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オリヴィアと会うために子爵家へ訪問することになっていた日の二日前、エリカが突然高熱を出し、侯爵家は大騒ぎになった。
医師からは麻疹だと診断され、元々体の弱いエリカに耐えられるかどうかはわからないと告げられたのだ。
侯爵など心配で眠れないのか、屋敷中をうろうろと歩き回り、まるで死霊のように成り果てている。
デュリオも弟たちも同じようにほとんど眠れず、オリヴィアに会いに行くことも考えられなかった。
それから五日後、みんなの祈りが天に届いたのか、エリカにようやく回復の兆しが見え始め、一歳の頃にすでに罹患していたデュリオも面会を許された。
すぐさま静かにエリカの部屋に入り、発疹の出ている寝顔を痛ましげに見つめる。
すると、侯爵夫人がそっとデュリオに近づき、優しく頭を撫でる。
「心配しなくても、エリカは大丈夫よ。今はまだ苦しんでいるけれど、この子はとても強い子だわ。あなたたちと同じようにね。それに、お転婆で有名だったあなたたちのお祖母様のお名前を頂いたのよ? 元気にならないわけがないわ」
「うん……そうだね」
祖母に関して言えば、お転婆ではすまないのだが、夫人もデュリオもくすくす笑った。
それでも、妹のエリカはとても弱々しくて、絶対に守らなければと思っていた。
デュリオには守るべき存在が二人いるのだ。
それは重圧ではなく、むしろ心躍ることだった。
(オリヴィアに会いたいなあ……)
ここ何日も何度も思い浮かんだオリヴィアのことをまた思い、心の中で呟いた。
まだトムだった頃に見せてくれた純朴な笑顔や、最後に別れた時の真っ赤になった顔も可愛くて、心の中が温かくなる。
そのおかげで、エリカのことが心配だった時にもずっと励まされていたのだ。
しかし、次に会えるまでにまだ二十日以上もある。
(いっそのこと、ひと月に一度なんて約束……)
そこまで考えて、急ぎ打ち消す。
父親としては優しいが、アンドール侯爵としては厳しい父との約束を破れば、それなりの覚悟をしなければならない。
最悪の場合、婚約破棄なんてこともあり得る。
部屋に戻ったデュリオは、オリヴィアのことを考えなくてすむように、そしてオリヴィアとエリカを守れる立派な人間になるために、この五日間の遅れを取り戻すように勉強を始めた。
それからデュリオは、会えないオリヴィアの代わりに――もならないが、せめて何か情報を得られないかと、オリヴィアの兄であるジェストに学院で会えば話しかけるようになった。
初めのうちは不審そうにしていたジェストだが、どうやら彼なりに遠慮していたらしい。
やはり将来のアンドール侯爵の義兄として、ジェストもまた注目されるようになったのだが、そこでこれみよがしに馴れ馴れしくしてこなかったのは、彼なりの矜持であり謙虚さでもあったようだ。
実際に話してみれば、皮肉屋なところは予想通りだが、頭もよく一緒にいて楽しい相手だった。
「俺はお前みたいに、子供のうちに相手を決めるなんて愚は犯さないが、両親に関しては早々に隠居してもらうつもりだから、安心しろ。お前の足を引っ張ったりはしないさ」
何の話からだったかは覚えていないが、ジェストのこの言葉には、デュリオもさすがに驚いた。
父であるアンドール侯爵の懸念の一つを、ジェストは取り除いてくれようとしているのだ。
「……足を引っ張るどころか、とても頼もしいよ。しっかり働いてもらうつもりだからな」
「馬鹿を言うな。俺はのんびり面倒なく暮らすのが夢なんだよ。オリヴィアみたいに必死に努力するのもご免だね」
「おい、オリヴィアのことを悪く言ったら許さないぞ」
