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相変わらず重装備のオリヴィアと、子爵家の庭で会うようになって三回目の朝。
今日こそは打ち明けようと、デュリオは決意していた。
あの日、帰り際に母である侯爵夫人に疑問をぶつけると、ただ意味深な笑みが返ってきたことで確信している。
オリヴィアが禁止されていた庭仕事を毎日一限だけ許してもらえるようになったのは、どうやってか密かに母が手を回したのだ。
そのことには感謝しているが、オリヴィアとのやり取りを打ち明けることはできなかった。
自分が名前を偽っていること、オリヴィアが植物の声を聞くことができるということ。
本人が秘密にしてほしいと言うのだから、もちろん誰にも言うつもりはなかったが、オリヴィアがデュリオに打ち明けたことを後悔しているような気がして、あれ以来話題にはしていない。
デュリオが子爵家の庭を気に入ったおかげで侯爵夫人がよく訪れるようになったせいか、子爵夫人はデュリオが庭に遊びに出ることに関してはもう何も言わなくなっていた。
季節はいつの間にか初夏になっていて、子爵家の庭もバラが盛りである。
だが、オリヴィアはやはり庭の片隅で、今日も地味な草花の手入れに励んでいた。
その横に並んで屈み、最近興味を持つようになった植物について、デュリオはつらつらと話す。
というのも、いざとなるとやはり本当の名前を打ち明けることができないのだ。
(完全にタイミングを失ったよな……)
今さら打ち明けて何と思われるだろう。
もしデュリオが侯爵家の息子だと知ったら、他の令嬢のように媚びてくるのだろうか。
それよりも、距離を置かれてしまう可能性のほうが大きい。
どちらにしろ、もう今までのような関係は壊れてしまう。
もう二度と、この純粋な笑顔を見ることができなくなってしまう。
そう思うと、デュリオは怖かった。
「やっぱりトムも植物が好きなのね?」
「いや、正直に言えば、そんなに興味はなかったんだ。だけど、オリヴィアがあんまりにも楽しそうに話すから、面白いのかなって思って、色々と調べたんだよ」
オリヴィア専用の花壇に、抜いた植物を植え替えている時、いきなり問われたデュリオは何も考えずに素直に答えていた。
「そうなのね……。庭師を目指すなら当然、勉強もしっかりしないといけないものね」
「……うん。ねえ、あれはスズランだよね? 白くて丸くて、可愛いな」
「あら、あれはスノーフレークよ。よく似ているけど、全然違うの。不思議よね。見た目は似ているのに、中身は全然違うなんて」
話を逸らしたくて、目についた花を指さして感想を述べる。
すると、オリヴィアから間違いを指摘されてしまった。
ちょっと恥ずかしかったが、そう言われれば図鑑で見たなと思い出す。
日陰で育ったせいか、どうやら遅咲きらしい。
「へえ? やっぱり面白いね。僕はあの花が好きだな。コロコロしていてとても可愛い。まるでオリヴィアみたいだ」
図鑑には花の特長や育て方とともに、花言葉も載っていた。
スズランと同じ〝純粋〟〝純朴〟に加えて〝汚れなき心〟と。
春に遅れて咲いた可憐な白い花は、きっと芯も強いのだろう。
その気持ちのままに言葉にすると、オリヴィアは熟れたリンゴよりも真っ赤になった。
「なっ……ば、馬鹿なこと言わないで。そ、それに、トムはいい加減にわたしのことを〝お嬢様〟って呼ぶべきよ。わたしは別にかまわないけれど、誰かに聞かれたらトムが怒られるわ。わたしはこれでも、この家の娘なんだから」
照れ隠しらしいオリヴィアの言葉に、デュリオは現実に引き戻された。
自分はこの純粋なオリヴィアを騙しているのだと。
「……そうか、わかったよ」
「ご、ごめんなさい。偉そうだったわね」
「いや、当然だよ」
今、ここで打ち明けるべきだ。
理性はそう訴えているのに、臆病な心がそれを拒絶する。
ダメだ。このままじゃ言えない。
それなら手紙で打ち明けよう。
しっかり謝罪して、できたらまた会ってほしいとお願いしよう。
そう判断したデュリオは逃げることを選択した。
「それじゃ、僕はもう行かないと」
「あ、ねえ、トム! わたしたちは……友達だよね?」
「……うん。友達だよ」
友達だなんて言える資格はない。
だが、デュリオはどうにかいつもの笑顔を浮かべて頷いた。
もうこれ以上ここにはいられない。
あまりにも純粋なオリヴィアの傍にいることができなくて、デュリオは走り出した。
後からオリヴィアが追ってくる気配がする。
待ってあげるべきなのに止まれない。
それでも止まるべきだったのだ。
オリヴィアの「あっ!」と悲鳴に近い声が聞こえて振り返った時にはもう遅かった。
まるで時の流れが変わったかのようにゆっくりと、オリヴィアの体が傾いていく。
このままでは、剪定した枝の束に倒れてしまうとわかっているのに、自分の体までもがゆっくりとしか動かない。
「オリヴィア!」
虚しいだけの呼びかけ。
オリヴィアは倒れ、一度小さな悲鳴を上げただけでデュリオが何度声をかけても反応しない。
