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ケインスタイン王国の名門貴族、アンドール侯爵家には秘密があった。
秘密といっても国王夫妻は知っており、理解を示してくれている。
それは先代侯爵夫人についてであり、女性でありながら冒険家だった彼女が亡くなった今も、王妃陛下は彼女から友情の証としてもらった魔法石の指輪を大切にして過ごしていた。
そんなある日、アンドール侯爵家の長男であるデュリオは己の不運を嘆いていた。
なぜ自分がこんなことをしなければならないのかと。
デュリオは王城で白いウサギの目撃情報が上がるたびに、必死になって探す羽目になっていたからだ。
実は王城の離宮にある王妃陛下お気に入りの庭――色彩の庭には、とあるジンクスがある。
色彩の庭で白いウサギを見つければ幸せになれると。
しかし、これはデュリオの父であるアンドール侯爵が流したでたらめであった。
皆が信じる白いウサギとは、本当はウサギの姿によく似た魔獣であり、本来は〝暗黒の森〟と呼ばれる魔獣の棲む森から出てくることはない。
それがデュリオの祖母――先代侯爵夫人が入り込んだ暗黒の森で出会い仲良くなったらしい。
そのため、白いウサギもどき――ロンと名乗る魔獣は、〝共鳴石〟と呼ばれる魔法石を使って、先代侯爵夫人にたびたび会いに来ていた。
そして、先代侯爵夫人が亡くなった今でも、ロンは祖母の親友であった王妃を訪ねて時々遊びにやってくるのだ。
それが今回、どうやらロンは共鳴石を落としてしまったらしく、未だに暗黒の森へと帰れないでいるらしい。
あちらこちらで上がる白いウサギの目撃情報に、幸せを求めて多くの人たちが色彩の庭だけでなく、王城内でウサギを――ロンを探して、ちょっとした騒ぎになっていた。
実際にロンが捕獲されることになれば、高位魔獣として何かの魔法を発動しかねない。
そんな惨事を避けるためにも、早くロンを見つけなければならないのだが、最近では目撃情報も王城の外から上がっていた。
ちなみに、共鳴石は色彩の庭の片隅に落ちていたものを父であるアンドール侯爵がすでに回収済みである。
「どうして僕がこんなことをしなければいけないんだよ……」
デュリオはカルヴェス子爵家自慢の庭の茂みをがさがさとかき分けながら、ぶつぶつ文句を言っていた。
本来なら、こういうことは弟のレオンスのほうが得意なのだ。
生真面目なデュリオと違って、レオンスは子供らしさ全開で淑女の集まりにも平気で割り込む。
もちろんそれは演技ではあるのだが、女性たちはみんな無邪気な美少年の姿に騙されるのだから、デュリオとしては微妙な気持ちになるのだった。
それなのに、肝心な時にレオンスはいない。
なぜかレオンスは昨日急に友人の家に泊まると言い出し、その通りにしてしまっていた。
「レオンスのやつめ、絶対に昨日のうちから今日のことを知っていたんだ。父さんと母さんの話をまた盗み聞きしたに決まってるよ」
ロンの目撃情報が、王城の周囲に広がる貴族たちの屋敷で上がり始めたのが五日前。
侯爵が調べたところ、貴族たちの屋敷街の西側に集中し、徐々に自然の森に近い北側へと移動しているのだ。
そこで侯爵が次に出現するであろうと予測したのがカルヴェス子爵家の庭だった。
カルヴェス子爵家は貴族としては下位ではあるが、自然豊かな庭を自慢にしているらしい。
自慢の庭というだけでは貴族たちの屋敷にはよくある。
しかし、アンドール侯爵家の情報網で得たところによると、子爵家の庭の目立たない一角には、なぜか雑草が植えられた――というより繁殖した花壇があるとのことだった。
綺麗に整えられ、品種改良のなされた植物で彩る庭よりも、どう考えてもロンの好みは雑草が繁る庭だ。
そのため、交流のなかったカルヴェス子爵家に適当な理由をつけて訪問することになり、大人たちが話している間に、子供であるデュリオが庭を探すということになったのだった。
「だいたい、父さんの予想であって、本当にここにロンがいるのかも――」
またぼやいていたデュリオは、遠くでさっと白い影が過ぎるのを見てしまった。
