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厳しかった冬の寒さも和らぎ、ようやく春らしい温かな日差しが降り注ぐ午後。
カルヴェス子爵家自慢の庭の片隅で、子爵家二女のオリヴィアは大好きな庭仕事をしていた。
本当は母から「今日は大切なお客様がいらっしゃるので、部屋にいるように」と言われていたのだが、しっかり抜け出してきている。
「だって、どうせ失敗するに決まっているもの。いつもそう。マヌエラお姉さまとジュストお兄様がいれば、それでいいのよ。わたしはおまけの子だもの」
ぶつぶつ言いながら、花壇の雑草――たいていの人が雑草と呼ぶ草花たちを抜いていく。
本当は全ての草花を花壇で育ててあげたいのだが、庭師頭のアントンにはダメだと言われてしまった。
なので、特別に目立たない一角にオリヴィア用の花壇を造ってもらい、そこへ植え替えるのだ。――と言っても、雑草はとても強く、肥料や少々の水やりを怠っても、たいていは根を張り、息を吹き返す。
そのため幼いオリヴィアでも世話をすることができた。
残念ながら、たいていの雑草は先にアントンたち庭師に抜かれて処分されてしまうのだが。
だからオリヴィアはできるだけ時間を取って、花壇の手入れを手伝うようにしていた。
そして今も、家庭教師の目を盗んで抜け出してきたのだ。
オリヴィアは特に雑草が好きというわけではなく、植物は分け隔てなく好きなのである。
植物たちはオリヴィアの愚痴を静かに聞いてくれ、時には慰めてくれる。
それを家庭教師や家族に話すと笑われてしまった。
植物が話すわけはないだろうと。
確かに植物たちの声がはっきり聞こえるわけではない。
ただ何となく感じるだけなので、オリヴィアがそれ以上強く言い張ることはできなかった。
それでも、人間たちに雑草と呼ばれる植物たちは悲しそうにしながらも、今まで精一杯生きることができたからと、処分されるのもおとなしく受け入れている。
オリヴィアがその声を感じた時には悲しくて一晩中泣いたものだ。
九歳になった今はずいぶん強くなり、その声に今までよく頑張ったねと労りの言葉をかけて送ってやる。
すると、植物たちはとても喜んで歌を歌ってくれるのだ。
今日もきっと屋敷に戻れば家庭教師からお説教をされることは間違いない――さらには母やひょっとして父からも怒られてしまうかもしれないが、大切なお客様に会う気持ちにはどうしてもなれなかった。
どうせ優秀な姉や兄と比べられてしまうから。
それで気分転換と身を隠すことを兼ねて雑草を抜いている。
その時、草の根と一緒にミミズが現れた。
しかし、オリヴィアは驚くことなく掴んで土の中へと返してやり、抜いた雑草を抱えて自分の花壇へと向かった。
そこにはもうもうと繁った緑に覆いつくされており、その中で大小さまざまな花が色とりどりに咲いている。
雑草と呼ばれても、このように綺麗な花を咲かせるのだ。
オリヴィアがこの新しい雑草をどこに置こうかと、花壇いっぱいの緑を見つめながら迷っていると、かさかさと奥の方で音がした。
野ウサギでも迷い込んだのかと背伸びして見ると、案の定、白く長い耳が草の間から飛び出している。
どうやら無心に草を食べていて、人間の――オリヴィアの気配には気付いていないらしい。
野ウサギを驚かさないように、オリヴィアはそっとその場を離れようとした。
植物たちは動物たちに食べられることを喜ぶ。
種を運んでくれるからだ。
しかし、やはりというか気付かれてしまったようで、野ウサギは警戒するように長い耳をぴんと伸ばして顔を上げ、綺麗な紅い目をじっとオリヴィアに向けた。
邪魔をするつもりはないと伝えたくて、そっと後ろへ一歩下がったところで、小枝を踏んでしまい、パキンと音が鳴る。
