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第一話

「ねえちょっと!」

「ん?どうした急に」

「話、あるんだけど……」

「おう、なんだよ」

「ここじゃだめ。ついてきて」

「あっ、おい」

 手首を掴まれて強引に連行される。こんなことはよくあることだった。なぜか先に目的を言わず、もったいぶって知らせずに僕を引っ張ることが多いし、僕も抵抗しないから引っ張っていかれることが多い。その点で言えば、最初からある程度目的がはっきりしている分だけ、今回の状況はいくらか特殊であると言えよう。僕が覚えている限りで、似た状況は人生で三回程度しかない。

 歩幅は僕の方が大きいのでつんのめりながら、某夜の町をとある女に連行される男が一人。

 途中、見覚えのある電柱のそばを通った。倒れないようにワイヤーが張られており、人が怪我をしないよう黄色の保護カバーがかけられている。そんなどこにでもあるなんのへんてつもない電柱になぜ見覚えがあるのか。それは未だにそいつのワイヤーがカバーから飛び出るほどにささくれていて、僕が未だに小学校の頃の記憶を一部保持しているからであった。


 秋伊坂さん。小学生の頃の僕は詩歌(しいか)ちゃんと呼んでいたが、僕が彼女に恋をしたのは確か小学校の六年生の春だった。

 僕が教室から出た瞬間にちょうど廊下を走ってきた(でぶ)にはね飛ばされて、吹っ飛びながらも『廊下を走るな』という教訓が何を戒めていたのかを改めて確認したその日、吹っ飛んだ先にいた秋伊坂さん、つまり詩歌ちゃんを派手に突き飛ばしてしまった、というより巻き込んだ。僕に腰の辺りを頭突かれて同じく吹っ飛んだ詩歌ちゃんはうつ伏せに転んでしまった。

 簡潔に話せば、小学生といえどみんなスパッツや短パンを履いてパンツを守っていたその時分に、詩歌ちゃんは律儀にも、場違いにも、スカートにパンツのみというトラディショナルスタイルを貫き通していたために、僕はそれを拝むことができた。

 それは壮観だった。

 そして一瞬でもあった。

 なんとも嬉しいことに、僕の背後にいた(でぶ)に見えていたのは僕の背中だけであり、また僕の前には詩歌ちゃんしかいなかった。 小振りなお尻を健気に守る一見白無地だがアクセント的に模様が散らしてある布を見ていたのは僕だけだったのである。

 詩歌ちゃんは身体を起こすよりも先にさっ、と捲れたスカートを戻し、そのままぱたぱたと軽く払った。その時の僕には舞う埃すらも神聖なものに見えた。

 僕は慌てて身体を起こし、決してスカートの中など見ていないよとアピールするべく取り繕おうとしたのだが、なにぶん表情筋の調整が難しく、上がりそうになる口角を押さえつけるべく内頬を噛みちぎっているうちに詩歌ちゃんも身体を起こした。

 そしてこちらを向き、奇妙な仏頂面をしている僕に向けてこう仰せられたのである。

「みんなには内緒にしてねっ」

 と。はにかみながら。

 まさしく女神であった。

 僕は恋に落ち、同級生に遅れること約一年にして性に目覚めた。嘘じゃない。僕はその夜、父さんのパソコンを使って人生で初めてエロ動画を見た。

 次の日、教室に入るとすぐに詩歌ちゃんと目があった。そりゃそうである。僕は三階にある教室の詩歌ちゃんが座っているであろう席を階下から注視して来ていたのだから。詩歌ちゃんは僕と目が合うと再びはにかむように笑い、せっせと僕の席まで駆けてくると僕より先に僕の席へと座ってしまった。

「おはよ。今日からはスパッツなんだよ」

 そういってスカートの端をつまみ上げた詩歌ちゃん。

 悪魔である。

 先ほどの表現に仇為す感じで申し訳ないが、悪魔である。

 僕も詩歌ちゃんも朝来るのが早い方であった。特にその日など、本来の登校時間は八時十五分であるにも関わらず僕は七時よりも十五分早く来ていたのだ。いつもと比べても半時間早かった。