あのウサギにはあるまじきフワフワのしっぽは間違いなくロンのものである。
デュリオは子供らしくないため息を吐いた。
父であるアンドール侯爵とロンは会えばケンカが始まるが、実はとても仲が良いと思う。
そのことを指摘すると、合わせたように同時に否定するところなどは特に。
とにかく父から預かったロンの共鳴石を渡さなければと、デュリオは憂鬱な気分で走った。
ロンがどうやら通ったらしい跡を見つけて、茂みの中に潜り込む。
できる限り庭師に迷惑をかけないように気をつけているため、顔に引っかき傷ができ、服や靴は泥土がついていく。
後でどう言い訳をしようかと考え、それは父に任せればいいかと結論を出した。
先ほど挨拶した子爵夫妻は、アンドール侯爵とその息子が訪れたというだけでかなり興奮していた。
デュリオが庭へ出る時も夫人は意味もないことをしゃべり続けていたので、きっと父は今でもあのおしゃべりを聞いているのだろう。
そう思うと、デュリオはちょっとだけ留飲を下げた。
(でも、あのジェストっていう息子は面白いかもな……)
子爵夫妻から子供たちを紹介されたデュリオは、微笑みながらも冷静に二人を観察していた。
だが、子爵の息子――ジェストも同じように微笑みの下でデュリオを観察していたのだ。
しかも、あれこれと息子自慢をして、同じ年齢のデュリオとはきっと親友になれると言う母親に笑顔で応じながらも、その表情には皮肉が浮かんでいた。
さらには子爵夫人が女学院に通っている娘のマヌエラは素晴らしい淑女になるだろうと前置きした後で、年上妻の利点を上げ始めた時には笑いを必死に堪えていたのだから、両親とはかなり違った考えを持っているようだ。
そして、デュリオが庭を見てみたいと言い出した時、ジェストは案内を申し出ておきながら、庭に出るとすぐにどこかに行ってしまった。
「庭を見たいなんて、母の退屈なおしゃべりから逃げるための口実ですよね? この先に東屋があるので、そこで時間を潰してはどうですか? 侯爵様がなぜ我が家にいらっしゃったのかはわかりませんが、きっと肝心の用件を切り出すことができるまでに、まだまだ時間はかかるでしょうから」
そう告げて自分の部屋に戻るのか屋敷に向かうジェストを見送ったデュリオは、これ幸いとばかりにロン探しを始めたのだ。
それにしても、本当に自分はいったい何をしているのだろうと思う。
他人の屋敷の庭の茂みに這いつくばっている自分を見下ろして、デュリオはまたため息を吐いた。
そこに女の子の声が聞こえ、慌てて向かう。
もしロンの姿を見られて、庭師にでも報告されたら面倒なことになる。
そのことばかりに気を取られていために、女の子を驚かせてしまうことまでは考えが及ばなかった。
「ごめん、驚かせたよね?」
茂みから顔を出した途端、怯えて固まってしまっていた女の子にデュリオは謝罪した。
怪しいところを見られてしまったことは恥ずかしかったが、侯爵家の人間としてどうにか平静を装う。
デュリオに害はないとわかったからか、女の子は明らかにほっとしたようだ。
「あ、……うん。誰?」
「僕は、――トム。白いウサギを探していて迷ってしまったんだ」
咄嗟にデュリオは、侯爵家に古くから仕える老騎士の名前を騙ってしまった。
正式名を名乗れば、いつも相手は一歩引いて距離を置く。
だからこそ、吐いてしまった嘘だったが、その必要はなかったかもしれない。
顔と衣服のあちこちに土と草の汁で汚れた彼女は、庭師の娘なのだろう。
名乗っても支障はなかったようだ。
デュリオがそう思った時には、女の子はにっこり笑って中心部を指さした。
「ああ、あの野ウサギね。それならあっちへ逃げていったわよ」
くすりと笑った女の子はそれまでの印象を一変させ、あまりの可愛いさに一瞬呆けてしまったデュリオは、指さされた方向に振り返り、ようやく目的を思い出した。
視界に広がるのはとても綺麗に整備された庭。
「え? あっちは綺麗な花壇があるほうじゃないか! ごめん、もう行かないと。驚かせてごめんね? えっと……?」
「オリヴィアよ」
「そうか。ありがとう、オリヴィア!」
デュリオは急ぎロンを追いかけようとして、女の子の名前をまだ聞いていないことに気付いた。