途端に野ウサギは逃げていってしまった。
「あ……」
申し訳ないことをしてしまったなと、残念な気持ちになりつつ、オリヴィアはどうにか空いていた場所に雑草を置いた。
またこの花壇を広げてほしいとお願いすると、アントンは嫌がるかもしれない。
それでも優しいアントンはどうにか場所を見つけてくれるだろう。
そろそろ帰らなければとオリヴィアが踵を返した時、またがさがさと茂みが揺れる音がした。
一瞬、あの野ウサギが戻って来たのかとも思ったが、今度は先ほどより音が大きい気がすぎる。
ひょっとして野犬か何かが迷い込んだのかもしれない。
そう思った瞬間、体が固まってしまったオリヴィアの前にひょこっと顔を出したのは金色の髪の毛に草やら小枝やらが絡まっている少年。
オリヴィアより少し年上の少年は、新緑のような瞳を細めて照れくさそうに笑った。
「ごめん、驚かせたよね?」
「あ、……うん。誰?」
「僕は、――トム。白いウサギを探していて迷ってしまったんだ」
「ああ、あの野ウサギね。それならあっちへ逃げていったわよ」
「え? あっちは綺麗な花壇があるほうじゃないか! ごめん、もう行かないと。驚かせてごめんね? えっと……?」
「オリヴィアよ」
「そうか。ありがとう、オリヴィア!」
少年は焦ったようにオリヴィアが指さした方向へ走り出した。
服も靴も泥土で汚れている。
おそらく新しく入った庭師見習いなのだろう。
それで迷い込んだ野ウサギが花壇を荒らさないように、アントンから捕まえろと命じられたのかもしれない。
そこでオリヴィアははっと気付いた。
もし、野ウサギが捕まってしまったら、今晩の食事になってしまうかもしれない。
慌ててオリヴィアも後を追ったが、結局少年を見つけることはできず、逆にオリヴィアが家庭教師に見つかってしまい、厳しく叱られることになってしまった。
その夜、オリヴィアが鞭で叩かれ痛むお尻を我慢しながら座った食卓で、ウサギの料理が出されなかったことにどれだけほっとしたか。
普段は何気なく食べている食物だが、やはり動物たちの命をわけてもらっているのだと改めて感じたオリヴィアは、この時からできる限り残さず嫌いな物でも食べるようにした。
そのせいか少々ぽっちゃりしてきたオリヴィアを、また家族や家庭教師が厳しく叱る。
あの日以来、庭仕事も罰として制限されているために、運動も満足にできないのだ。
どうにか痩せる方法はないものかと考え、大好きなお菓子を我慢することにした。
お菓子なら食べ残しても、メイドたちがあとで食べてくれる。
ただオリヴィア自身は大好きな庭仕事とお菓子を我慢するということで、ずいぶん消沈してしまっていた。
それを見かねた家庭教師が、毎日一限だけ庭仕事をすることを許してくれた。
オリヴィアはその時間をとても楽しんだ。
ただし、淑女として日に焼けることは許されないと、かなり厳重な日よけ対策をされているオリヴィアは傍から見ればかなり怪しい。
そんなオリヴィアを見て、庭師見習いのトムは笑いを堪えられなかったように噴き出した。
もちろん雇い主である子爵の娘を笑うなど許されることではなく、すぐに謝ってくれたが。
それからトムとは滅多に会うことはなかったが、会う機会があれば植物の話で盛り上がった。
「やっぱりトムも植物が好きなのね?」
庭師になろうというくらいなのだから当然だろう。
そう思って、問いかければ意外な答えが返ってきた。
「いや、正直に言えば、そんなに興味はなかったんだ。だけど、オリヴィアがあんまりにも楽しそうに話すから、面白いのかなって思って、色々と調べたんだよ」
「そうなのね……。庭師を目指すなら当然、勉強もしっかりしないといけないものね」
