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第二話

「なあ、どこに連れていくつもりなんだよ」

「戦場」

「戦場!?」

「い、いいから黙ってて。集中できないから」

 何に集中するのかは果たして不明だが、僕は素直に黙る。戦場とはさすがに何かの比喩だろう。心の底から比喩であってほしいと願う。痛いのは嫌いだ。流血沙汰はもっと嫌いだ。

 夜の町、掴まれている手首は不思議と痛くない。

 さすがに歩幅も把握できてきたため、もうつんのめることはない。三分の二歩を意識して歩く。そうして歩幅を合わせて歩いていると、ふと気がつく。

「背ぇ伸びた?」

「あんたが縮んだのよ。というか本当に黙っててよね。気が散るの、気が」

 だから何の気なんだよ。

 口には出さない。ただついて行く。見慣れた風景も夜になればそれなりに新鮮で、思いがけない発見などしてしまう。規則的に並んだ街灯のスポットライトの規則的な連続に、不規則な箇所を一つ見つけた。下部が錆びて穴の空いた、だけどなぜか今日においても稼働中らしいポンコツの自動販売機。ぼんやりと光るショーウィンドウに陳列された色褪せた商品サンプルを見て、ぼんやりと色褪せた記憶がよみがえる。


 僕は結局サッカー部には入らなかった。代わりに僕が入ったのは吹奏楽部。もちろん楽器の知識などあるはずもなく、まして興味などさらさらに無かった。だがしかし、演奏できる楽器はアルトリコーダーのみ、音楽の成績は3、カラオケの成績は最低69点最高71点の僕が、それでも吹奏楽部に入る決意をした理由はすなわち入学式にあった。

 中学生の最初の日。この日の朝まで僕はサッカー部に入るつもりで、その事を話しながら幼馴染みと共に登校してクラス分けを確認した後、それぞれに自分の教室へと別れた。同じ地区の別の小学校から来た同級生たちとの微妙な距離感を保ちながら僕らは僕らだけで固まっていたのだが、残念ながらその中にすら友人がいない僕にとっては全員が初めましてのようなものであり、つまるところ孤立して非常に心細い思いをしていた。

 さて、しばらくすると一人の先生がいかにも優秀そうな二人の先輩を引き連れて教室に入ってきた。その先生は入学式の時に胸につけるリボンを配ることと入学式の簡単な説明が目的であると宣言し、必ずしも自分がここの担任というわけではないと付け加えた。

 まあその先生が後の担任だったのだが、それはともかくとして、先生の指示で先輩方二人が僕らにリボンをつけてまわり始めた。そんなものは自分でつけられる、ともちろん思ったのだが、実際のところ、詩歌ちゃんの一件以来軽い尖端恐怖症になっていた僕には土台無理な話であった。あの忌々しいワイヤーは思ったよりも深く心をえぐっていたというわけである。

「んじゃ、つけるからじっとしててね」

 順番がきて、まるで小学生にでも話しかけるような言葉づかいで浅岸先輩は僕を立たせた。なぜそんな一瞬の関わりしかないはずの先輩の名前を、姉傘(しかさ)という珍妙な下の名前まで覚えているのかといえば、当然ながら鮮烈、衝動的、あるいは粘着質な記憶に結びつけられた情報だからである。

 その時の僕は今よりずっと身長が低く、背の高い女性であった浅岸先輩がうまく僕の胸にリボンをつけるには屈まなくてはならなかった。先輩が腰を曲げてリボンを始めると、僕はその手元が気になり始めた。安全ピンの針が怖かったというのもあった。しかし一番の理由は何となく、胸元で何かされているとその手元を確認しておかなくてはならない衝動に駆られたから。すなわち下心などなにもなかった。完全な事故だ。先輩の襟元からのぞく未知なる、神秘の隙間を視線が横切る瞬間に、本能的な興味から僕はそこにあるそれが何であるかを知覚した。

