10
昼間の和やかな雰囲気の中で行われるお茶会と違って、お酒も入り気分も高揚する夜会はトラブルが起きやすい。
オリヴィアには逃げるなと命じた子爵夫人は、気分が悪いとの理由で欠席するとのことだった。
エスコート役は兄であるジェスト。
シルー夫人しか味方はいないと思って出席したオリヴィアだったが、そこで意外な事実を知ることになった。
「お兄様、今日はお友達とご一緒されないんですか?」
「馬鹿なことを言うな。今の状態のお前を残していけるわけがないだろう?」
「……え?」
「そんなに驚くなよ、失礼なやつだな。僕は確かに妹のお守りなんてご免だと思っている。だが、妹が窮地に陥っているというのに見捨てるなんて薄情なことはしないさ。お前は僕の大切な妹なんだから」
「お兄様……」
いつも会場に着くと、頃合いを見計らってどこかにいってしまう兄のことだから、今夜もきっとカードゲームか何かに興じると思っていた。
しかし、それはオリヴィアの安全を確認したうえでの行動だったのだ。
両親が揃っている夜会、親友のローラが出席している夜会など。
シルー夫人が付き添うようになってからは、特にすぐどこかへ姿を消していたが、ちゃんと妹のことを考えてくれていたらしい。
そんなことにさえ気付かなかった自分が愚かで、本当に独りよがりだったと、オリヴィアは後悔した。
耳まで赤くして顔を逸らしてしまった兄の腕に手を添えて、オリヴィアはそっと微笑みかける。
「ありがとう、お兄様。馬鹿な妹で、ごめんなさい」
「本当に馬鹿だよ、お前は昔から。それに思い込みが激しすぎる。だが心配するな。お前はお前でいいんだ」
「わたしはわたし?」
「ああ。鈍くさいやつだったのに、デュリオに相応しくなりたいと必死に努力して、あの姉さんが認めるほどになっただろう? まあ、落ち込むと植物に話しかける癖はいい加減にやめたほうがいいと思うけどな」
「そ、それは……」
未だに植物に話しかけていることを知られているとは知らなかったオリヴィアは慌てた。
顔を真っ赤にしてあわあわするオリヴィアの頭を、ジェストはぽんぽんと軽く叩く。
兄ならではの気安さと気遣いのなさで、結い上げた髪のことなんて気にもしていない。
むうっとしながらもさり気なく髪型が乱れていないかそっと頭に手をやるオリヴィアを、ジェストはにやにやしながら見ていた。
どうやらわかっててやったらしい。
オリヴィアは兄から幼い頃によく意地悪をされていたことを思い出して、あれも愛情の裏返しだったのかと気付いた。
「お兄様――」
「カルヴェス卿? よろしければ、次の曲を私と踊っていただけませんか?」
突然割り込んだ声に驚いて振り返れば、三人の令嬢が立っていた。
見かけたことはあるが、オリヴィア自身は話したことはない。
しかし、こうして話しかけてくるということは、ジェストとは面識があるのだろう。
女性から誘われてもっともな理由もないのに断るのは、相手に恥をかかせることになる。
オリヴィアをこの場に残していくことにためらうジェストの次の言葉を察した女性たちが先手を打った。
「彼女のことなら心配はいりませんわ。私たちが一緒についておりますから。妹さんでしょう?」
「……ええ。妹のオリヴィアです。オリヴィア、こちらがサジュマン伯爵のご令嬢でナディア嬢。そして……」
ジェストは渋々三人を紹介したが、何より心配しているのは、彼女たちの中にオリヴィアを残していくことだろう。
オリヴィアはここで兄に庇ってもらってどうすると、震える足に力を入れて笑みを浮かべた。
「お兄様、わたしはナディア様たちとここでお話をしておりますから、どうか踊りを楽しんできてください」
ジェストは妹の言葉にかすかに驚いたようだったが、強い決意が見える茶色の瞳を目にして、小さく頷いた。
次の曲が始まり、ジェストは最初に声をかけてきた令嬢の手を取ってフロアへと向かう。
オリヴィアが視線を部屋の片隅、付き添い役の夫人たちが休んでいるソファの方へと向ければ、シルー夫人と目が合った。
夫人の顔には心配は浮かんでおらず、まるで「やってしまいなさい!」とけしかけるように笑っている。
「よく、この場に出てこれたわね!」
「本当になんてずうずうしいのかしら!」
ジェストたちがある程度離れた途端、ナディアたちがオリヴィアに向かって笑顔で詰り始めた。
オリヴィアは今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えて微笑む。
きっと傍から見れば、楽しく会話しているように見えるだろう。
「いったい何のことでしょう?」
「まあ、しらばっくれるつもりね? ルゼール卿のことよ!」
「ルゼール卿? あの方がどうかなされたのですか? 先日お会いした時はとてもお元気そうでしたけど……」
