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アンドール侯爵親子が帰った後も、オリヴィアは呆然としてベッドに入ったままだった。
庭師見習いだと思っていたトムが、名門・アンドール侯爵家の子息――デュリオだったなどと考えもしなかったのだ。
侯爵家のご子息に向かって〝お嬢様〟と呼ぶように言うなんて、と勘違いしていた今までの自分が恥ずかしくなる。
思い出せば、トムが現れる時はいつも大切なお客様が来ている時だった。
子爵夫妻はお客様が来てもわざわざオリヴィアを紹介することはなくなり、ただ屋敷の中をうろつかないようにと言いつけられていただけ。
いつだったか、両親が「いっそのこと王立学院への入学もさせないでおこうか」と相談しているのを聞いてしまったほどだ。
オリヴィアはもう両親に認めてもらおうとすることを諦めていた。
友達は欲しかったが、植物たちがいるからと。
それに時々トムに会えたのだから。
それが侯爵家のご子息だったなどと――嘘を吐いていたなんてひどすぎる。
オリヴィアは枕に顔をうずめて涙を堪えた。
(ひょっとして、お姉さまたちが言うようにわたしが馬鹿だから、からかって楽しんでいたのかな?)
しかし、トムがそこまで意地悪だとは思えなかった。
そもそも怪我の原因が自分のせいだと言うのはおかしい。
あれはオリヴィアが勝手に転んだだけなのだ。
それとも、幼いながらも紳士として、オリヴィアを庇わなければと思ったのかもしれない。
まさか婚約までさせられるとは考えもせずに。
今日、謝罪に訪れたトムは――デュリオはオリヴィアの知っていたトムではなかった。
侯爵家の子息として礼儀正しく、他人行儀。
だが、トムの言葉使いも衣服もとても使用人のものではなかったと今ならわかる。
上着こそ着ていなかったが、上等なシャツにピカピカに磨かれた靴。
初めて出会った時の印象が強すぎて、その後のトムの姿をまともに見ていなかったのだ。
アンドール侯爵家がどれだけ立派な家柄なのかは、オリヴィアでも知っている。
陛下の覚えもめでたく、今一番に権勢を誇っているらしい。
そんな侯爵家のご子息が、国家の要職に就くこともなく領地からの収入だけで暮らしている子爵家の平凡な娘と婚約したとなれば、きっと社交界は大騒ぎになるだろう。
やはりこの婚約は不公平だ。
デュリオが気の毒すぎて、オリヴィアは本当のことを両親に知ってもらおうと決意した。
翌日、お昼近くになって起きだした夫人に、オリヴィアはこの婚約は間違っていると訴えた。
しかし、当然受け入れられるわけもなく、両親にこっぴどく叱られ、さらには鞭で打たれることになってしまった。
謝罪に訪れた時の、あんなにもつらそうなトムの――デュリオの顔を思い出すと悲しくなる。
お尻の痛みよりも胸の傷のほうがずっと痛み、オリヴィアは部屋に戻ると泣いた。
オリヴィアがどうすればいいのかわからないまま、デュリオはひと月に一度、婚約者へ会いに子爵家へ訪れるようになった。
そのたびに、すっかり歩けるようになっていたにもかかわらず、オリヴィアはいつも椅子に座っていた。
まだ歩けないふりをするように、両親から命じられていたのだ。
いつこの嘘がばれるのかと冷や冷やしているオリヴィアに、それでもデュリオは穏やかに微笑んで少しの時間を過ごしてくれる。
だから四度目の訪問の時、オリヴィアはついに決意した。
「デュリオ様、今日もわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「いや、婚約者に会いに来るのは当然だよ」
「……そうですか」
穏やかに笑うデュリオはどこか無理をしているようで、オリヴィアはますます決意を固くした。
付き添っていたネリを無理に下げさせて、不思議そうな顔をするデュリオに向き直る。
「わたしはデュリオ様に謝罪しなければいけません」
「……何を?」
「ずっと……ずっと、デュリオ様を騙していたことです」
「騙していた?」
いつも微笑みを浮かべていたデュリオの顔から、さっと表情が消える。
オリヴィアは初めてデュリオを怖いと思った。
それでも打ち明けなければと、ごくりと唾を飲み下し、オリヴィアは勢いよく立ち上がった。
「オリヴィア!?」
「……大丈夫です。わたし、本当は歩けるんです。デュリオ様がご挨拶に来てくださった時から、ずっと。……ごめんなさい。嘘を吐いて、本当にごめんなさい」
心配と驚きの声を上げたデュリオに、オリヴィアは説明をして深く頭を下げた。
そのまましばらく沈黙が続いたが、デュリオがはっとしたように口を開く。
「ダメだよ、オリヴィア。どうか顔を上げて?」
やっぱり許してくれるわけはないかと落胆したオリヴィアにデュリオは近づくと、オリヴィアの震える両肩にそっと手を置いた。
促されて顔を上げたオリヴィアはかすかにめまいを感じたが、必死に堪えた。
ここでふらついては、またデュリオに心配をかけてしまう。
しかし、デュリオに肩を押されて、結局オリヴィアは椅子にすとんと戻った。
そしてデュリオはオリヴィアの足元に膝をつく。
「デュリオ様?」
