鬼成り
1
闇が哭いている。
白昼の、それも夏の日差しが強い都会の一角。そこだけが異常なほどの濃い闇を形作っていた。
大通りには車や行き交う人並みで溢れていたが、この路地の一角だけは空間が切り離されでもしたように喧騒から遠く、時間も音も凍りついたようだった。
きりりり、
きりりりりり、
肩まで流れる黒髪の少女。
真っ白な羽織袴は高層ビルが立ち並ぶ都会の街並みにおいて、どこか時代錯誤な印象を受けるが、端正な顔立ちからは恥じらいも、ましてやオタクと呼ばれる種類の人間が行うコスプレのそれのような酔狂さも見えない。
少女は闇に向かい合っていた。
変声期前の少年のような声で、闇に何かを問うている。
きりりり、
きりりりりりり、
少女の目の前で闇が濃くなった。
汗ばむほどの真夏の太陽の下で、少女の周囲だけが季節を違えたようにひんやりと冷気を纏う。
問いかける少女の口調は、やがて諦めに似た響きを含み、右手が腰に下げる刀の柄に伸びた。
2
「鬼ですか」
「うん。鬼」
「これが……」
初めて見たソレは奇妙に歪んだ容姿の、でも良く見ればとても小っちゃな少女だった。
その少女はベッドの上で両手両足を鎖で繋がれ拘束されている。口には強化プラスチック製の轡が嵌められ、剥き出しの腕や頬には、おそらく自分で付けた傷であろう無数の切り傷があった。
「太一は今来たトコだから知らないだろうけど、この状態にするまで一苦労だったんだぜ」
思春期の少女らしさをそこはかと感じさせる六畳の空間には、獣じみた唸り声と汚臭と場違いに呑気な男の話声。僕は吐き気とほんの少しの恐怖と好奇心、そして精一杯の痩せ我慢を携えて鬼と成った少女の足元へとたたずんでいた。
僕の隣には先ほどからニヤニヤと面白そうに僕の顔色を窺っている男がいる。
僕は男の好奇に満ちた視線を避ける為にベッドに縛り付けられている哀れな少女の成れの果てを食い入るように眺めた。
矢野と名乗るこの年齢不詳の男とあったのは昨日の晩のことだ。
予備校帰りに寄るいつもの居酒屋は高校時代の友達が働いていることもあって週に二、三度は出入りしていた。
勉学に疲れた脳みそに好い加減に酒が沁み、体も火照ってきたところで、ふと隣合わせた黒髪の美女と目が合い声を掛けた。知ってる店の気安さもあってか、その晩は我ながらいつにも増して饒舌で、弾む会話と進む酒、段々とぼやける視界の中、気が付いたら部屋に連れ込んでいた。久しぶりの期待感にはやる気持ちとはち切れんばかりの我がムスコ。
ああ、若人よ。青春を謳歌せよ! 人生はかくも美しきかな!
そして僕は彼女にキスを迫り、やがてベッドに押し倒されて……。
「でさあ、聞いてる?」
「……は? ああ。うん」
「いや、聞いてなかったでしょ、実際。困るんだよ、ちゃんと聞いててくれなくちゃ。これからの作業に大事な事なんだから!」
「ああ、わかった。ちゃんと聞くよ」
「じゃあ、も一回説明するぜ」
矢野は肩に掛かるほどの長い髪を掻き上げながら、そして周囲を取り巻く悪臭に顔をしかめながら話を再開した。
「人間は誰でも心に鬼を宿してるんだ。精神的に追い詰められたりすると、その鬼が宿主の心を揺さぶって普段では考えられない行動を取らせる。大概はちょっとした犯罪なんかを犯して終わる程度だけど、稀に宿主が耐えられないほど精神にショックを与えられると、鬼が宿主の自我を食い破って顔を出す」
「……じゃあ、この子は、」
「ああ、その“稀”な例だ」
「どうすれば元に?」
「残念ながら、こうなると元の少女には戻ることは出来ない」
「……」
「額から角が生えてきてるだろう?」
矢野の指し示した少女の狭い額の上には、よく見ると確かに小さな突起が左右に一本ずつあった。
「これは鬼成りと言って、鬼が宿主の精神を支配した証だ。今はまだ初期症状だが、何れ体全体に変化が訪れる。そうなれば殺すしか手段は無くなる。そうなる前に――」
「そうなる前に君が陰陽師の技で何とかすれば、この少女は助かるんだな?」
「いや、さっき言ったろ。こうなると、もう元には戻らないって」
「じゃあ、」
「今出来ることは少女の体から鬼を祓い、この家のご家族から禍を取り除くこと。少女は、まあ良くて植物人間だな」
「それじゃあ、殺すのと変わらないじゃないか!」
「もう成りかけている。こうなると普通に殺すのは難しいんだ。ま、ここで君に陰陽のイロハを講じてたら朝になっちまう。とりあえず今は言われた通りにしてくれるかな?」
「……わかったよ」
言いたいことはいっぱいあるけど、どっちにしろ、ここんところ僕は門外漢だ。
矢野の指示通りにベッドに拘束された少女の脇にまわる。
少女の枕元、頭の上には鏡があって、僕はその正面から大き目な手鏡を掲げた。
矢野はベッドを挿んで僕の正面に回り、手に持った呪具(掃除で使う叩き棒のように、細い棒の先に何やらひらひらと刻んだ紙が付いた物)を振りながらお経のような言葉を呟いている。その呪文のような言葉は少女を苦しめているようで、少女はベッドの上で苦しそうに呻き、もがき始めた。