別に知らなくてもいいことなのに、なぜか知りたかったのだ。
礼儀正しく問いかけることもできなかったが、女の子はちゃんと名乗ってくれた。
お礼を言って走り出したものの、胸がどきどきして少し苦しい。
それがどうしてなのかはまだデュリオにはわからなかったが、もっと彼女と話したかったという思いだけはしっかりわかった。
追いかけなければならないロンに腹が立つ。
だが、ロンがいなければ彼女と出会うこともなかっただろう。
複雑な心境でようやくロンを見つけたデュリオは、革袋に入れられた共鳴石を渡し、無事に暗黒の森に帰ったのを見送った。
体からどっと力が抜ける。
ロンは大した感謝の言葉もなく、追いかけっこも楽しかったなと告げて消えていったのだ。
それでもどうにかこの面倒な仕事からやっと解放された。
はあっと深く息を吐いたデュリオは、またあの女の子――オリヴィアの許に戻ろうかと考え、そこで迎えにきた子爵家のメイドに見つかってしまった。
あまりに遅くなったため、捜しにきたらしい。
メイドはデュリオの姿を目にして青ざめ、急ぎ戻っていく。
どうやら子爵夫人への報告と清潔な布巾を取りにいったようだ。
(面倒だな……)
自宅では自由にさせてくれるが、外に出れば誰からもアンドール侯爵家子息としての品位を期待される。
もし嫡子でなければ、もう少し自由にできたかもしれないと、レオンスを見ながら思うことはあっても羨んだりはしない。
ただ父であるアンドール侯爵が若い頃に、遊学と称して各国を渡り歩いていたことは理解できた。
(でも、僕にはそこまでの冒険心はないな……)
父はおそらく祖母に似たのだろう。
デュリオの祖母は女性としてはあり得ないが冒険家であり、幼馴染だった祖父はじっと祖母の帰りを待っていたとか。
これらは全て祖母に仕えていた護衛騎士のトムから聞いた話だった。
(ああ、トムなんて名乗るんじゃなかったな……)
トムのことから先ほどの嘘を思い出し、心苦しくなる。
間違いなくデュリオは祖父似であり、どうにも真面目が過ぎるのだ。
そのことを父はよくからかうが、父やレオンスのように人前でだけ取り繕うのは不誠実な気がしてできない。
だが、その不誠実な行動をオリヴィアにしてしまった。
もやもやしたこの気持ちはきっとそのせいだろうと、デュリオが胸を押さえた時、急いだ様子の子爵夫妻とメイド、その後ろを父である侯爵がのんびりと向かって来ていることに気付いた。
「まあ、デュリオ様! いったいどうしたのです!? まさかオリヴィアが――」
「と、とにかく! 屋敷に戻って、お着替えをなされたほうがよいでしょう」
「いえ、私たちはこれで失礼いたしますから、かまいませんよ。このまま馬車に乗れば、お宅を汚す心配もないでしょう?」
発狂しかねんばかりに甲高い声を上げた子爵夫人の言葉に、子爵が割り込んだ。
普通に考えて、もし原因があるならこの場にいないジェストを疑いこそすれ、なぜオリヴィアの名が出てくるのかと疑問に思ったが、デュリオは何も言わなかった。
そして追いついた父に、目配せでロンのことを伝えると、言い訳は任せましたよ、とばかりにかすかに微笑んだ。
「で、ですが、このままお帰りいただくのは……」
「どうぞお気になさらないでください。先ほども申しました通り、この子は自然が大好きでしてね。夢中になって珍しい植物を観察したり、綺麗な蝶を追いかけたりするものですから、いつも衣服は汚れてしまうのですよ。私たち夫婦ももう慣れておりますから、大丈夫です」
「そ、そうなのですか……?」
やられた。
今の説明ではまるで馬鹿みたいではないか。
デュリオは父の言い様に羞恥で顔を赤くして俯いた。
挑戦的な笑みがいけなかったのだろう。
服を汚すにはもっともな言い訳であり、デュリオは腹を立てながらも何も言い返すことができなかった。
そのため仕方なく馬車へと黙って乗り込み二人きりになると、途端に苦情を口にする。
「父さん、あの言い方は酷すぎます! まるで僕が馬鹿みたいじゃないですか! 蝶を追いかけて衣服を汚すなどと。こんなに汚れたのは、ロンがあちこちと逃げ回ったせいなんですから! そもそもどうして僕が探さないといけなかったんです? 父さんが探すべきだったんですよ。ロンの親友なんですから」