 僕が視線を落として最初に視界に入ってきたもの、それは浅岸先輩の手ではなくてブラだった。

 しかも黒色かつ上の方はぱっくり空いていてヒラヒラがついているなどかなり派手。思えばこの時すでに先輩の心の内は荒れていたのだろう。しかしそれを見たとたんの僕の身体は非常に正直で、口角がつり上がりかけ、ナニかが頭と下半身に集まるのを感じ、それ以外のことは感じなかった。

 僕はすかさず、そして再び内頬を食い縛った。そのおかげでその時は事なきを得たのだったが、その後の入学式に吹奏楽部の楽団中に金管楽器をくわえた先輩の姿を見かけたと思ったら、僕はいつのまにか吹奏楽部への入部届けを提出していた。

 我らが出身校の吹奏楽部では、他の学校がどうであったかは終始分からず仕舞いだったが、全ての新入部員にある楽器の演奏をマスターすることが義務化されていた。マウスピース、懐かしい。あれは果たして楽器なのかも未だによく分からないままだよなそういえば。どんなに頑張ってもピーともプーとも言わないので正直僕は参った、いや、参りそうになった。踏みとどまれたのは、その時後輩の指導を担当していた姉傘先輩のおかげであった。姉傘先輩が見ていてくれているともうなんでもできる気がした。

「お、もう少し!ガンバレ!」

「……」

 ふーふーと空気が漏れるだけで出来なかったが。それでも無限の肺活量を得た気になって死ぬほど吹いて酸欠からの過呼吸のコンボで死にかけた。その間に心配して近くによって来た先輩の匂いをこれでもかというほど肺に取り込んだので、今ではそのことは匂いと共に良き思い出になっている。

 あっという間に時は過ぎ、その頃にはなぜかサッカー部に入ったらしい幼馴染みとは完全に登下校時間が別となっていた。友達も、さすがに少しはできたが相変わらず少なかった。しかし!それでも僕は寂しくなど無かった。登下校が浅岸先輩と同時刻同ルートだったからだ。毎日なんともない会話をしながら登下校するためだけに僕は朝六時に起きて学校へ向かっていた。毎日幸せだった。

 その中でも特に、二年生のある日の記憶が色濃い。

「私の妹ね、妹夏(まいか)っていうんだけどねー」

「先輩に妹がいるんですか。何年生です?」

「同い年、双子なの」

「もしかして生徒会長の!」

「そうだよ、我らが妹夏会長……ねぇ、私の名前って少し変じゃない?」

「いえ、そんなことはないと思いますけど……」

「ありがと。えっとね、私が姉傘、『姉』で『傘』でしょ?妹が妹夏、『妹』で『夏』。『姉妹』そろって雨の日には『傘』をさし、風の日には『夏』のような暖かさで、二人で乗りきっていこー!というのが名前の由来」

「アメニモマケズ、カゼニモマケズ……」

「そう、それ!ウチの父さんが好きでね、ミヤザワケンジとかソーセキとか、あーゆーの。アホみたいよね本当」

「アハハ……」

 一字一句違わず覚えているこの会話の途中、僕と先輩はいつもは立ち止まらない自動販売機の前で立ち止まった。どうしたのだろうと思っていたら先輩がある商品を指差した。瓶入りのクッキーだった。

「これ、新商品だよ」

 田舎特有の、個人経営の謎の自動販売機。企業のロゴも何もない真っ白なボディに聞いたこともないジュースが格安で並んでいるのが日常風景。そんなラインナップに三百円というおぞましい値段設定ではあったものの新たな風が舞い込んでいたのであった。

「これさ、二人でワリカンして買ってみない?」

 先輩はそう提案した。先輩も僕も月の小遣いは千円しかなく、三百円は決して安い買い物ではなかったからだ。だが、ただそれだけだと分かった上でも僕は嬉しかった。先輩に頼られている、そう感じたこのときほど僕が先輩に恋をしていた時は無かっただろう。