「謝罪しなければいけないのは、僕のほうだよ。トムだなんて、初めて会った時に嘘を吐いて、それからずっと騙していたんだから」
「でも、それは名前だけで……」
「名前は一番大切なことだよ。それなのに、嘘を名乗るなんて最低だった。だけど、オリヴィアと仲良くなればなるほど、本当のことを言えなくなってしまったんだ。それで……オリヴィアに大怪我までさせてしまった。ごめんね。本当にごめん」
驚くオリヴィアの手を握り、デュリオは頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
どうしてデュリオが膝をついてまで謝らなければならないのか。
混乱したオリヴィアもまた椅子から下りて膝をついた。
「デュリオ様、この怪我はデュリオ様のせいではありません。庇ってくれたのは嬉しいのですが、そのせいでわたしと婚約までしないといけなくなってしまいました。でもわたしはこの通り元気です。両親はわたしのためを思ってくれて……このように誤解させるようなことをしてしまいましたが、本当に大丈夫なんです。だからどうか……デュリオ様からこの婚約を破談にしてください」
「え? ……いや、それはできないよ」
「でも、この怪我の原因はデュリオ様にはないんです。それに、デュリオ様から侯爵様にきちんと言ってくだされば、この婚約をなかったことにできるでしょう? みんなが知ってしまう前に早くやめないと、後に引けなくなってしまいます」
「オリヴィア、僕は引き下がるつもりはないよ。もう約束したんだ。僕はオリヴィアと結婚する。いいね?」
強い決意を緑色の瞳に煌めかせてきっぱり言い切るデュリオに、オリヴィアは困ってしまった。
きっと責任感の強いデュリオは、一度した約束を反故にすることなどできないのだろう。
だが、このままオリヴィアにデュリオを一生縛り付けるのは気の毒すぎる。
そう思ったオリヴィアは自分を一度見下ろし、すっと立ち上がった。
「オリヴィア?」
「わたしはもう、こんなに歩くことだってできるんです」
言いながら、オリヴィアはデュリオから数歩離れ、自分の胸元を結んでいたリボンを解いた。
それから震える指をどうにか動かしてボタンを外していく。
「オリヴィア! いったい何を!?」
「わたしに同情する必要はないんです。両親がどのように伝えたのかはわかりませんが、わたしの胸の傷だってそれほどにひどくはありません。見てもらえれば、それもわかると――」
オリヴィアの言葉は、デュリオに手を掴まれて途切れてしまった。
胸元からは肌着が覗いている。
デュリオは顔を赤くしながらもボタンをはめ、リボンに苦戦して諦めたようだった。
「リボンは……自分で結べる?」
「……たぶん」
「じゃあ、お願いするよ。出入り禁止になんてなったら、僕は困るからね」
困ったように笑いながら、デュリオはぽかんと口を開けたオリヴィアの手を握り、鏡の前へ連れていった。
どうやらリボンを結ぶようにと促されているらしい。
オリヴィアは何度か失敗しながらも、どうにかリボンを結び直すことができた。
それを見てデュリオは首を傾げ、少しだけ歪んでいたリボンを整える。
「うん、これなら大丈夫だね」
「デュリオ様……」
どうにか婚約を破棄してほしくて勇気を出したのに、何事もなかったようにデュリオはまた穏やかな笑みを浮かべた。
それからオリヴィアは再び手を引かれて、気がつけば椅子に座っている。
「オリヴィア、大切なことを打ち明けてくれてありがとう。今日はこれで失礼するけれど、また会いに来るからね」
そう告げると、デュリオは屈んでオリヴィアの頬に口づけた。
何が起こったのか頭で理解するよりも先に、勝手に顔が赤くなる。
そんなオリヴィアを見下ろして、デュリオはくすりと笑うと、部屋から出ていってしまった。
別れの挨拶をちゃんとすることもできず、呆然とするばかりのオリヴィアを、戻ってきたネリが心配する。
「お嬢様? 何があったのです? 大丈夫なのですか?」
「え? ええ、大丈夫、よ。デュリオ様はとても優しくて……」
ネリに笑って答えていたはずなのに、なぜか涙がこぼれ落ちてオリヴィアはびっくりした。
その様子に、何か言おうとしていたネリは口を閉ざし、オリヴィアを優しく抱きしめる。
「私は何があってもお嬢様の味方です。お嬢様はとても素敵な方ですからね。もっと自信をお持ちになってください。私だけじゃありません。お嬢様のことが大好きな者はたくさんおりますから」
「……ネリはちょっと贔屓がすぎるわ」
「あらあら、さっそくお嬢様の悪い癖が出ておりますよ。ご自分を卑下なされるのはおやめになってくださいませ」
わざとらしく口調を厳しくするネリがおかしくて、オリヴィアはくすくす笑った。
自分に自信を持つのはまだ難しいけれど、努力はできる。
デュリオが婚約を破棄してくれないのなら、自分からそう仕向ければいいのだ。
今はまだ無理でも、できる限り本物の素敵な女性になって、デュリオにもう憐れみは必要ないと思わせればいい。
デュリオに責任感だけで結婚させたくない。いつかデュリオに本当に好きな人ができた時に、邪魔になりたくない。
そう考えたオリヴィアは、その日から血のにじむような努力を続けた。