 すなわち僕と詩歌ちゃんの他には誰もおらず、だからこそ見られたら噂になること必至の挑発的行為に打って出たのであろう詩歌ちゃんだったが、偶然か必然か、二人だけに限られたその空間は不思議と前日の出来事を彷彿とさせる雰囲気を放っていた。

 なにもしない訳がない。

 僕は自分のとなりの席に腰かけた。ちょうど詩歌ちゃんに向き合う形となる。詩歌ちゃんは僕が何を言わんとしているかを分かっていただろう。それくらい当時の僕は分かりやすかった、はず。

「すっ」

 きです、と言おうとしたんだけどね、勇気がでない。そこが残念なところ。

「好きな人、居るの、詩歌ちゃんは」

 結局僕は謎の倒置法を交えつつ告白めいたことを言うに留まった。詩歌ちゃんは少し首をかしげ、腕を組み、わざとらしくうーん、と唸った。今思えばかなりあざとかった。そしてその後の僕の人生を大きく変えるような言葉を言い放った。

「今好きな人はいないけど、スポーツしている人が好きだよ、サッカー選手とか」

 僕の中学校の部活はその時点でサッカー部だと決定した。

 なんだかそのまま居るのも恥ずかしくなり、僕は適当な用事を言って教室を後にした。確か図書室にいくとかなんとか。その時間にはまだ図書室は開いていなかったはずなのにね。

 えっとそれで、行く当てもなく通学路を逆走しているときに幼馴染みに会ったんだ。いつもは一緒に通学していたもんだから学校の方からなにも持たずに来た僕を見て目を丸くしていたよ。理由を聞かれて僕は「散歩」とだけ答えた。

 それからいくらか月日が過ぎて、僕らのクラスは折り鶴を折ることになっていたんだ。クラスに心臓病の子が居て、その子の手術が成功するように千羽鶴を折るという企画。

 正直なところ僕はその子とあまり話したことはなかったから大した思い入れは無かったんだけど、その時たまたまとなりの席だったのは、なんと詩歌ちゃんだったんだよね。小学校だから机はとなり同士でくっつけてあって、僕はその頃いつもドキドキしていた。

 で、いざ鶴を折るとなると折り方がよく分からない。それでその時詩歌ちゃんが折り方を教えてくれたんだ。文字通り、手取り足取りね。もうどうにかなりそうだったよ。たしか二枚ほど折り紙をダメにしたと思う。

 だって詩歌ちゃんは僕の耳元で喋っていたんだ。しょうがないだろう。間違えるたびに耳元で

「あっダメだよ。ここはこうしなきゃ、破れちゃうでしょ。もう一回見せてあげるから」

 なんて言われたらわざと間違えたくもなる。結果的に僕が折った折り鶴がクラスで一番少なかった。なぜか詩歌ちゃんは一番多くの折り鶴を折っていたけどね。

 そんなこんなでさらに月日が流れ、とうとう事件が起こった。

 その日は天気予報が晴れだったんだけど、放課後になる頃には結構な雨が降っていた。クラスの大半は置き傘というやつで、学校に傘をおいてある奴がほとんどだったからみんなさっさと帰ってしまって、傘を持っていなかった僕はたちまち取り残された。今思えばそもそも僕には傘に入れてくれるような友人はあまりいなかった気もする。きっと気のせいではない。

 さて、なんと幸運なことか。後から見れば結果的に不運だった訳だが、とにかくその日になんと詩歌ちゃんまで傘を持っていなかった。僕は靴箱で困った風に外を眺める詩歌ちゃんを発見したのだ!

