5
デュリオは子爵家に向かう馬車の中で、大きなため息を吐いた。
婚約者として初対面のあの時から、四度目の面会日になる。
あれだけ明るく笑っていたオリヴィアも、今ではすっかり張り付けたような笑みしか見せない。
デュリオの様子を窺いながらのよそよそしい態度に、他人行儀な言葉遣い。
二回目の面会日には子爵夫人は席を外してくれたため、名前を偽っていたことを謝罪することができた。
対して、オリヴィアは気にしていないと言ってくれたが、その笑顔が今にも泣きだしそうになっていたことに本人は気付いていないのだろう。
また歩くことができないどころか、立ち上がるにも手を借りなければならないオリヴィアを見るたびに、デュリオは罪悪感に苛まれた。
その感情を隠そうと、デュリオは穏やかな笑みを浮かべて一緒の時間を過ごしていたが、二人の間はすっかりぎこちなくなってしまっていた。
(こんなはずじゃなかったのに……)
デュリオと婚約したことでオリヴィアは変わってしまった。
他の令嬢たちのようにデュリオの顔色を窺い、定型文のような言葉しか使わない。
デュリオがオリヴィアの自由を奪ってしまったのだ。
(解放、してあげるべきなのかな)
怪我をしたことで後遺症が残るようなら、世話をする者を派遣することだって、賠償金を払うことだってできる。
子爵が言うには、オリヴィアの体には傷痕が残ってしまうということだった。
そんなことぐらいで拒絶するような男はオリヴィアには相応しくない。
きっとオリヴィア自身の良さを理解して求愛する男が現れるはずだ。
その時に自分が後押しすれば子爵夫妻も認めてくれるだろう。
そこまで考えて、デュリオは再び大きなため息を吐いた。
気がつけばもう子爵家に到着している。
いつものように子爵夫人の大歓迎を受けた後、デュリオは少々重い足取りでオリヴィアの部屋へと向かった。
「デュリオ様、今日もわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「いや、婚約者に会いに来るのは当然だよ」
「……そうですか」
先月と変わらない、椅子に座ったままのオリヴィアのお決まりの言葉に、デュリオは笑顔で答えながら自分の選択が間違っていたとの思いを強くしていた。
その時、オリヴィアはいつも付き添っている世話係の女性に下がるように言いつける。
いったいどうしたのかとデュリオが不思議に思っていると、オリヴィアは久しぶりに強い意思を感じさせる眼差しでデュリオを真っ直ぐに見つめた。
「わたしはデュリオ様に謝罪しなければいけません」
「……何を?」
「ずっと……ずっと、デュリオ様を騙していたことです」
「騙していた?」
オリヴィアの「騙していた」との言葉に、デュリオの顔から笑みが消えた。
自分の罪を思い出したのだ。
そんなデュリオの前で、オリヴィアは意を決したようにごくりと唾を飲み下し、勢いよく立ち上がった。
「オリヴィア!?」
「……大丈夫です。わたし、本当は歩けるんです。デュリオ様がご挨拶に来てくださった時から、ずっと。……ごめんなさい。嘘を吐いて、本当にごめんなさい」
驚きと同時に怪我の具合が心配になって、デュリオは思わず大声を出してしまったが、オリヴィアは静かに説明をして深く頭を下げ謝罪した。
その内容を理解するまで、情けなくもデュリオは呆然としていた。
だが、どうにか頭をはっきりさせると、慌てて口を開く。
「ダメだよ、オリヴィア。どうか顔を上げて?」
オリヴィアが頭を下げる必要などない。
デュリオは恐る恐るオリヴィアに近づいて、その震える両肩に手を置いた。
そして、椅子へ座るようにと、オリヴィアの細い肩をそっと押す。
そのままデュリオはオリビアの足元に膝をついた。
「デュリオ様?」
「謝罪しなければいけないのは、僕のほうだよ。トムだなんて、初めて会った時に嘘を吐いて、それからずっと騙していたんだから」
「でも、それは名前だけで……」
「名前は一番大切なことだよ。それなのに、嘘を名乗るなんて最低だった。だけど、オリヴィアと仲良くなればなるほど、本当のことが言えなくなってしまったんだ。それで……オリヴィアに大怪我までさせてしまった。ごめんね。本当にごめん」
驚くオリヴィアの手を握り、デュリオは頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
