01. 異世界が転移してきた日
ストーリー本格開始です。
青春という言葉の意味を、御神竜弥は考えていた。
高校二年、帰宅部、クラスで気の合う友人は数人で、勉強は全科目平均点辺りをさまよう男子学生。趣味なし、特技なし、彼女もなしで、平凡と呼ぶにふさわしい学生生活を送っている竜弥には、青春とは何を指すのかがわからない。
夕暮れの帰り道。コンビニで買った熱々のあんまんを食べながら家路を目指すこの時間は、それなりに心地よくて、もしかしたらこれも青春なのかもしれないと、竜弥は思った。
しかし、もっとわかりやすい青春イベントに遭遇してもいいじゃないか、とも思うのだ。
たとえば、ピンチになっている女の子を助けるとか、手に汗握る冒険をするとか、そういう少年漫画みたいな奴を。
そんな身の丈に合わないことを考えてしまったのが、運のツキだったのかもしれない。
竜弥は真剣に考えていたわけではなかったのだ。
それは半分冗談のようなもので、実現しないからこそ、その妄想は楽しいのであって。
実現してしまったら、それはもう、ただの現実なのだ。楽しくて、それでいて痛みを伴う現実。
竜弥があんまんの最後の一欠片を、惜しみながら口に放り込んだその瞬間、だった。
地面の下から突き上げるような、強烈な衝撃が竜弥を襲った。
いや、竜弥だけではない。周囲の建物、電柱、アスファルト……それら全てが激しい衝撃に殴られ、爆音と共に地面が裂けた。
「な、なん……なんだよ!?」
竜弥に悠長に驚く暇は与えられなかった。今度は竜弥の身体だけを覆うように、虹色の光が空から降り注いだ。高周波の音が鳴り響いて、彼の鼓膜を激しく揺らす。身体は虹色に飲み込まれ、視界の焦点が合わなくなり、ぼやけて二重になった。
目に映る全てのものが虹色に染まり、万華鏡のように世界が回転する。奇妙な感覚。まるで虹色の光が身体の奥深くに染み込んでいくかのように、消えていった。
それと同時に、強烈な吐き気。
「う、ぐ……うぇ」
込み上げる吐き気が抑えられずに、近くの電柱に片手をつく形で胃の中の物を吐き出す。食べたばかりのあんまんが固形状のまま、足元へとべしゃりと落ちる。
レールのないジェットコースターで全方位360度、乱暴に振り回されている気分だった。天と地が不明になり、がくりと脱力した竜弥はそのままアスファルトの地面に倒れ込む。
世界が回る。世界が遠のく。気持ちが悪い。
そうして、竜弥の意識は回転する世界に落ちていく。
何かが焼け焦げる臭いがして、竜弥は意識を取り戻した。
「……うぉ、まだ気持ち悪い」
酷い車酔いのようなものが残る中、床に倒れていた竜弥はゆっくりと瞼を上げた。真っ暗な室内。周囲に何があるのか、暗くて把握できない。
「……?」
違和感があって、目を凝らす。
――いや、違う。これは辺りが暗いのではなく。
竜弥が目にしているのは、一面真っ黒に焦げた壁面だった。部屋全体が炭化しているため、暗い部屋だと勘違いしたのだ。
「……なんだ、これ」
奇妙な状況に竜弥は顔をしかめる。未だくすぶる吐き気を気にしている場合ではないらしい。彼はゆっくり上半身を起こすと、状況を把握するために辺りを見回した。
周囲は黒ずんだ煉瓦造りの壁に囲まれ、床には燃え尽きても高価だとわかる厚い絨毯が敷いてある。間取りは広く、軽く二十畳ほどはあるだろう。壁にかけられた絵画は原型を留めていないものの、燃え残った豪華絢爛な額縁の残骸を見れば、その価値は見当がつく。高価な絵画には高価な額縁があてがわれるのが普通だからだ。
応接間だったのか、炭化した机を挟んでソファらしきものが向かい合わせに並べられていた。
と、そんなことはどうでもいいのだ。
問題はそのほとんどが燃え尽きていることだった。
「火事、があったのか……?」
さっきまで、高校から家までの帰り道、つまりは屋外にいたはずだった。なのに、竜弥が目を覚ましたのはこんなバカでかい屋内。意味が分からない。
内装が日本的ではなく西洋風で、まるでファンタジーの世界みたいなことだって、意味がわからない。
それら全て意味がわからないが、幸いこの状況はあれこれ考える余裕を竜弥に与えてくれないので悩まなくて済む。