「……うん。ねえ、あれはスズランだよね? 白くて丸くて、可愛いな」
「あら、あれはスノーフレークよ。よく似ているけど、全然違うの。不思議よね。見た目は似ているのに、中身は全然違うなんて」
「へえ? やっぱり面白いね。僕はあの花が好きだな。コロコロしていてとても可愛い。まるでオリヴィアみたいだ」
「なっ……ば、馬鹿なこと言わないで。そ、それに、トムはいい加減にわたしのことを〝お嬢様〟って呼ぶべきよ。わたしは別にかまわないけれど、誰かに聞かれたらトムが怒られるわ。わたしはこれでも、この家の娘なんだから」
可愛いと言われて恥ずかしくなったオリヴィアは、話を逸らしたくてどうでもいいことを口にしてしまった。
すると、トムは驚いたように目を見開く。
「……そうか、わかったよ」
「ご、ごめんなさい。偉そうだったわね」
「いや、当然だよ」
困ったように笑うトムを見て、オリヴィアは後悔した。
今まで普通に接してくれた数少ない人なのに、自分から境界線を引いてしまったような気がしたのだ。
急いで謝罪したが、ちゃんと伝わったのかは返事からはわからなかった。
「それじゃ、僕はもう行かないと」
「あ、ねえ、トム! わたしたちは……友達だよね?」
「……うん。友達だよ」
トムは一瞬迷ったようだったが、すぐにいつもの優しい笑顔で頷いた。
そのままトムは走り出してしまい、どうしてもこのまま別れたくなかったオリヴィアは急いで追いかけた。
しかし、焦っていたために足元を見ていなかったオリヴィアのスカートに何かが引っかかる。
そのためバランスを崩してしまったオリヴィアは「あっ!」と声を上げた。
傾くオリヴィアの目には、まるで時間の流れが変わってしまったようにゆっくりと振り向くトムが見えた。
そして慌ててこちらに戻ってこようとする姿。
その直後、右胸から鋭く熱い衝撃が全身に広がって、オリヴィアは何が何だかわからないうちに目の前が真っ暗になってしまっていた。
それが意識を失ったためだと知ったのは、三日後。
どうやら剪定した枝をまとめていた場所でオリヴィアは転んでしまい、尖った枝が胸に突き刺さったのだ。
出血も多く、高熱も出たために、一時は危険な状態だったらしい。
(トムはどうしてるかな……)
意識を取り戻してからは、両親に馬鹿な娘だと怒られ、姉兄にはのろまだとなじられた。
だがオリヴィアにとっては、家族に罵られるよりも、トムにも呆れられてしまったかもしれないと思うほうがつらかった。
しかし、庭師見習いのことを誰かに訊くことはできない。
それからずっとズキンズキンと胸が痛んで苦しくて、ベッドから出ることもできなかった。
ようやく傷が疼くような痛みに変わってくると、ベッドから出ることを許されたオリヴィアは、さっそく窓へと向かおうとした。
しかし、がくりと膝から崩れ折れる。
「まあ、お嬢様! 急に無理をなさってはなりません」
「だって……まさかこんなに動かないなんて。胸も痛いし、足に力も入らない……」
「さあさあ、ゆっくりと始めましょう」
ひと月近くもベッドの中で過ごしたために足腰が弱り、オリヴィアは上手く歩くことができなかったのだ。
足に力を入れようとすれば胸が痛み、ただ歩くだけなのにどうしてこんなに体中に力を入れなければいけないのかと泣きたくなる。
それでも何かあるたびに世話係のネリに抱えてもらうわけにもいかず、オリヴィアは息を切らしながら歩く練習をした。
ネリは母よりも年上なのだ。
練習の合間にはメイドに窓辺へと連れて行ってもらい、本を読んだり、苦手な刺繍をしたりして過ごしながら、何度も外を眺めた。
だが、トムの姿は見当たらない。
(使用人たちの噂で、わたしが元気になったってことは聞いたわよね……?)