一度謝罪はしたが、その時には付き添いの女性がいたためにどこか遠慮してしまっていたのだと思う。
今度こそ心からの謝罪を口にしたデュリオだったが、オリヴィアまでもが椅子から下りて膝をついた。
「デュリオ様、この怪我はデュリオ様のせいではありません。庇ってくれたのは嬉しいのですが、そのせいでわたしと婚約までしないといけなくなってしまいました。でもわたしはこの通り元気です。両親はわたしのためを思ってくれて……このように誤解させるようなことをしてしまいましたが、本当に大丈夫なんです。だからどうか……デュリオ様からこの婚約を破談にしてください」
「え? ……いや、それはできないよ」
予想外のオリヴィアの言葉に、デュリオは何も考えず自然に拒否していた。
つい先ほどまではオリヴィアを解放するべきだと、婚約を解消するべきだとの結論にほとんど達していたのに。
「でも、この怪我の原因はデュリオ様にはないんです。それに、デュリオ様から侯爵様にきちんと言ってくだされば、この婚約をなかったことにできるでしょう? みんなが知ってしまう前に早くやめないと、後に引けなくなってしまいます」
何の打算もない素直な言葉に、デュリオは今さらながら気付いた。
オリヴィアは変わってなんていなかった。
彼女は彼女でデュリオに対して罪悪感を抱いていたのだ。
そんなこともわからず、心のどこかでがっかりしていた自分をデュリオは恥じた。
そして理性がまた囁く。
オリヴィアの誤解を正し、解放してあげるべきだと。
だが、本能がそれを拒絶する。
オリヴィアをこのまま自分に縛りつけてしまいたいと。
結局、勝ったのは理性ではなく本能だった。
「オリヴィア、僕は引き下がるつもりはないよ。もう約束したんだ。僕はオリヴィアと結婚する。いいね?」
デュリオの返事にオリヴィアは困ったように視線をさまよわせた。
だがその視線は自分へと向かい、足元を見つめてからすっと立ち上がる。
「オリヴィア?」
「わたしはもう、こんなに歩くことだってできるんです」
言いながら、オリヴィアはデュリオから数歩離れ、自分の胸元を結んでいたリボンを解いた。
それから震える指をどうにか動かしてボタンを外していく。
「オリヴィア! いったい何を!?」
「わたしに同情する必要はないんです。両親がどのように伝えたのかはわかりませんが、わたしの胸の傷だってそれほどにひどくはありません。見てもらえれば、それもわかると――」
訳がわからず驚いたデュリオだったが、その意図を察するとすぐに近付き、オリヴィアの手を摑んだ。
細い首に華奢な鎖骨、そして胸元からは肌着が覗いている。
(いくらまだ子供だからって、無防備すぎるだろ!)
デュリオは心の中で悪態を吐き、視線を逸らしながらもどうにかボタンをとめた。
しかし、顔を赤くすることは抑えられず、リボンには苦戦して諦める。
「リボンは……自分で結べる?」
頭の中は大混乱しているのに器用にもボタンをとめた自分を、デュリオは褒めてやった。
さらには、冷静な声を出せている自分に心の中で喝采を送る。
「……たぶん」
「じゃあ、お願いするよ。出入り禁止になんてなったら、僕は困るからね」
困ったように笑いながら、デュリオはぽかんと口を開けたオリヴィアの手を握って鏡の前へ連れていく。
するとオリヴィアは、ちらりとデュリオを見てからリボンに取りかかり、どうにか結び直すことができた。
それを見守っていたデュリオは首を傾げ、少しだけ歪んでいたリボンを整える。
「うん、これなら大丈夫だね」
「デュリオ様……」
こんなに純粋で優しいオリヴィアを手放すなど、やっぱりできない。
だからデュリオは何事もなかったかのように穏やかに笑った。
それから再びオリヴィアの手を引いて椅子に座らせる。
「オリヴィア、大切なことを打ち明けてくれてありがとう。今日はこれで失礼するけれど、また会いに来るからね」
そう告げると、デュリオは屈んでオリヴィアの頬に口づけた。
途端にオリヴィアの顔が赤くなる。
そんなオリヴィアを満足げに見下ろして、デュリオは部屋から出ていった。
本当はもっと一緒にいたかったが、これ以上は気分が高揚していて自分が信用できなかったのだ。
帰りの馬車の中では久しぶりに明るい気持ちでこれからのことを考えた。
オリヴィアを手放さないようにするために、どう動くべきかなど。
しかし、次の訪問日をすでに楽しみにしながら帰宅したデュリオだったが、翌月にオリヴィアに会いに行くことはできなかった。




