02. 黒衣の幼女
「わたしの名前はユリファ。よろしくね」
「いや、今はお前の名前とかいいから! なんで埼玉の大宮と異世界の城下町が繋がってるんだよ! この状況を説明してくれよ!」
動揺を抑えきれず、ユリファと名乗った幼女に対する警戒心も吹き飛んだ竜弥は噛みつくように言う。ユリファは機嫌を損ねたように頬を膨らませた。
「ちょっと! レディーの名前をどうでもいいなんて、デリカシーなさすぎよ! ぷんぷん!」
「うるせえ、ぷんぷんじゃねえ! こっちは混乱してるんだよ、ちんちくりん!」
「ち、ちんちくりん!?」
ユリファはショックを受けたようで、愛らしい両目をまん丸にして呆然とする。数秒の間、そうやって固まった後、
「う、うわああああん! バカぁああ!」
目をぎゅっと瞑ったユリファにガシッ! と足を蹴られる。だが、小さな身体から繰り出される蹴りの威力などたかが知れている。竜弥はその華奢な足をしっかりと掴むと、蹴りを繰り出した不安定な体勢のままのユリファを左へ右へとゆらゆら揺らす。
「ちょ、ちょっと、やめ!」
「ほら、状況を説明しないと、いつまでもゆらゆらの刑だぞ」
「ほんとに、やめ!」
ユリファはぷにぷにとした頬を屈辱で真紅に染めると、身体を二つに折り曲げて竜弥の腹に思い切り頭突きをかました。
「ぐあ!?」
いきなりのことで、竜弥は何が起こったのかもわからず、ユリファの細い足を放してしまう。ようやく自由になったユリファから渾身の前蹴りが放たれた。
「ごふっ!?」
ちょうど頭突きが入った箇所に追撃の前蹴りが刺さり、竜弥はその場にうずくまる。ユリファは膝をついて俯く彼の頭頂部を冷ややかに眺めながら、不遜に鼻を鳴らした。
「本当はこんなところで遊んでる暇なんてないの。のんびりしてたら、やられちゃうんだから」
「やられるって……?」
痛みに耐えつつ、苦悶の表情を浮かべた竜弥が問うた時、テラスのすぐ下からこの世の終焉を迎えたような絶叫が届いた。続いて、何かが地面へと倒れ込む音。
ユリファはテラスから身を乗り出すようにして、その様子を見た。竜弥は慌てて彼女の横に並ぶと、声のした方に目をやる。
「……この王城だけがこんな風に襲撃されたと思ってたの? 王都をスルーして?」
無感情になったユリファの声と共に、竜弥の目に飛び込んできたのは、倒れ込んだ人影と――そこから溢れ出る血溜まり。
その周囲には、洒落たスーツを着込んだ数人の男たちが見下ろすように立っていて、人影の息の根が止まったのと同時に、闇夜に溶け込むように消えた。
「あれは、城下町から王城に助けを求めて来た人ね。町の方も同じ惨状よ」
「な、なんなんだよ……?」
「この世界に転移してきたのは、あなたたちからすれば異世界であるアールライン、その中に存在するリーセア王国よ。普段は平和な国なんだけどね、転移した瞬間は事情が違った。ほら、声が聞こえる……でしょ?」
ユリファに言われて耳を澄ます。すると、何かが聞こえてきた。
竜弥の瞳が恐怖に揺れる。今まで、自分の置かれた状況を把握するのに必死で気付かなかったのだ。彼は酷い眩暈を感じて顔をしかめる。
聞こえる。一度気付いてしまえば、もう知らないふりはできなかった。
城の敷地外、町の方からそれは聞こえてきた。騒音。いや、それらは全て、町の住人たちの悲鳴だった。
悔恨、呪詛、怨嗟、絶叫、断末魔――。
死に瀕した住人達が助けを請う声。それが一つの塊となって、竜弥の耳に届いていた。
「戦争でも、あったのか?」
竜弥は自分の声が震えていることに気付いていたが、その震えを抑えることはできなかった。そのことを察したように彼を横目で見たユリファはため息を吐いてから、首を横に振る。
「似てるけど、違う。これは一方的な虐殺。突然、敵から強襲されたリーセアはろくな防衛をすることもなく、王都に攻め込まれたの」
「そんな簡単に攻め込まれるなんて、警戒をしていなかったとか?」
恐怖を紛らわせるために口から出た竜弥の問いに、ユリファはううん、と否定をする。