 相合い傘のチャンスである。

 普通はここで、だからなんだ、二人とも傘を持っていなかったなら意味ないじゃん、となる。当然当時の僕もそう思い、詩歌ちゃんに声をかけたくてもかけられず、どうにかして傘を手にいれようと思っていたところに、そう、たまたま校内に残っていた幼馴染みが声をかけてきたんだ。

 この時が目的を告げられた状態で手を引っ張られた最初の時だ。

「傘、貸してあげる。私はもう一本あるから」

 そう言って僕を傘置き場に引っ張っていった幼馴染みは僕に傘を一本押し付けてどこかへ行ってしまった。

 こうして僕は無事に傘を手に入れ、歌でも歌いたい気分で詩歌ちゃんのもとへと戻り、声をかけた。

「かっ、かかか、傘、一緒、入るっ?」

「えっ、いいの。お家逆方向じゃないの?」

「ソンナコトナイ。ダイジョウブ、マジデダイジョウブ」

 とまあこんな感じに首尾よく相合い傘になった。僕の興奮度合いはもう青天井だった、曇天だったけど。

 僕は家を北に見て南南東にある詩歌ちゃんの家を目指した。そりゃもう挙動不審になり、今となっては会話も何を話したのか全く覚えていない、残念ながら。ただ一つだけ覚えていることとして、僕はどうにかこうにか自然に告白する流れに持っていこうとしていた。「今日はよく噛むね」なんてクスクス笑われつつも、周囲の目も省みず、ただひたすらに自身の人格(キャラ)を信じて自然に振る舞った。

 で、ちょうど例の電柱の辺りに差し掛かったところで、僕はいよいよ告白しようとした。話の流れは極めて自然であった、と思う。

「雨が降ってるからかな、ちょっと寒いね」

「そうだね、ところでさ、きっ、聞いて欲しいことが」

「えっ。何?」

 こんな感じ。

 ともかく僕はそのままの流れで告白しようとした。

「ボッ、僕はし、詩歌ちゃんが」

 まで言ったところで、急に雨足が強まった。雨はたちまち滝のようになり、大粒の雨が傘を叩いた。僕は傘から少しはみ出していたから、右の肩がじっとりと湿り始めたのを覚えている。

 そしてその時、詩歌ちゃんのランドセルが少し傘からはみ出しているのに気がついた。その時はまだどうにかなっていたけど、風向きが少し変わればランドセルがずぶ濡れになってしまいそうだった。

 僕は慌てて、傘の自分の側をもう少し詩歌ちゃんの方に分けようと思った。


 これが失敗だったんだ。

 傘を詩歌ちゃんに押し付ける時、僕は足をもつれさせてしまった。

 僕は小さく声をあげて倒れた。右の二の腕がものすごく痛かった。だが僕にも増して、詩歌ちゃんは特大の、特別の叫び声をあげた。僕は詩歌ちゃんを巻き込んでしまったのかと焦った。だけど違った。

 僕の腕を血が真っ赤に染めていた。着ていたTシャツの袖はささくれたワイヤーに裂かれて、そこからだくだくと流れる血液が雨と混ざって絵の具のように、ドラマで見るように、信じられないくらいのグロテスクさを演出していた。

 気がつけば、詩歌ちゃんは傘を持ったまま走り去っていた。

 彼女は極度の流血嫌いだった。


 僕は次の日から詩歌ちゃんどころかクラスの女子ほぼ全員から避けられるようになった。僕が詩歌ちゃんを怖がらせた、という部分だけが広まったせいだろうと今にして思うが、僕は失恋のショックで当時それどころでは無かった。

 その後僕は卒業式まで放心したまま過ごした。そして卒業式の、その日の午後。僕は幼馴染みの家にいた。僕らは母親同士の仲が良く、その日も二家族で卒業祝をささやかながら行ったのだ。その酒の席で、中学になればもうこんなことはできないであろうからと、幼馴染みとのすもうをさせられたのだった。確か一勝二敗の負け越し。

 そして春休みの辺りで詩歌ちゃんは僕と同じ地元の中学には進まず、県外の中高一貫の私立進学校に通うことを知った。そのおかげなのか、失恋のショックは春休みが終わる頃には消えていた。


「忌々しいワイヤーめ、まだあったのか。後で役所に苦情を入れないと」

「ん、何か言った?」

「いや。なんでも」

 僕は夜の町を幼馴染みに引きずられていった。


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