「誰が親友だ。それに考えてみなさい。私があちこちの茂みを屈みこんで覗いていれば、正気を疑われるだろう。だが、お前なら問題ない。どこにでもたいていは入り込める上に、子供だからと許してもらえる。先ほどだって、何もおかしくないだろう。それよりも、子爵の息子はどうしたんだ?」
「……母のおしゃべりは退屈だから抜け出す理由だったんでしょう? と言って、自分はさっさと屋敷に戻りましたよ」
デュリオは憮然として答えながらも、結局は父の言うことは正論であり、反論できない自分が悔しかった。
何日も苦労してようやく発見できたロンはろくに感謝もせずに去っていったのだから、余計に腹も立つ。
「ほう? あの夫妻の息子にしてはなかなか見どころがあるな。確かに、あの夫人のおしゃべりを聞いているくらいなら、私も庭を這いつくばっているほうがよかったよ」
苦笑する父をちらりと見て、そういえばと考える。
あの夫人が使用人の娘を名前を覚えているとは思えない。
子爵も夫人の言葉を慌てて遮っていた。
「……父さん、子爵家に子供は二人だけでした?」
「何だ、デュリオ。お前ちゃんと夫人の話を聞いていなかったな? もう一人末に娘がいるが、今日は熱を出しているため紹介できないと言っていただろう?」
仕方ないやつだなと言うようにため息を吐く父を、デュリオは皮肉げに見返した。
父だって〝ちゃんと〟は聞いていなかったはずだ。
ただ前もって子爵家についての調査はしっかりしているために、家族構成くらいは当然頭に入っているのだろう。
カルヴェス子爵夫人なら、娘に熱が少々あろうがベッドから無理やり連れだしたに違いない。
どこの家庭でも、デュリオが訪問すれば、ここぞとばかりに年頃の娘は紹介されるのだ。
そして娘たちはまだ幼いのに、しっかり媚びを売ってくる。
(そうか、オリヴィアにはそれがなかったんだ。何の思惑もないただの笑顔だったから……)
どうしてあの笑顔がこんなに印象に残っているのかがわかって、デュリオはすっきりした。――つもりだったが、どうにも胸に何かが引っかかる。
これを解消するには、もう一度オリヴィアと会えばわかるのではないかと、デュリオは考えた。
「ねえ、父さん。子爵家の末の子供の名前、オリヴィアで合ってる?」
「……そうだが、どうした?」
「あそこの庭はとても楽しかったんだ。もう一度行ってもいいかな?」
父なら紹介されていなくても子爵家の人間の名前くらいは知っているだろうと訊ねると正解だった。
しかし、デュリオの言葉に侯爵はかすかに顔をしかめる。
「デュリオ、あの庭でロン以外の何を見つけたのかは知らないが、カルヴェス子爵家はダメだ」
「どうして?」
「子爵は日和見が過ぎる。だが、近いうちに王太子妃派に取り込まれるだろう」
父ではない、アンドール侯爵としての言葉に、デュリオは押し黙った。
ケインスタイン王国には今、重大な問題がある。
王太子の正妃であるサビーネ妃は隣国バルエイセンの元王女なのだが、妃は性格に多少の難があり、故国バルエイセンの者たちを重用しすぎるのだ。
しかも、四年前にサビーネ妃が継承者である王子を生んだことにより、さらに力を増していた。
ただ王太子には愛妾との間にすでに王子がおり、王太子の母である王妃がこの第一王子の後見についているような状態のため、王妃派と王太子妃派となって水面下で派閥争いが起こり始めている。
「……父さんは、カルヴェス子爵についてどうお考えなのですか?」
「取るに足りない存在だな」
「そうですか……」
要するに、王太子妃派にいようが、いまいが――さらに言うなら、王妃派にいたとしてもどうでもいい存在ということなのだ。
特に王妃自体が派閥を作っているわけではない。
ただ反王太子妃派の人間が王妃の下に集まっているだけのことである。
今はまだ小さな燻り程度であるが、これがきっと後に大きな問題になることはデュリオでもわかることだった。
その頃には自分も大きく関わることになるのだろうと思うと、デュリオとしては憂鬱以外の何ものでもなかった。