「とりあえずは、この妙な場所の脱出だな……。只事じゃないぞ、こりゃ」
応接間の窓から覗くのは、夜空と厚い雲。寝ている間に、いつの間にか夜になっていたらしい。
まずは焦げついた嫌な臭気がこもる室内を出る。周囲を見回し、炭の塊となって崩れたドアと入り口を発見し、竜弥は起き上がった。身体中に汗がまとわりついて、とても不快だが、身体は痛みが走ることもなく、無事なようでほっとした。
「……全く、手に汗握る冒険をしたいとは言ったけど、こういう意味じゃなかったんだよな」
竜弥は手汗に塗れた両手を握ったり開いたりしながら、室内を後にした。
どうやら、竜弥のいるのは巨大な館のような場所だった。だが、館と呼ぶには規模が大きすぎる。竜弥がこれまた焼けついた幅の広い廊下へと出ると、十数もの部屋が並んでいるのがわかった。廊下の端に配置された階段が上と下、両方に伸びている。
館の外に出て、一体今置かれている状況がなんなのかを確認したいところだったが、下の階へ続く階段は壁面が崩壊しており、瓦礫の山で塞がってしまっていた。
「ここは、通れそうもないな」
顎に手を当て、独り言と共に今後の方針を思案。
焦げくさい臭いはまだ残っているものの、火災は完全に鎮静化している。もう少し屋内を歩き回ったとしても、危険はないだろう。
そういう結論に行き着き、竜弥は上階へ続く階段へと足を向ける。どうせ、上の階にしか行けないのなら、最上階から辺りを見回してもいい。
ただ、一つ気になることがある。この規模の火災だ。被害が調度品だけとは限らない。
その可能性を、竜弥が恐れた時だ。
それは、踊り場に転がっていた。
黒く炭のようになった塊。ちょうど、竜弥と同じくらいの大きさの塊だ。
「うぁ……」
思わず、喉の奥がきゅっと締まって、変な呻き声が出た。先ほど、あんまんを吐き出していなくても、ここで吐き出してしまっただろう。込み上げてきた少量の胃酸を、竜弥は床に吐き捨てた。
竜弥の目の前にあるもの。
――それは恐らく、さっきまで人だったものだ。
「うぁ……うわああああああああッ!!!」
竜弥は右も左もわからず、叫びながら逃げるように階段を駆け上がった。
なんの冗談だ、と思った。確かに可能性は危惧した。だが、それが本当に目の前に現れることを正しく想像できていなかった。
竜弥はさっきまで夕暮れの帰り道を、あんまんを食べながら呑気に歩いていたのだ。
それがどうして、あんな……焼死体と遭遇するなどと想像できるだろう。死者にはせめて敬意を払いたかったが、竜弥は怯えて尻尾を巻いて逃げることしかできなかった。
階段を駆け上がりながら、分かったことが一つ。これは全くお気楽な状況ではない。警戒しなければ、自分の命さえ危うい状況なのだ。
上階へと辿り着くと、階段はそこで終わっていた。どうやら、今いる階が最上階のようだ。衝撃から立ち直り切れない竜弥がよろよろと廊下を進んでいくと、左手にぽっかりと大きな穴が空いていた。そこから外に出られるようだった。
恐らくその大穴は、館のテラスのような場所に続くガラス製の扉か何かだったのだろう。それが火災によって吹き飛び、壁に穴が空いたようになっているのだ。
竜弥は館の最上階から周囲を見回そうと考えていたことを思い出す。テラスからなら見晴らしもいいだろうし、外の様子が一望できるだろう。少しは状況が整理できるかもしれない。
吐き気を抑えながら、覚束ない足取りで竜弥は進む。
そして、大穴から彼が顔を出すと。
緩やかな風が頬を撫でた。
竜弥は目を見張る。
屋内と同じように煉瓦造りで出来た巨大なテラス。そこには、金髪ツインテールの一人の少女――いや、幼女の後ろ姿があった。いつの間にか夜になっていた暗い空の下、フリルのついたひらひらの黒い服を着て、テラスから外を見ている。
こんな危険な場所で、怪我をした様子も、竜弥のように恐慌した様子もなく、ただテラスから眼下を見下ろしていた。
「――無様な姿」
まだ成長途中の、幼い声色が竜弥へと投げられた。竜弥は警戒を強めたまま、彼女の前に姿を現す。
「全てはこれから始まるの。きっと、これからがもっと、大変」
幼女はふわり、とスカートを翻らせながら振り返る。月明かりが彼女を神々しく、輝かせるように照らし出し、彼女の愛らしい瞳が竜弥を見た。