 ちょっと見栄を張って僕が二百円を出し、そのクッキーを買った。味はかなり微妙だったが、丸一日間クッキーの味が舌から消えることは無く、給食のカレーをもってしても打ち消されなかった。校則で禁止されている、いわゆる買い食いをしたのが初めてだったことも大きな要因だったろう。あの日先輩が

「ビミョー!!でもこれ、おいしいかも」

 などという半矛盾した言葉とともに見せた笑顔が忘れられない。

 それから一週間ほど後から、先輩はあまり学校に来なくなった。来ても、部活に来る前に帰ってしまったり、そもそも学校を早退したりするようになった。その頃になって、僕はようやく先輩と一緒の金管楽器を、ホルンをどうにか演奏できるようになっていたのだが、先輩と一緒に演奏することは終ぞ無かった。受験勉強が大変だとは聞いており、先輩を苦しめる受験勉強など無ければよいのにと僕が思っていたことは事実である。

 後々に思えば、僕は先輩を見ているようで見ていなかったのだ。

 そして浅岸先輩は朝、機嫌が悪いことが多くなった。一度など、自分の家の玄関先で先輩が通るのを待っていた僕を素通りしそうになったことがあったくらいだった。僕はどうしてよいか分からず、先輩が少しでも元気でいられるよう、一緒に通学した時はなるべく明るくて、可笑しい話題を作るように心がけた。この頃から、愛想(つくり)笑いも上手になった。

 そんな折、僕の母さんが倒れた。

 脳梗塞と診断された母は意識不明のままになり、僕と父、それと母の兄妹で入院中の母の看病をすることになった。部活を休んでも夜遅くまで病院にいることが多くなり、朝起きられなくなった。

 僕はどうにか先輩に会う時間を作ろうと、学校の課題などは全て前もってこなすようにした。授業を聞きながら次の課題の範囲を予測し、授業中にそれらを終わらせるように努めた。課題範囲の予測が外れたときなどは病院から帰ってきてから家で課題をこなし、どうにか朝に起きられたら玄関で先輩を待った。

 そんな日に限って先輩は来なかった。

 ある日、雨の日、音楽室でホルンを抱いて眠ってしまったらしい僕は幼馴染みに起こされた。とっくに吹奏楽部の練習は終わっているはずなのに電気がついていたからもしやと思ったそうだ。起こされてボーッとしていた僕の手を引く幼馴染みは僕に目的を告げた。これが二回目だった。

「先輩が待っている」

 そうとだけ告げた幼馴染みの言葉を聞くや否や、僕は鞄すらも置いて走り出した。どこに居るかは知っていた。

 僕は雨の中真っ白な自動販売機に辿り着くと、そこに座る人影を発見した。染められた金髪で、所々によく分からない装飾が施された鞄を横に置いて、はしたないほどに短いスカートに構わず両足を抱え込んでいた。その腕にはよく分からないキズが多く見えた。

 浅岸先輩だった。

 その時の先輩が小さく見えたのは、きっと僕の身長が伸びたせいではなかった。

「……先輩」

「あ、来てくれたんだ。ゴメンね、ビックリさせちゃったかな」

「……」

「どうしてこうなったんだろうね。真面目な生徒で居たはずなんだけどな、気がついたらこんなだよ。先生も怒っていたでしょう?」

 先輩は明るく、(から)明るく語る。もうすでに数週間、いや一月ぶりの再会だった。声は変わらぬ先輩のものだったがほとんどは独り言のようで、僕に聞かせる気があるわけではないらしかった。言葉の端々には、弱い、期待、家族、勉強……状況を察するには十分すぎたが、逆転を狙うには遅すぎた。