唯一の友達であるはずのトムに会えないことは、とても寂しかった。
元々ひと月に一度ほどしか会えなかったのに。
そうして退屈な日々を過ごしていたある日、珍しくオリヴィアの母である子爵夫人が部屋にやって来た。
いったいどうしたのかと思いながら、立ち上がって挨拶をしようとしたオリヴィアに、夫人は優しい声でそのままでいいと告げる。
気遣いを見せる夫人にオリヴィアが驚いていると、夫人はネリにオリヴィアの夜着を用意するようにと命令した。
「お母様……?」
「もうすぐあなたの婚約者がお父様のアンドール侯爵といらっしゃるわ。だからあなたはベッドに横になっておとなしくしていなさいね?」
「婚約者? でも、それならベッドにいるのは失礼じゃ――」
「口答えは許しません。いいわね、あなたはまだ怪我が治っていないの。それでベッドから出られないと、もし怪我の具合を訊ねられたら答えるのよ」
初めて聞く婚約者の存在も、なぜ怪我の回復を隠さなければならないのかも、オリヴィアにはわけがわからなかった。
ぽかんと口を開けたオリヴィアを、夫人は苛立たしげに睨みつける。
「口を閉じなさい、オリヴィア。みっともないわ。それにどうして早く言わなかったの? 侯爵夫人がいらっしゃるたびに、あなたがご子息のデュリオ様と遊んでいたなんて……。失礼なことはしなかったでしょうね?」
「……侯爵夫人?」
「まあ、いいわ。あなたが馬鹿な怪我をしたおかげで、あのアンドール侯爵家と縁戚関係になれるんだもの。ただ、もう起き上がれるほどに元気になったと思われて、胸の怪我も大したことがないと思われては大変ですからね。いいわね? あなたはまだベッドから出ることができないのよ」
そう言うと、夫人はすぐに部屋から出ていってしまった。
結局何も理解できず、オリヴィアは夜着を持って戻ってきたネリに問いかける。
「ネリ、婚約者ってどういうこと? なぜわたしの怪我とアンドール侯爵様のご子息が関係あるの?」
「まあ、お嬢様はご存じなかったのですか? ご婚約のことを?」
「だって、誰も教えてくれなかったもの」
「……さようでございますか」
オリヴィアが怪我をして寝込んでいる間、介抱していたのはネリとメイドたちだった。
意識を取り戻してからもオリヴィアに関心を持った家族はいない。
カルヴェス子爵夫人として社交に忙しい母と、何をしているのかよくわからない父。
もしオリヴィアがマヌエラのように美人であったり、ジェストのように頭がよければ違ったかもしれないが。
それでもまさか、婚約といった大切なことまでも伝えられないとは、思ってもいなかった。
さすがにネリも使用人である自分が伝えるわけにもいかないと、遠慮していたのだろう。
「……お嬢様がお怪我をなされた時、ご一緒に遊んでいらっしゃったアンドール侯爵様のご子息のデュリオ様が大声で助けを呼ばれて……。あとでどういうことなのかと侯爵夫人がお訊ねになった時、デュリオ様がご自分のせいだとおっしゃったのです。それで旦那様が責任を取ってほしいと……。お嬢様のお体には傷痕が残ってしまわれましたから……」
「でも、それっておかしいわ。わたしは侯爵様のご子息となんて遊んでなんていないし、怪我をしたからって、傷が残るからって結婚するなんて……やっぱりおかしいわ」
ネリから説明されても意味がわからず、オリヴィアは反論した。
まだ十歳のオリヴィアに、大人の世界のことはよくわからなかったが、この婚約が間違っていることだけはわかった。
しかも、まだベッドから出ることができないと嘘をつくなどと。
だが結局は母に逆らうことはできず、ネリを困らせることもしたくなかったオリヴィアは、夜着に着替えて素直にベッドに入った。
しばらくして、部屋のドアがノックされ、両親と一緒に大人の男性が一人、その後ろに男の子がついて入ってきた。
その子を目にしてオリヴィアは息を呑んだ。
「……トム?」
「まあ、オリヴィア。何を言っているの? この方がアンドール侯爵様、そしてご子息であなたの婚約者のデュリオ様よ」
まるで愛しい我が子にするように、夫人がオリヴィアの頬にキスをして微笑みながら二人を紹介する。
しかし、目の前の男の子は間違いなく、庭師見習いのトムだ。
まるでわけがわからない絵本の世界に迷い込んだようで、オリヴィアは大人たちの会話を聞き流しながら、トムをじっと見つめていた。