら母が間違いなく報せてくれるだろう。
ここ最近のエリカからの手紙は五日に一度から十日に一度ほどになっており、当番制らしい家族の手紙もジェラール、レオンスと続いたので順番から考えれば次は父である。
(ダメだ。父さんにオリヴィアの情報を期待するのは無理だ)
このままオリヴィア本人にも訊けないとなると、あとは母しかいない。
侯爵夫人という強力な味方にようやく考えが至ったデュリオは、書架から離れて席へと戻った。
「ジステモ教授、今日はもう帰ります」
「はい、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。失礼します」
デュリオは学院の特別研究室から出ると、校舎内を急ぎ足で進んだ。
そんなデュリオを憧れの目で見つめている生徒たちの中から黄色い声が上がり、学院から宿までは女性たちの視線を集めていた。
この街ですっかり人気を集めているデュリオは〝微笑みの貴公子〟と呼ばれているのだが、本人は頓着していない。
また街の名士のご令嬢から下町の艶っぽいお姉さんまで、多くの女性が誘いをかけてもまったく見向きもしないことから、一部では〝氷の貴公子〟とも呼ばれている。
恥を忍んで母に書いた手紙は早馬で送ったために速やかに届けられたらしく、数日後にまた早馬で返事が届いた。
その手紙を読んだデュリオは、書かれていた内容に愕然とした。
オリヴィアがもう社交界にデビューをしたというのだ。
しかも、かなりの人気を博していると。
(もちろん、そんなことはわかりきっていだけど……)
てっきり女学院に通っているとばかり思っていたデュリオは、自分の甘さを悔やんだ。
そして嫌な考えが頭に浮かんでくる。
まさか社交界が――夜会などが楽しすぎて、デュリオのことをすっかり忘れてしまったのではないか。
それで手紙が届かないのかもしれない。
(いや、オリヴィアはそんないい加減な人間じゃない。たとえ別の誰かが現れたとしても、僕への義理はきっちりと果たすはずだ)
自分でそう考えて、〝義理〟という言葉に打ちのめされた。
オリヴィアに選択の自由をなどと言いながらも、実際に現実を突きつけれるとこんなにも苦しく耐えがたい。
どこかの誰かが、舞踏会でオリヴィアが初めてダンスを踊るパートナーの権利を奪ったのかと思うと、嫉妬の炎で焼き尽くされそうなほどに怒りが湧いてくる。
その怒りがデュリオを奮い立たせた。
奪われたのなら、奪い返せばいい。
だが、母からの手紙にはまだそれらしきことは書いていなかった。
もしオリヴィアに想う相手ができたのなら、母は見逃さずに全てを伝えてくれるはずだ。
どうやら崇拝者はたくさんいるらしいが、それは当然のことである。
デュリオは一人納得して決意すると、勢いよく立ち上がった。
今から国へ帰ろう。
そして、崇拝者と同じようにオリヴィアに求愛するのだ。
急ぎ従僕へと帰国の旨を告げ、デュリオは机に向かった。
このまま何も言わずに教授の許を去るわけにはいかず、急きょ帰国することになったことと、以前からお願いしていたことに関しての詳細を書き綴る。
書き上げた手紙を従僕の一人に預けると、荷物などを持って後から戻ってくるようにもう一人の従僕に告げた。
それから呆気に取られる者たちを残し、デュリオは最小限の荷物だけを持って、護衛騎士二人と馬で宿を発ったのだった。




