10. 稀代のヒー! ロー! 魔術師
「家が、ない……」
思わず、真顔で二度繰り返してしまうほどの衝撃。
それほどまでに、家がなくなったという事実は竜弥にショックを与えた。自宅、その中でも自室とは荒んだ社会から離れることができる、ただ一つの心のオアシスである。その自宅がまさかの異世界転移。竜弥には帰る場所がなく、こんな混乱の只中に取り残されてしまったというのだ。
「なんだそれ……俺は無事なのに、家だけ異世界転移とかどんな冗談だよ……笑えねえ。ってか、家族は? 家には母親とかいるし、妹ももう帰ってる時間だったはずだ」
「それなら、母親や妹さんも一緒に転移しているでしょうね。残念だけど」
「……マジか」
異世界転移で家族はバラバラ。おまけに竜弥の身体の中には、得体の知れない存在がいる。
「辛い……」
竜弥は両手で顔を覆って、大きくため息を吐いた。
「わたしの知り合いに、魔術に詳しい専門家がいる。あの子なら、小規模な転移魔術くらい扱えるはず。それを使えば、街一つくらいの範囲なら元に戻すことができるわ。日本の国土を復元し、その間にリーセアの防戦体勢を整えることで、お互いの国がより良い形で元に戻れる。竜弥、わたしは今、あなたがいないと三大魔祖の力を使うことができない。あなたの力が必要なのよ」
「…………」
これはいったい、どういう状況だ。と竜弥は視界を手で閉ざしたまま、途方に暮れる。黒のロリータ調のフリル服を着た幼女に、自分の存在が必要だと求められる。アニメの世界じゃあり得ても、現実じゃそうそうないイベントだ。そして、その幼女は強大な力を持った三大魔祖で、自分の中には全能神などという大層な上位存在が住み着いている。
役満だ。ラノベ主人公の条件を全て満たしている。
竜弥だって、そういう冒険に憧れていなかったわけじゃない。だが、実際のファンタジーは痛みと恐怖で満たされていて、とてもじゃないが身を置きたい環境ではなかったのだ。
けれど、今の状況で竜弥に決定権がないというのも事実だった。
さっきはどこかに保護してもらうと言ったが、日本政府は異世界に転移してしまい、行政は指揮系統を失っている。そんな大パニック状態になっているこの国が助けてくれる保証などなかった。
災害時のように体育館に避難していればいいわけじゃないのだ。敵はやってくる。襲ってくる。竜弥が下手に街中にいれば、周囲の大勢の人間を巻き込む可能性だってある。
それに対し、目の前の幼女と一緒にいれば、彼女にとって竜弥に価値がある限り、命を守ってくれるだろう。そう考えると不本意ながら、どうすべきなのかは竜弥にも理解できた。
「…………しょうがないな」
竜弥は観念したように両手をゆっくりと下ろした。視界が開け、眼前にはユリファの姿がある。
諦め、諦観、投降。どんな言葉でも代わりはない。
その瞬間こそ、竜弥が普通の男子高校生としての生活を捨てた、決定的な瞬間に違いはないのだから。
「やったっ」
ユリファはその返答を聞くと、ぷにぷにとした頬を歳相応に和らげて、無邪気な笑みを浮かべ、喜んでみせた。
「改めて、よろしくね。竜弥」
「ああ、せいぜい、お手柔らかに頼むよ」
苦笑いを浮かべて、竜弥はため息を吐いた。普通で平凡な生活。そんなものに、今更になって未練が湧くなんて彼は想像もしていなかった。そして今、その未練を断ち切って、竜弥はファンタジーの世界へと足を踏み入れる。
実際問題として、こんな状況下で平凡な生活を送ろうとしても、結局普通の高校生活は送れないだろう。高校の校舎は災害時の緊急避難先として一般開放されるだろうし、どのみち授業は中止だ。それなら少しの間、この地域を離れても問題はない。
木箱から腰を上げたユリファは、竜弥に近づいて手を差し出してきた。彼はその手を取る。小さくて柔らかい手。子供特有の温かい手。そして、この手は竜弥を守ってくれるものであり、守るべきパートナーのものでもある。
竜弥とユリファは互いを見つめ合い、大きく一度頷いた。
日本の国土を元に戻すための、正式コンビ結成である。
「……んで、これからどうする? 転移術式が使えるお前の知り合いってのは、どこにいるんだ?」
竜弥がそう訊ねると、ユリファは少し渋い顔をした。うーん、と低く唸り、顎に手を当てて考え込む。てっきりすぐに明快な解答が返ってくると思っていたので、竜弥は首を傾げる。
「あの子がいるのはリーセア王国内、最大の水源地『リディガル大水源』にある街なんだけど、ぶっちゃけ今、日本のどこにあるのかはわからないのよね……というか、手立てがあるなんて言っちゃったけど、『リディガル大水源』自体がこっちの世界にちゃんと転移してきているか――」
「おいおい、そんな適当でこれから大丈夫なのか……?」
と、竜弥がタッグを組んだばかりのパートナーに対して呆れ顔をした時。