「リーセアは平和ボケした国じゃなかったよ。国境はきちんと監視されていて、他国やモンスターの襲撃にもちゃんと備えてた」
「じゃあ、なんでこんなことに」
「アールラインでもっとも畏怖される存在、三大魔祖の一人に名を連ねる、高位存在が手を貸したから」
「三大魔祖?」
ユリファは質問攻めにされることが嫌になったのか、黙ってしまい、その質問に答えてくれなかった。
「……ともかく、王城は落ちたの。でも、リーセアの王城には奥の手となる魔術の術式が埋め込まれていた」
ユリファは町の惨状から目を逸らすと、竜弥と向かい合うようにして彼の瞳を見つめた。竜弥の瞳には怯えが広がっていた。
「――王国を守るための最終術式。それこそが、王国ごと別の異空間に転移させてしまう大規模転移術式だったの。でも、術式は半分失敗した。本当だったら、転移後の空間に極力影響を与えないように転移するはずだったんだけど、結果はこんな不完全な形で、この世界と混ざり合ってしまった」
それに、とユリファは竜弥のことを真っ直ぐ見据える。竜弥に向けられた視線には、話し相手として以上の意味が籠っているような気がした。
「……あなたのような存在も生み出してしまったし」
「俺みたいな、存在……?」
ユリファのその含みのある言葉の意味を、竜弥が訊ねようとした時だった。
「――けっ、まだここにもゴミが残ってやがったぜ」
背後から不快な低音の声がして、竜弥は素早く振り返った。
そこにいたのはさっき、テラスの下で人を殺していた男たちと同じ服装の人間。黒のスーツに赤のネクタイ、洒落た模様が入ったシャツを着たチャラい風貌の男だった。歳は二十代くらいだろうか。
「……下がって」
ぐいっとユリファに押し退けられて、竜弥は言われるがままに後退する。本当なら、危険な人物から幼女を守るのが正しい男子としての在り方のはずだ。だが、情けない。両足が竦んで、一歩も動けないのだ。
だから竜弥より一回りも二回りも小さい、ユリファの後ろ姿に守られるしかなかった。本当に、情けない話だ。
「あぁ? ……これはこれは、ユリファ様じゃないですか。どうしてこんなとこに? もうお役目は終わったのでは? それとも、虐殺に加わりたいんです?」
男はユリファのことを認識すると、そう言って下卑た笑いを見せた。丁寧語で喋っているように見えて、その語気からは侮蔑の色が強く染み出ている。
ユリファは苦虫を噛み潰したように、綺麗な顔を酷く歪めると、
「ええ。まだ仕事が残っていてね」
と、慇懃無礼な男のことを真っ向から睨みつけた。男はネクタイを直しながら、きょとんと首を傾げる。
「どんな仕事です?」
「それはね――」
そう言って、ユリファは鋭い目つきに敵意を乗せて、相手を睨みつけた。
「あなたたち魔術師を一人残らず、片付ける仕事よ!」
そう叫んだユリファがバッと両手を大きく広げると、彼女の全身からおびただしい量の黒光が放たれた。周囲を満たす夜闇よりも深い闇を伴うその黒光からは、相手を威嚇するような重圧を感じる。
さっきまでの彼女からは想像もできない、脅威を覚えるような威圧感。
目の前で闇を従えるユリファは魔法使いか、それとも異能力者か。
漫画やライトノベルなんかで見たことがある異能力バトル物の世界観が現実となって、実際に感じたのは、純粋な恐怖である。
全身に黒光を纏ったユリファに対し、本能が警鐘を告げている。彼女の右目の虹彩が禍々しい赤色に染まり、夜の闇を食らう漆黒の衣は殺意で満ちていた。
だが、そんな彼女に相対する魔術師と呼ばれた男は、微塵も動揺する様子がない。顔色一つ変えず、ため息を吐く。
「……まあ、あなたが俺たちを裏切るというのなら、それはいいでしょう。ですが、以前の力を失ったあなたに、何ができると言うんです?」
「……」
顔を皮肉げに歪めて、そう言い放つスーツの魔術師に、ユリファは言葉を返さなかった。それは返事をするまでもないからなのか、それとも、彼の指摘が図星だからなのか。
ユリファは数秒の間、黙った後、小さな唇を妖艶に動かして、
「――戯言を言わないでよ、底辺の魔術師」
瞬間、彼女の双眸が残虐の色に染まった。