第三話
「おわっ、懐かしいなここ」
「そうだね。あんたと来るのも二年ぶりくらいかしらね」
「そんなに経ったっけ」
「今懐かしいなって言ってたじゃない」
「この懐かしさは二年程度のものだったのか……」
砂場。滑り台。一本だけある電灯。残っているものは残っているが、無いものは無くなっている。例えば、ブランコは骨組みだけが残り、タイヤがあった場所は花壇になっている。
懐かしの公園内には僕らを除けば誰もいない。
なんというか、雰囲気が出ている。
「亡霊とかいそうだよね」
「いるわけないでしょふざけないでよ」
何をぷんすかしているのだろう。
「怖いの?」
「殴られたいの?」
「ごめんなさい」
「とにかく、ほら、そこに立ってよ」
指示され、電灯の真下に立つ。
そして僕の目の前に、幼馴染みが立つ。
「セッティングはできた?話って?」
「まだ待って。あと、何分か」
スマホをちらっと見てきっちり分単位で確認したはずなのに微妙に曖昧な返事が返ってきた。僕としてもいろいろ心構えが必要かもしれない。
「よし」
とか言って、幼馴染みがこちらを向いた。じぃっと僕の顔を向いたまんま、口を少し尖らせて少し首が向かって右へ傾いている。いつだって、隠し事とか企み事とかがあるとこうなってしまうのだ。左に傾く僕とは対称的らしい。
じぃっと見つめられるので、じぃっと見つめ返してみる。なんだか化粧が細かいような……気のせいだろうか。あ、目がふるふる震えだした。気まずさを感じるとこうなるが、絶対に自分から目を反らそうとはしないのだ。
そんなことに気がつくくらい目を覗き込んだのはつい最近にもあったこと。いろいろ思い出をなぞるところがある。
小学から中学に上がるときとは違い、中学から高校に進級するにあたっては通学方法などほとんど全てが変化した。幼馴染みと登校するなどということもなく、毎朝バスに揺られて都会の端の端、つまり辺境にある最寄りのバス停まで行き、十五分ほど歩いての登校が僕の三年間のスタンダードだった。
中学のショックをまだ引きずっていた僕はやる気というものがほとんど、いやまったく無く、入学式から果ては一年の終わりまでの出来事をほぼ思い出せない。僕の人生において学校生活は空白ばっかりだったが、このときほどに空虚な時もなかったな。誰も僕に興味はないし、僕は誰にも興味がなかったし、いかなる努力も信じられなかった。
しかし、二年の始めに、その空白を埋める人物が現れた。
江本乙女先生。思い出すだけで悲しみが込み上げてくる。どうしよう。でも同時に、恩を感じずにはいられない。
乙女先生はふんわりボブカットとでも言うべきな、若々しいというより可愛らしい髪型にじとっとしていて一度見ると忘れられない眼、左目尻の扇情的な泣きぼくろ、意味ありげに微笑する唇に、実は少し小さめな身長と少し大きめな胸を持つ、耳にスッと入るくせに脳に絡み付くような、気にせずにはいられないような声の養護教諭だった。
乙女先生と初めて会ったのは二年生の最初だった。それまで不登校一歩手前のような一年を過ごしていたのだが、二年生になった初日、さすがに登校していた僕を見た担任は、これ幸いとばかりに乙女先生と面談をするように言った。腐っても進学校を名乗っており、あまりにも態度不良な生徒が居ると困るということらしかった。担任に言われた時間に保健室を訪れた際に乙女先生が放った言葉は今でも脳裏に食い込んでいる。
「あら、意外とカワイイ顔してるじゃん。こりゃ荒療治になりそーだな」
養護教諭とは思えないような言葉遣いで、むしろ反応するのもなと思い、うんとかはいとか適当な返事をしてしまった。それでも乙女先生はちっとも気にかけているように見えなかったし、実際に気にかけてなどいなかった。
「僕は何をすれば……」
「まずは名を名乗れよ。年組番号名前と生年月日といつ彼女にフラれたのかを言え」
「聞く必要の無さそうな事が大分混ざってますけど!?」
「いいから言えよ、ホラ。ラクになるぜ?大丈夫だって。痛み一瞬後に極楽、中毒になってやめられなくなるさ」
まるで怪しい薬物の勧誘だったが、深いというわけではないもののギリギリまで露出した服を白衣の内から覗かせて、にやり、とニヒルに笑う乙女先生はむしろ妖しい誘惑でもしているかのようだった。わざとなのかそうではないのか、いや、きっとわざとだったのだろう。
「せーっかく推薦で入ってきたのに覇気がねえよ覇気が。もっとこう推し薦められただけの実力を見せてくんなきゃ」
「はあ。でも僕は特別に努力なんかしていないし、あまりする気もないし……あの、帰って良いですか?」
「まあどうせあと何回も来ることになるからいいけどよ。勿体ないなあ、私とのコミュニケーションをもっと楽しめ。キミはそのためにここに来るんだから。滅多にできないぞ、こんな保健室の先生と二人きりでいちゃいちゃお喋りするだなんてさ」
「……別に僕は先生とお喋りしたいだなんて思っていません。学校に来たときだけ、義務としてここを訪ねるだけです」