「先輩、僕は……」

「助けてよ」

 僕の言葉を遮って、浅岸先輩は言った。虚ろな目で、吐き捨てるように、それでも希望を捨てきれずにそう言った。

 僕は直感した。今の先輩がターニングポイントだと。浅岸先輩、浅岸姉傘が僕に頼れる最後の機会であり、逃してはならない。なんとしてでも。そう決断した僕は、雨に沈みかけた希望をすくいとるために、以前掴んでいた日常(しあわせ)の欠片を再現することにした。そこにあるのは真っ白な自動販売機、あのやや不味いがおいしいクッキーが売っていた。あの日から、最後に幸せだったあの日の僕らからやり直すんだと、本気でそう思っていた。

 硬貨を投入した。偶然ポケットに入っていた分だけ入れて、五十円足りなかった。

 またワリカンしよう。

 僕がもう少し見栄を張るんだ。

「先輩、五十円あります?」

「……あるよ。ちょっと待ってね」

 その時だけ一瞬驚いたような顔をしていたが思った通り、先輩はわずかに僕のよく知る先輩に戻った。

 あと少しだと確信した。

 先輩が僕に五十円玉を手渡そうと手を伸ばした。


 そこから、僕の記憶は数時間途切れている。

 気がつくと病院のベッドの上だった。病室には僕しかいなかった。無味、無臭、しかし薬風味な空気を吸い込んで吐き出しても、あのクッキーの味はしなかった。義務的に手元のボタンを押すと、それなりに素早く看護士が来た、ような気がするが何をしに来たのかは覚えていない。

 睡眠不足に慢性疲労。それらに伴う心的ストレスが原因だと医者から教えられた。もちろん入院となり、最初の三日間は外出すらも許可されなかった。もちろん面会も。毎日面会を希望している奴が居た。僕を起こしてくれた幼馴染みだった。謝りたいと言っていたそうだから、落ち着くまでは制限が無くなってからも面会しないようにした。幼馴染みに落ち度はなかったのだから、謝られても、こっちが謝りたくなるだろうと、それをしないという格好くらいつけさせて欲しかったのだ。

 それと僕の入院以来、先輩とは一度も会っていない。先輩は僕に救急車を呼ぶために近くの家で電話を借り、それを最後に消息不明、今も行方不明になっている。

 僕の二年の努力と共に、先輩は蒸発してしまった。


 その年度の卒業式。卒業生への送辞を行ったのは僕だった。僕が送辞をしたのは、僕がその期の生徒会長だったから。生徒会長に立候補した理由はただひとつ。在校生への答辞を、前年度生徒会長である浅岸妹夏、先輩の妹が行うことになっていたから。

 送辞や答辞は、晴れの舞台で読み上げるが故に、悲しい出来事は織り混ぜない。だから姉傘先輩のことには、お互いに、少し示唆する程度にしか触れていなかった。当たり前だ、思い出してどうするのだ。

 それでも僕は、どうしても。

 浅岸姉傘が居たことが、僕と過ごして居たことが消滅するのが嫌で、自分の言葉を、先輩の妹たる妹夏前会長の言葉で裏付けて、文字として残しておきたかったんだ。

 今でもその年度の卒業文集には僕と妹夏前会長が言葉にした浅岸姉傘の欠片が残っている。

 その後、僕は吹奏楽部を辞めていたので何をするともなく真面目にすごした。努力せず、淡々と、生真面目に生きた。ああ、そういえば三年生の夏休み以後、幼馴染みに勉強を教えていた。年の暮れ、母の病状が回復して、後遺症は残ったが普通に生活できるようになったりもした。僕はもう見舞いにも行く努力もしていなかったからか、母が帰ってきたことに、僕の努力無しに回復してしまったことに妙な虚脱感を抱いたのを覚えている。そしてそのまま推薦入試制度を利用した試験に合格して高校が決まった。幼馴染みも補欠合格で同じ高校になった。


「もう四年になるのか。時が経つのは早いねー」

「爺くさいこと言っていないで集中して歩く!」

「集中は僕もしなくてはならないのか……」

 戦場に向かって行軍する二人。時計は十一時を深く回っていた。


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