大きな瞳だ。まるで宝石のように煌めいて、ずっと見ていたら虜になりそうな瞳。二重で、頬はぷにぷにとしていて、ほんのりと赤みがかっている。
身長は120センチ程度で、黒いフリルの服はとても似合っていた。服装は西洋人形のようだが、顔立ちは整っているというより、可愛さに満ちている。
だが、彼女の容姿に見とれることはなかった。こんな場所に幼女が一人でいるなんて、怪しい匂いしかしない。
「そんなに警戒しないで。とりあえず、ここから世界を眺めるといいよ」
幼女は小さな右手で眼下を指し示す。そうだ。竜弥の目的は周囲の情報把握。さっさと様子を見て、危険な香りを漂わせる幼女から離れるべきだった。
「……」
竜弥は無言のまま、テラスの端まで歩いていく。
途中、彼はふと自分が今までいた場所の外観が気になって振り返った。
そして、
「――なっ!?」
驚愕。目を大きく開いて、固まってしまう。
それもそのはずだ。竜弥が巨大な館だと思っていた建物は、どこからどうみても王城だった。
王城。それはファンタジー世界で王様がいる場所である。ゲームなどでよく見る城の外観が今、竜弥の目の前にある。
竜弥は思い返す。
下校中、いきなり虹色の光に包まれて、別の場所に移動。その場所は王城で、しかも焼き払われていて……。状況を考えると、現実の世界ではありえない。
まるで、まるで――ファンタジーの世界だ。
「まさか……俺は異世界にでも来ちまったっていうのか……?」
驚いて口を開く竜弥の反応を見て、幼女はくすりと可愛らしく笑うと、
「テラスから、外を眺めてみたら?」
まさか、まさかまさかまさか、手に汗握る冒険がしたいとか言ってしまったから、異世界に飛ばされてしまったのか!? と、慌てふためいて竜弥はテラスの端に駆け寄る。
そうして、五階ほどの高さのテラスから身を乗り出した竜弥の眼前に広がったのは、王城と同じく煉瓦造りの建物が立ち並んでいる光景。明らかに日本ではない中世風の街並み。
「ほ、本物の、城下町だ……。俺はマジで、異世界に来ちまったのか?」
日本にいた頃なら、ほんの少しはこの状況にワクワクしたかもしれない。
だが、さっき見てしまった死者の姿が決して竜弥を浮かれさせはしなかった。
妄想は妄想だからいいのであって、実現してしまったら、それはもうただの現実だ。楽しくて、それでいて痛みを伴う現実。
「どうするんだ……これからどうやってこんな物騒な異世界を生きてけっていうんだよ……」
竜弥が頭を抱えて途方に暮れると、幼女が彼の服の袖を引っ張った。
「ねえ、悩んでいるとこ悪いんだけど、街の様子をもっとちゃんと見て?」
「……どういう意味だ?」
竜弥は意味が分からないと首を傾げる。眼下にあるのは城下町。
ここは、異世界。確定だ。
「違う。もっと、遠く」
「遠く?」
幼女に言われるまま、竜弥は城下町よりもさらに遠くに目を凝らす。しばらくの間、煉瓦造りの建物が続いて、そして。
「――はあっ!?」
竜弥は再び、驚愕の叫び声を漏らした。幼女はうるさかったのか、両手で自分の耳を塞いで、眉間に皺を寄せる。
城下町の先、いきなり街並みが変わる地点があった。
煉瓦造りの街並みから――見慣れた高層ビルの乱立する街並みへと。
しかも、竜弥はその都市の名前を知っている。
「…………大宮だ」
埼玉県の都市、大宮。
その大宮駅西口周辺の街並みが、大手家電量販店が、老舗百貨店の大きなビルが、大量のバスが押し寄せる駅前のバスロータリーが、異世界の城下町と不自然に繋ぎ合わされていた。頭が痛くなって、竜弥はテラスの柵にもたれかかる。
「なんだあれ……ファンタジー感が一気に消えてるんだが」
「つまり、種明かしをするとね」
得意げな表情で解説をしようとする幼女は竜弥の隣に立って、不自然に混ざり合った街の光景を眺める。
偉ぶるように、ない胸を突き出して、彼女は言った。
「あなたが異世界に転移したわけじゃなくて、異世界がこの国に転移してきたのよ」
「…………」
頭の中で数秒整理。
そして、
「――――はあああああああああああああっ!?」
竜弥の今日一番の絶叫が、どこまでも響き渡っていった。