「はっはっは」
乙女先生はわざとらしい笑いかたが好きだった。
「学校に来たときだけ来てくれるだけでもいいのさ、最初は。でもあとからきっとキミの方から来させてくださいっ、て思うようになる日が来る。私には分かる」
「なぜです」
「そりゃあ、毎日来たらポイントがたまって、私ともっとフカぁいスキンシップが楽しめるようになるからさ。もう歴代の生徒はみんなそうだった、男女問わず。そしてみんな私を好きにできるあと一歩のところで『卒業』になっちまってポイント失効さ。キミはどうだよ?」
「な、何ですか……」
「何ですか、じゃねえよ。好きだろ?こんなの」
僕は急いで保健室を出た。乙女先生がほれ、と軽く強調した胸や組んだ脚はやたらと強く僕の記憶に残った。これは僕が変態というわけではなかったと思う。そもそも乙女先生が見た目にそれほどエロかったかと言えば実はそうでもなく、ぴったりの言葉を探せば妖しさであり、禁忌に触れる気分を生み出すその雰囲気はどんどん心に侵入してきた。乙女先生のオーラが保健室を埋めつくし、魔性の狂気が呼吸をするたび内側を犯していくようなそんな感じ。言ってしまえば、乙女先生が男子高校生の弄び方を熟知していたというだけの話だった。
そして僕はまんまと中毒になった。乙女先生の虜になったと言い換えることができよう。学校に来さえすれば乙女先生に会える、その一心で学校に来た。
うむ、今考え直してもやはり当時の僕の心には先輩の一件が生傷として残っていたらしい。きっと報われる努力が、そして大した努力なしで手に入るコミュニケーションこそが、僕が欲していたものだったのだ。矛盾しているようにも思える。でもそれらは同時に成り立っていた。
都合の悪い部分を無視するかたちで。
あと、そういえば乙女先生の雰囲気は詩歌ちゃんのそれに似ているところがあった。無邪気さ、あざとさ、いいバランスだと思う。当時だってそう思っていた。だからこそ乙女先生は適任、適役だった。
「なあよ、キミは一体どんな手酷いフラれ方をしたらこんなになるんだよ」
通い続けてもう半年以上は経ったある日、毎日行う口頭質問に、すなわち組番号名前と生年月日を問う質問に答えた後、乙女先生はいつもの調子でそう呼び掛けた。会話の端々に様々に感情の機微を刺激するような言葉が織り混ぜられた、生きたコミュニケーションの始まり。
「こんなってなんですか……僕は『彼女』にフラれてなんか居ませんよ」
いつもは適当に誤魔化すところが、この日だけ、なぜか僕は答える気になっていた。ちょうど、夏休みの後くらいだろう。
「ウソつけ。この時期にもなってまともな友達ひとり居ないなんて、何か原因があるに決まってるだろ。それはフラれた心の傷みなんだろ?何度も言ってるじゃん、話してくれようら若い青春思春期君。ラクになるぜ?」
「僕はフラれることなんかしていない」
「ん、つまりあれか。フラれたのを認めて無かったり?そりゃ相手さんにも失礼だぞキミ。認めて共に前に進もうぜ」
この日、乙女先生はいつにもまして口が悪く、いつにもまして人をイラつかせた。これも、分かっててやっていたのだろう。僕に全てを吐き出させるための布石。どれだけ怒らせたって、僕が先生から離れられない現状を理解した上での強行突破。確かに荒療治だった。
「……先生は知らないでしょうから、話してあげましょうか」
着火から爆発までにそう時間はかからなかった。
なぜなら火にガソリンを注ぎ込む人が居たからだ。
「簡潔におねがいな。中学校の恋バナなんて私の耳の中じゃ飽和してるぜ」
「助けられなかったんだよ!!」
頭に血が昇るのを感じたとたんに、目の前の景色が変わった。雨の日、白い自販機。先輩。
「先輩は苦しんでいたんだ。それに気づくのが遅かった!時期も悪かった。そんなことはその時から重々承知だったんだよっ。だからできる限りのことをした」
我ながらベタな話だが、高校生の間ある夢を良く見た。姉傘先輩に手を伸ばす、届かず消える。これだけの夢。ドラマや漫画とかの空想世界にしか登場し得ない夢は僕を幾度も夜中に叩き起こした。その度、翌日の僕は乙女先生と長いこと話すようになっていた。
「でも誰が気がつくんだよ!その一週間前までは一緒にクッキー買って笑ってたんだぞ。僕はカウンセラーでも心理学者でもない。先輩のことが好きでもその全てが分かるはずないだろ!」
最初に見た下着、わざわざ遠回りしてまで家を早く出ていたことなど、省みればその片鱗を見てとっていた。派手な下着は意外な趣味かもしれない。だけど外から押し付けられるイメージへの反発だったのでは?家を早く出るのは僕のところに寄るためで、先輩も僕のことを好きだったのかもしれない。それは居場所のない家から早く出たいための口実だったのでは?他にできたことは?妹夏前会長にもっと早くに相談できたのでは?母親は結果的に治ったんだから看病なんてそれほど重要ではなかったのでは?