オリヴィアはさもわからないといったふうに、二人に問いかけた。
ナディアは顔から笑みを消して、目を細める。
「母の友人が聞いたのよ。先日、あなたたちが馬車に乗っている時の会話を。すれ違い様にしっかり聞いたと言っていたわ」
「まあ、サジュマン伯爵夫人のご友人が? どなたなのかしら……。ご挨拶ができなかったことを謝罪したいわ」
「話を逸らさないでくださる? 今はあなたとルゼール卿の話をしているのよ!」
「ですから、どのようなお話でしょうか? 何か問題になるようなお話をした覚えはないのですが……?」
駆け落ちの話はあくまでも噂である。
確証も何もない話に動揺を見せれば、事実になってしまう。
ないものもあることになってしまう噂ならば、あるものもないことにしてしまえばいいのだ。
ブレイズも間違いなくこの噂を否定してくれるだろう。
だから、オリヴィアは最後まで知らないふりをして通すつもりだった。
全てデュリオの名誉のために。
「でも、わたしは聞いたわ! あなたが、ルゼール卿と駆け落ちの約束をしていたって!」
余裕の笑みを浮かべるオリヴィアに業を煮やしたのか、ナディアは苛立ちの声を上げた。
それは周囲の者たちにも聞こえたらしく、三人の令嬢たちに注目が集まる。
その中で、オリヴィアは目を見開いた。
さらには青ざめた頬を震える両手で押さえ、ショックをあらわにする。
「まさかそのような嘘を……いったい誰が……? ひどい……」
オリヴィアの態度はまさに嘘に傷付けられた令嬢そのものだった。
弱々しく訴えながらも、オリヴィアの声は周囲の者たちにしっかり届いたようだ。
周囲のざわめきはオリヴィアに同情するものになっている。
このような騒ぎを起こしたことと、オリヴィアの予想外の反応に、ナディアは顔を真っ赤にさせていた。
そこにシルー夫人がやって来る。
「オリヴィア、いったいどうしたの?」
「夫人、実はひどい話を聞いてしまって……」
これ以上は耐えられなくて、オリヴィアは本気でシルー夫人に抱きついた。
夫人はオリヴィアを優しく抱きしめる。
「まさかオリヴィアも聞いてしまったの? あの馬鹿げた噂を? あなたがどれだけデュリオ様のお帰りを待ち望んでいたか知らない、意地の悪い人たちの話に耳を傾ける必要などないのよ」
まるで〝意地の悪い人たち〟を見るように、シルー夫人はナディアたちを睨みつけた。
身分的にはナディアのほうが格上ではあるが、年長者として敬うべき相手には言い返すことができない。
周囲もあきらかにオリヴィアに同情している。
そこに、ダンスを終えたジェストが戻り、白々しく驚いたふりをした。
「いったい、何の騒ぎだい?」
「それが……オリヴィアがひどく動揺してしまって……」
シルー夫人はちらりとナディアたちのほうに視線を向けてから答えた。
すると、ジェストはその場を和ませるような紳士らしい笑みを浮かべて、夫人の腕の中にいたオリヴィアの肩を抱いた。
「何があったかわからないが元気を出せよ、オリヴィア。せっかくデュリオも帰ってきたんだ。旅の疲れが取れたら、夜会や観劇に連れて行ってくれるって、約束してくれたんだろう? その時を楽しみにしていれば、つらいことなどすぐ忘れるさ」
あっけらかんと言うジェストは、本当に何もわかっていないように見えた。
オリヴィアはここまで兄が機転の利く人物だと思っていなかったことに、謝罪の笑みを浮かべる。
考えてみれば、ジェストは学院ではデュリオに次いで常に二番の成績だったのだ。
そして、ジェストの言葉の効果は絶大だった。
未だに半信半疑の者もいるようだが、当人からこのような言葉を聞けば、やはりあの噂は悪意あるものだったのかと思う者たちが大半だったようだ。
オリヴィアを連れてジェストとシルー夫人がその場を離れると、ナディアたちもまた恥ずかしさに顔を赤くして母親たちの許へと戻り、見物人と化していた者たちはそれぞれの会話に戻っていった。
「よくやったね、オリヴィア」
「ええ、上手く対応できたわ。相手が経験不足の若い子たちで幸いだったわね」
「……本当はもう倒れそうなくらいなの」
ジェストとシルー夫人から褒められても、オリヴィアは力なく答えることしかできなかった。
もう精神的に限界に近い。
それでもここで倒れるわけにはいかないと、必死に馬車までは自分の足で進んだ。
明日からも夜会の予定は多く入っており、それを考えると気が滅入った。
先ほどのジェストの言葉はその場しのぎのものであり、まだデュリオとは約束などしていないのだ。
(もし、あの噂をデュリオ様が聞いてしまったら……)
その時のデュリオの反応がまったく想像できず、オリヴィアは不安に小さく震えた。