「別に悪く言ってないだろ。……いや、悪く言うつもりはない。だが、どうしても気になるから訊いてもいいか? オリヴィアのいったいどこがいいんだ? ちょっと前まではずっと部屋に籠っているか、庭で土いじりしているかのどっちかだったんだぞ? 家族といてもほとんどしゃべらないし、鈍くさいしで、姉さんなんて見ていて苛々するって言ってたくらいだ」
さっぱりわからないといった様子のジェストの質問を、デュリオは黙って聞いていた。
それからこほんと一つ咳払いをする。
「お前やお前の家族を悪く言うつもりはないが――」
「いいよ、言っても」
「……君たちは見る目がなさすぎる。オリヴィアは可愛いだろ? あんなに純粋で私欲がなく、正直者で、動植物にも優しくて――」
「わかった、わかったよ!」
つらつらとオリヴィアのいいところを述べ出したデュリオを、ジェストは慌てて止めた。
そしてうんざりしたように言う。
「まあ、確かにオリヴィアは馬鹿正直だからな。お前との婚約を知らされた時だって、この怪我はお前とは関係ないんだと、だから責任を取って婚約だなんてお前に不公平だって泣いて訴えていたからなあ。それで父さんに鞭で打たれたんだから、馬鹿だよ」
「おい! そんなこと、聞いてないぞ!」
「言ってなかったからな。うちは両親に逆らうと、鞭で打たれるんだよ。姉さんも俺も、表向きは両親の言う通りにするようにしていたけど、オリヴィアはいつまでたっても馬鹿正直なままで……」
デュリオは今聞いた話に衝撃を受けていた。
オリヴィアに――子爵夫妻にもだが、誤解をさせてしまっていたせいで、オリヴィアをそのように追い詰めていたなんて思いもよらなかったのだ。
前回までのよそよそしい態度も当然だろう。
デュリオに責任を取らせていると思っていた上に、怪我が治っていないと思わせるようにさせられていたのだから。
それなのに自分はオリヴィアに期待して、落胆して、傲慢にも他の令嬢と並べて、違うとわかると安堵して、手放さないためにどうするべきかなどと考えていた。
「あー、まあ、余計なことを言ったかもしれないが、気にするなよ。それがオリヴィアだし、今はお前に相応しくなれるようにって努力を始めたんだ。あんなに前向きになったオリヴィアを見ることになるなんて思いもしなかったよ。だから俺も姉さんも、お前には感謝してるんだ。お前がいなければ、オリヴィアはいつまでたっても内気で両親を苛立たせるばかりだったろうからな」
「僕は……オリヴィアに無理をさせているのかな?」
かなり落ち込んだ様子のデュリオに気付いて、ジェストは急ぎフォローを入れたが、上手くいかなかったようだ。
珍しく自信をなくしたのか、デュリオはぼそりと呟いた。
こんなところを女生徒が知ったらがっかりするかもしれない。
(いや、逆に人気が出るか? 女子ってこういうギャップに弱いっていうしな……)
学年一番と二番が自習室で勉強をしている――ふりをしているこの光景を、廊下からちらちらと女生徒たちが見ていることにジェストは気付いていた。
デュリオは見られること自体に慣れているのか、まったく眼中にないようだ。
「いや、だからお前のために無理をしてるんじゃなくて、お前のために頑張っているんだよ。この違いを理解しろよ。お前がオリヴィアのことを好きなのは十分にわかったから。俺がわかっても仕方ないがな。とにかく、お前はオリヴィアを甘やかしたいのかもしれないが、それじゃあオリヴィアは納得しないよ。鈍くさいやつではあるが、それでもお前が恥をかかないようにって、勉強やらマナーやら新しい教師について頑張ってるんだ。両親は満足しているし、姉さんだって優しくなったし、俺もまあ……あれだ」
「どれだ?」
すかさず問いかけてきたデュリオの肩を拳で軽く叩き、ジェストは明言を避けた。
いつもはとても十三歳とは思えないほどに冷静沈着で優秀なデュリオが、オリヴィアのことになると必死になる。
まだ十歳の妹のどこがそこまでいいのか、本気で不思議でならないが、〝アンドール侯爵の唯一〟とかいう呪いのせいだろうとジェストは思うことにした。