努力が足りなかったんじゃない?
「キリがねえよそんなこと!考えていたって解決しなかったろうがよ!でも失敗した。考えていればもう少しましに行動できたかもしれない?努力の方向性なんて違っているかどうかも分からないものを考えるのかっ。僕は必死にやった!でもそれが最善じゃなかっただなんて……」
「最善だっただろ、それ」
割り込んだ乙女先生は強く言い切った。脳に食い込むのでなく、脳に突き刺さるような声で、僕の眼を見て。
「最善策だったじゃねえか。キミの行動はその時採点したら百点満点だ。プラスで十点あげてもいい。何をうじうじしてんのかと思ったら、まったく」
乙女先生は腕を組んで心底退屈そうに背を伸ばしながら、あーあ、とやった。
「……え、だって」
「だってもクソもあるか。分かってたことと知ってたことを頼りに行動したんだろ?その先輩のために。いいじゃねえかそれで。逆にどこがダメなんだよ。何よりキミ自身が十分言い訳できていたじゃんか。その結果を誰に責められたんだよ。自責の念とかいうやつか、そんな卑屈な考え方なんか捨てちまえ」
「……」
「いいか、努力が報われないなら数打ちゃ当たるし、当たらなさそうだと思えば別のことを探す方がいい。たとえ百回叩けば壊れる壁を九十九回叩いて諦めても、それが最善策だ。もう一回叩けば良かったなどというのは無意味な結果論でしかない。いつまでも昔を懐かしんでいないで、そいつを記憶の隅にでも保存したらもう次を探すんだ。前を見ろ、周りを見ろ、よーく見渡せ。なんかあるだろ?興味本意で近づいてみる程度でいい、その程度でいいんだよ。そうやって自分の人生を決めていくんだ」
言い終わった後の乙女先生の表情は優しかった。呆然として突っ立っている僕の頭にぽん、と手を置き、乙女先生は告げた。僕が生涯、忘れないであろう言葉を。
「よく頑張った。今日はもう休んでいいぞ」
危うく涙がちょちょぎれそうだったもので、僕はその手から逃れ出ようとしたが、乙女先生の方が一枚上手というか、反則だった。
「なあ、頑張っただろ?」
ああ、今でも体に残るあの感触は乙女先生のものだ。抱きとめられた僕の涙腺が決壊するのにそう時間はかからなかった。
「……はい。僕はよく頑張った……」
最初に乙女先生が予言した通り、僕は中毒になり、痛いのは一瞬で、認めたその日から僕はずいぶんと楽になった。
そのお陰なのか、そして予言通りと言えるのか、自分に正直になってみると僕は乙女先生に恋していたことがこの時発覚した。もう本気で虜だった。しかし、先生の言った通り、僕の恋が成就し先生と好きな事ができるくらいの絆が出来上がる前に僕は『卒業』することになる。
「たーっ、やっぱ男子の相手は疲れるねー!!女子相手ならもっとラクにサクサクッと落とせるんだけどなぁ。ま、結果的にアイツもすっかり落ちちゃったから私的には大成功だな。あと何年もせずに十八才になるってのにさ、みんなドラマティックなのが好きなんだねー。言いくるめ易くて結構結構」
放課後、保健室のドアに手をかけた瞬間にそんな言葉を聞いてしまった二月の僕は突然失恋した。
「チキショー薄々そんなこったろうと思ってたさっ。乙女先生のウソつきぃ!!」
なんて叫びながら妙なテンションで保健室から去った。それ以来保健室に行ったことはない。
失意の猛ダッシュで正門まで来て家の方へ曲がり、さすがに疲れて歩き出したその時だった。
ぐい、と懐かしい感触で背後から制服が引っ張られた。振り返ると、幼馴染みである。
「あんたっ、ちょっとさ、何で今日だけ妙に足速いのっ……よっ……」
ぜえぜえと肩で息をしているのがとても必死な感じでなんだか面白かった。