「――話は聞かせてもらったよ、グレガリアス様!」
不意に、凛とした若い男の声がどこかから聞こえた。木造の廃家屋内にうるさいほどに響く。
「誰だ!?」
いきなり誰かが現れた時にはろくなことにならないということを、ここ最近の仕打ちで竜弥は覚えていたため、彼は警戒心を剥き出しにして周りを眇めるように見回した。
「そんなに敵意を見せなくても大丈夫さ。僕はきみたちの味方だよ!」
そうして、ドガッ! と大きな音と共に、天井に穴が開き、すらりと長身の人影が勢いよく落ちてきた。
「うわぁ! なんてとこから出てくんだよ!」
大量の埃が舞い上がり、口と鼻を押さえた竜弥が怒鳴ると、人影はバッ! と仰々しく両手を大きく広げてみせた。
視界を塞ぐ薄白い埃が床へと落ちていき、その姿が次第に露わになる。
二十代前半の若い男。白いローブを羽織り、敵が持っていた金杖と同じくらいの丈の黒い杖を持っていた。背中の方まで伸びている女性のような長髪、腕も脚も長く細く、その上で筋肉はしっかりとついている。きらりっと光るのは、彼の大きな二つの瞳。眉は整っており、口元は凛々しく、イケメンモデルのような整った顔立ちだ。
そして何より目を引いたのは、その眩いばかりの笑顔。にっと笑って、白い歯を見せつけてくる。爽やか。圧倒的爽やかさだった。平凡な学生をやっていた竜弥は、スクールカースト上位の学生たちを彷彿させるその外見に思わず怯んでしまうほど。
街を歩けば、女子の視線を一手に引き受けそうなその風貌。竜弥には勝てる要素がない。
だがそのイケメン然とした姿と、埃塗れの天井から泥臭く登場した姿がどうしても重ならなかった。しかし、その理由は彼が口を開いたことですぐに理解する。
彼は言った。
「面食らっているようだね。だが、心配する必要はない。話は屋根裏で聞かせてもらった! 僕はこの地球上のみんなの味方! 正義を愛し、正義を愛する自分さえ愛する、そう、それはまさに――稀代のヒー! ロー! 魔術師! エイド・ダッグマンだっ!」
――こいつバカだ。
会って数秒、竜弥は目の前の男の全てを理解した。見ると、隣ではユリファが額に手を当てて、深く深くため息を吐いている。
「……ここで何をしているの、エイド・ダッグマン」
呆れた半目になって、ユリファはエイドのことをじろっと見た。だが、エイドはそんな視線にはお構いなしに、自分の世界を展開する。彼の純粋な瞳は透き通り、尊敬の念をユリファに向けていた。
「敵の残党狩りを終えて帰る途中、たまたまグレガリアス様の姿を見つけて、この小屋の天井裏に侵入したんですよ、グレガリアス様」
「暇なの、あんた?」
ユリファは今まで見たことのない、鬱陶しそうな表情をしている。幼女に軽く罵倒され、しかし、エイド・ダッグマンは一ミリもめげずに、きらりんっと笑顔を輝かせた。
「ええ、暇です! グレガリアス様よりも大事な用などありませんよっ」
「暇じゃないでしょ! あんた、王国魔術師軍の指揮取らないとダメでしょうが!」
「魔術師軍?」
竜弥が首を傾げると、ユリファはジト目を維持したまま、視線を向けてくる。なんだか竜弥まで蔑まれてる感じがして落ち着かない。
「……本当に、ほんっとうに遺憾なことだけど、こいつはリーセア王国直属の魔術師軍、その全てを統括する軍のトップ魔術師なのよ」
「マジかよ、こんなバカが?」
あんまりな言い方をする竜弥だったが、エイドはめげない。気にしない。爽やかスマイルを保ったまま、彼は竜弥に向かって両手を再び広げた。
「……なんだよ」
「竜弥君、でいいのかな?」
エイドは人見知りという言葉を知らないんじゃないかと思うほど、初対面の相手に対しても動じない。彼はユリファと話す時と同じく、親密な笑顔を浮かべ、
「…………友好の、ハグをしようじゃないか」
とてもいい声で、そんなことを言い放った。
「おい、やめろ」
じりっ、とエイド・ダッグマンが一歩、足を踏み出す。彼の眼光がギラリと怪しく光った。彼は両手を広げたまま、そのままじりじりと竜弥に近づいてくる。竜弥はユリファに助けを求めるように視線を向けたが、
「……」
彼女は我関せずといったように、目を閉じて顔をぷいっと背けていた。
「あっ、汚ねえ!」
「さあ、友好の、ハグをしようじゃないか……!」
「待て、待ってくれ! 目がヤバい! 目がヤバいって!」
竜弥は震えながら後退するが、すぐに壁際、隅へと順に追い詰められ、最後には逃げ場を失った。ある意味、敵の魔術師に追い詰められるよりも怖い。
「はあはあ、僕は世界の皆を愛する……っ! 無論、異世界人の竜弥のことも愛するから、安心してくれ……はあはあっ」
「安心できねえ!」
「友よっ!」
ガバッ!
「うおおおおおおおおおおおっ!」
木造の小屋に竜弥の声が響く。
それは悲しみの叫びであり、ユリファはそれを聞いて、ほろりと憐れみの涙を流した。