それからしばらくは本当に二人で勉強を――魔法基礎学についてのレポートに取り組んだ。
勉強に関して言えば、デュリオとジェストは学年でも群を抜いており、オリヴィアに関係なく二人でするとかなり効率がいいのだ。
やがて下校時刻になってジェストと別れたデュリオは、一人馬車に揺られている間に色々と考えた。
初めてオリヴィアに出会った時から、ずっとデュリオは自分本位だった。
名前を偽ったのも、そのことをいつまでも打ち明けなかったのも、勝手に婚約話を進めてしまったことまでも。
さらにはオリヴィアが変わったと嘆き、変わっていなかったと喜んでいた。
その間に、オリヴィアはデュリオを解放しようと両親に逆らい鞭で打たれ、次にはデュリオに相応しくなれるようにと努力をしてくれている。
「ああ、もう! なんて馬鹿なんだ!」
「――デュリオ様、いかがなされましたか?」
「ごめん、何でもないんだ!」
車内で一人、頭を抱えて叫んだデュリオに御者が声をかけてきた。
慌てて何でもないと伝えると、御者は「さようでございますか」と答えて、そのまま馬車を走らせる。
自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れて、デュリオは大きくため息を吐いた。
本当ならオリヴィアを解放するべきなのだ。
子爵夫妻の怒りがオリヴィアに向かないようにする方法はいくらでもあるだろう。
だが、それでは自分が我慢できそうにない。
ジェストではないが、なぜ自分がここまでオリヴィアにこだわるのか、実のところデュリオにもわからなかった。
ただ好きなのだ。とても。
(だけど、これは〝卑怯〟だよなあ……)
あの話し合いの時、アンドール侯爵家の継承者としての自覚を促してきた父に、デュリオは〝卑怯〟だと責めた。
自分は自由を求めて好きなことをしておきながら、最後には愛する人と結婚したのだから。
もちろん元は祖父同士が決めた婚約者であり、今も母の実家である伯爵家は侯爵家のよきパートナーとして伯父も王宮内で王太子妃の暴走を抑えるのに一役買っているらしい。
やはり全てを手放すことはできないが、父に課せられたルールは守ろう。
会うのはひと月に一度だけ。
過度にオリヴィアを縛ることなく、自然に自分を好きになってもらえるよう努力をしよう。
オリヴィアが自分に相応しくあるように努力をしてくれているのだから、自分も次代のアンドール侯爵として恥ずかしくないようあるべきなのだ。
そして力をつけ、オリヴィアをどんな悪意からも守れるようにならなければ。
屋敷に戻ったデュリオは手を洗って着替えると、もう一人の守るべきお姫様の許に向かった。
先月はお姫様が――エリカが熱を出したために心配で、さらには風邪か何かだとオリヴィアにうつす可能性もあったので、子爵家への訪問はキャンセルしたのだ。
日時の変更も考えたが、学院のテスト期間とも重なり叶わなかった。
だが、オリヴィアからはエリカを心配し、早い回復を祈る、心のこもった手紙と小さなウサギの人形が届いた。
花束は体の弱いエリカにはよくないかもしれないからと、急ぎ人形を手作りしてくれたらしい。
エリカはまだ人形に興味を持つことはできないが、母はその気遣いに感激していた。
デュリオはお昼寝をしているエリカを静かに見つめ、枕元近くに置かれた人形を手に取った。
そしてふと気付く。
てっきり白いウサギだと思っていた人形のしっぽが長い。
たぶんオリヴィアはロンが魔獣だとは気付いていないだろう。
ただ初めて出会ったきっかけになった白いウサギを模しただけなのだ。
デュリオは滅多にない満面の笑みを浮かべた。
するとエリカが気配を感じたのか、目を開けて兄を見つけ、嬉しそうに笑う。
デュリオは惜しい気持ちを隠してエリカに人形を返すと、疲れさせないよう少しだけ話をして部屋に戻ったのだった。