「何笑ってんのよっ!」
軽くどつかれながらも身をよじっていると、手を掴まれた。とても強い力だった。
「痛い痛い痛い!なにすんだよっ」
「公園に、行く」
「……何?」
「公園に行くの。幼稚園の時よくすもうとかやって遊んでたじゃないっ」
「あ、ああ……ああ?」
「さっ。とっとと歩く」
これが三度目。奇しくも現在とほとんど同じ格好で、僕は手を引かれて公園へとたどり着いた。もちろん僕の方が一歩が大きい分普通に歩いた方が早い。
夕日の差し込む公園の中央奥、つまり砂場のひとつ奥にあるブランコのところまで連れてこられ、幼馴染みの乗ったブランコを後ろから押すように言われたりしながら少しだけここで遊んだ。ああ、今背にしている街灯は砂場の手前に立っているんだっけ。
「なーんだ。そんなくだらない」
「くだらないったって……まさか乙女先生に騙されていたなんて」
お互いに隣のブランコに座り、キイキイとならしながら乙女先生の一連の顛末を話した。幼馴染みは僕の失恋に対しとてもドライだった。
「ま、良かったんじゃない。乙女先生なりの卒業式、あるいは餞別だったのかもよ?」
「そういえば確かに……」
「じゃ、じゃあ私からもプレゼントをあげよっかなっ!」
噛み噛みだった。僕の幼馴染みは自然に会話を切り出すのが非常に下手だ。
「ほい!これ」
「……小さっ」
スパーンっと。とても良い音で頭を叩かれた。
「ありがとうが先でしょーっが!」
「あ?ああ、うんありがとう。なにコレ」
「プレゼント」
「何の。僕の乙女先生卒業記念?」
「ち、違うわよ」
「怪しいな……まさか乙女先生とグルで、あまり来ない僕を学校に呼び出そうという作戦だったんじゃあ……」
「そんなわけ無いでしょ!何でそんなに疑り深いのよ」
「さっきひどい目に遭ったばかりだからね……」
怪しかった。目は僕から逸れなかったし、首も少し傾いていた。ただ、話をさっさと前に進めたいと思っているらしかったので、あまり突っ込まないことにした。
「それは誕生日プレゼントっ」
「誕生日プレゼント?今日……ああ!」
「まったく、自分の誕生日を忘れちゃうなんて。あんまりボケないでよね」
自分の誕生日を自覚するのはこの時三年ぶりだった。
「僕は誕生日に騙されたのか」
「いや、ずっと騙されてたんでしょ」
「知らなければ幸せだった……」
「だっ、騙された、騙されたと言うけれど、乙女先生にそんなに悪気があった訳じゃないの。ただ、あの人がさつというか適当というか……」
「何故言い切れる?まさか本当にグル……」
「お、憶測よっ。憶測!」
もう百パーセントグルだと分かってしまったが、僕は知らない振りをした。そう、世の中には知らない方が良いこともあるのだからと思って。
「……まあいいや。で、コレ中身はなんなのーーー」
「待って!まだ開けないで!」
そう、この時だ。僕が幼馴染みの顔を真近くで見つめたのは。僕の手を押さえようとした幼馴染みの鼻が、文字通り僕の目と鼻の先にあった。無意識に呼吸が止まり、心臓の音だけが聞こえた。
「あ、明日。明日になったら、開けなさい……」
幼馴染みはボソボソと言った。黒くて艶のある癖毛で本人はいつも気にしてて、少し濃いめだが形の整ったまゆ、大きい目に大抵への字の唇……むかしっからさんざん見てきたと思っていた幼馴染みの顔立ちは、しばらく見ない間にすっかり変わっていて……
僕は、その時。
「佳乃、僕はお前が好きだ」
幼馴染み、小名木佳乃への恋心に気がついた。
「……へっ?」
あれから二年と一日。
「僕のそばに、居て欲しいんだ」
二月十四日。午前零時過ぎ。
戦の火蓋が、切って落とされた。