どうにか倒れ伏したオリヴィアを仰向けにすると、重装備の衣服の胸のあたりは血に染まっていた。
そこからデュリオはあまり覚えていない。
ただ必死に助けを呼び、庭師たちが駆けつけ、母から事情を聴かれた時もただ「僕のせいだ」と答えていた。
(オリヴィアの怪我は僕のせいなんだ……)
あの時、逃げ出さなければ。
追いかけてくるオリヴィアを待てば。
そもそも嘘なんて吐かなければ。
学院を休み部屋に籠もって、後悔し続けた三日間。
両親どころか弟たちにも心配をかけてしまっていたが、オリヴィアが意識を取り戻したと母から伝えられて、デュリオはようやく心の闇の中から抜け出した。
(よかった……)
どれだけほっとしたかわからない。
もう二度とオリヴィアに会えないかもしれないと思うと、嫌われるよりもずっと怖かった。
同時にデュリオは自覚した。
(僕はオリヴィアが好きなんだ……)
どうして母に無理を言ってまで何度も子爵家に――オリヴィアに会いに行ってたのか。
嫌われるのが怖くて、いつまでも本当の名前を打ち明けられなかったのか。
デュリオは自分でもよくわからなかった胸の中のもやもやがやっと晴れたような気がした。
「母さん、オリヴィアのお見舞いには行けるかな?」
「……そうね。それはお父様に相談してみないとわからないわ」
母の返答に、デュリオはもう自分だけの問題ではないと悟った。
侯爵家の力があれば、この件をなかったことにするのは簡単だろう。
むしろそちらのほうが全て円滑に進められる。
しかし、そうすると本当にオリヴィアとはもう二度と会えなくなってしまう。
オリヴィアが生きている。それだけでとても嬉しい。
だが、同じ世界で生きているオリヴィアに会えないなんて、拷問に等しい。
そこまで考えて、デュリオは母を見た。
「母さんは、父さんの〝唯一〟なんだよね?」
「まあ、誰から訊いたの?」
「〝アンドール侯爵家の唯一〟って有名なんだってね? 学院に入学してすぐに、女子から訊かれたよ。もう唯一は見つけられたんですか? って」
「あら、最近のお嬢さんは積極的なのね」
侯爵夫人は息子の言葉にくすくす笑った。
そんな母に、デュリオはかすかにためらい、意を決して問いかけた。
「母さんにこんなことを訊くのは間違っているのかもしれないけど……アンドール侯爵の唯一って、本当のこと?」
「さあ、どうかしらね……。確かに歴代のアンドール侯爵は妻である侯爵夫人一人を愛していたってお話だし、あなたのお祖父様はお祖母様のことをそれはもう大切になさっていらっしゃったわ」
「父さんだってそうだよね? だとしたら、やっぱり母さんは唯一でしょう?」
「そうなるのかしらね……」
「……母さんは嫌なの?」
「まさか! もちろん私もお父様を愛しているし、とても幸せよ。ただ、アンドール侯爵の唯一って好きじゃないわ」
「好きじゃない?」
「ええ。はっきり言って、〝くそ食らえ〟よ」
「……え?」
いつも上品でお淑やかな母から今、信じられない言葉を聞いた気がする。
デュリオは唖然として訊き返した。
「お父様と私はね、お父様が十歳、私が七歳の時に初めて出会ったのよ。それでお祖父様はお父様と私の婚約を決めてしまった。お祖父様には何か感じるものがあったのかもしれないわね。運命だなんて言う人もいるわ。でもね、お父様はその時に私と会ったことを覚えていないのよ」
「本当に?」
「ええ。それ以来、お父様は私に会いに来てくださることはなかったの。決められた婚約だなんて〝くそ食らえ〟だと言ってね」
「……え?」
結婚して十数年、未だにあれほど母を熱烈に崇拝している父の言動とは思えない。
驚く息子に笑いかけながらも、侯爵夫人は昔を懐かしむように続けた。
「お父様はご自分で運命の相手を見つけたかったみたい。それに〝アンドール侯爵の唯一〟って言葉に縛られたくなかったようね。駄々っ子と一緒よ。それで、ある夜会で出会った私にいきなりプロポーズしたの。私の名前も知らないのに」
「うわー」
「その時の私は何歳だったと思う? 二十二歳よ? 完全に嫁き遅れよ」
「それで……母さんはどうしたの?」
「お父様の頬を思いっきり叩いて、脛を蹴って逃げ出したわ」
「すごく……気持ちはわかるよ」
初めて聞いた両親の恋愛話にデュリオは驚き、父に対して呆れた。
尊敬する父は公人としてはとても厳しく立派な人間だが、家族と過ごしている時はとても優しくユーモアに溢れている。
そして母には頭が上がらない。
その理由の一つを知ってしまって、なぜかデュリオはがっかりするよりも嬉しかった。
完璧な人間なんていないのだと。
「僕も唯一とかそんなのはわからない。でも、オリヴィアにまた会いたいんだ。会って、いっぱい謝って、またあの笑顔を見たい」
「そう……。では、お父様にその気持ちをきちんと伝えなさい。きっといいようにしてくださるわ」
「うん。ありがとう、母さん」
デュリオは久しぶりに笑顔を浮かべ、母親の頬にキスをした。
それから、書斎にいるという父の許に向かったのだった。