矢野が手にした呪具を何度か少女の顔や体を祓うようにする度、少女のもがく様が一層増してくる。遂には閉じていた目を開き、体を起こして矢野に食って掛かろうとでもするように敵意を剥き出しにした。
ガタガタとベッドが跳ねる。固く縛り付けている筈だけど、鬼に憑かれた少女の力に今にも拘束が解けてしまうのではないかと思うほどだ。
僕がその様子を冷や冷やとしながら見ていると、矢野は呪文を唱えながら僕に向かって何やら首を振るような、顎で示すような素振りをしたので、一瞬眉根を寄せたけれども、直ぐに僕は作業の前に矢野に言われてた事を思い出した。
今、少女は矢野の方を向いている。僕は少女の枕元に立てかけてあった鏡に手を伸ばし、彼女の後頭部に向けてその鏡を置いた。そして手に持っていた手鏡を今度は彼女の顔の正面に来るように掲げる。合わせ鏡になった二枚の鏡の中で鬼の形相の少女が睨んでいた。
やがて僕の目の前で少女の後頭部がパックリと割れた。長い髪のせいではっきりとは窺えないが、開いた穴の中には歯のような物が見える。
余りにも大き過ぎる点を除けば、それはまさしく口だった。
矢野の声ではない何かが聞こえる。
僕ではあり得ない。ましてや少女の口には猿ぐつわをしているし。
僕の様子に気付いてか、しばらくして矢野も異変に気が付いた。それまで唱えていた呪文を止め、僕の手から手鏡を取り上げた。
矢野が黙ると、それまで朧気だった声の正体がはっきりとしてきた。
少女の後頭部に出来た口から言葉が漏れている。
それは蚊の鳴くような小さな声で同じ言葉を繰り返していた。
『弟ヲ殺シタ。私ハ弟ヲ殺シタ』
◆
「鬼かと思えば、今度は人面瘡か。口が二つもあっちゃあ、たまんねえよな。俺、おしゃべりな女って嫌いなんだ。太一はどうよ?」
「何呑気なこと言ってるんだよ。それより、どうすんだよ、コレ」
少女は矢野が呪文を止めたと同時に見開いていた瞳が閉じ、起きていた体もバタリとベッドに倒れていた。
ぐったりとした少女の頭の後ろでは枕に押し付けられて不明瞭だったけど、相変わらず、あの口がぶつぶつと呟き続けていた。
「……おい、喜べ。どうやらこの娘、助かるかも知れないぜ」矢野がニヤリと嗤った。
「だから、意味分かんないって。説明してよ!」
昨夜知り合ったばかりの男に振り回されっぱなしの僕は、その混乱の元凶たるヤツを出来る限りのしかめっ面で睨んだ。
「ははは。分かったって。」
矢野はやれやれとでも言うように苦笑いを返し、僕に手招きして隣の部屋へと移った。そこは少女の両親の寝室らしく、十四、五畳程もあるフローリングの部屋だった。
部屋に入ると中央にデンと構えたクイーンサイズのベッドに矢野はダイブするような感じで仰向けに体を投げ出した。
「すげーぜ。このベッド。ぼよんぼよんのフカフカ。お前も寝てみろって」
「いいよ、恥ずかしいだろ」
自分の隣をバンバンと叩いて、そうからかうように言う矢野の提案に半分呆れながら僕は丁重に御断りをした。
矢野はつまらなそうに口をすぼめた。それも一瞬で、直ぐに意地悪そうな表情に変わる。
「別に誰も見てねぇつーの。大体、昨夜のお前はもっと大胆だったぜ?」
「うわっ! いっ言うな! 聞きたくないっ!」
「いいからいいから。こっち来いって。ちょっと休憩しようぜえ」
「何バカ言ってんだよ! 大体、あの娘を早く何とかしなきゃいけないんだろ!?」
「ん。それなんだけどね、そんなに急がなくても大丈夫みたいなんだわ」
「えっ、な何で?」
「うん。ほら、頭に口あったじゃん。あれってば、妖怪の仕業なんだわ」
「妖怪? 鬼じゃなくて?」
「いや、鬼にも成りかけてんだよ。でも妖怪も憑いてる」
「さっぱり意味わからん! もっと分かりやすく説明しろっ!」
「面倒臭せーなー」
矢野はそう言いながらもベッドからよいしょと言って体を起こし「まあ急ぎじゃなくなったし、まいっか」と渋々、本当に面倒臭そうに説明を始めた。まったく……。
「お前、アレだ。水木しげるの妖怪大図鑑読んだことあるか?」
「恥ずかしながら、小学生の頃にテレビで『悪魔くん』の再放送を見てから水木しげる漫画のファン、現在進行形だ。当然、部屋の本棚には妖怪大図鑑もあるよ。閲覧用と保存用とレンタル用の三冊ね」
「レンタル用?」
「あ、僕ってちょっと潔癖なとこあるから、自分の物を人が触ったりするの嫌なんだよね。だから貸して欲しいって人用に」
「お前って……まあ、いいや。とにかく、お前が妖怪博士だって事は分かった」
矢野は呆れた様な顔をしてたけど、僕の高尚な趣味をこいつに理解して貰おうとはさらさら思ってないので一向に構わない。
「その妖怪図鑑の中に『二口女』ってあったろ?」
「ああ。確か、少食で働き者の妻が、夫の留守中に後ろの口で大飯を食らうとかっていう」
「それだ。日本全国に似たような言い伝えがあるから、諸説諸々なんだけどな。ま、本来は憑いた人間の心の闇を代弁するってだけの見た目以上に害のない妖怪なんだ」
「ふーん」
「その心の闇ってヤツは本人も気付いてない事が多くってさ、この『二口』って妖怪はそれを周囲に話して知らせるって性質があるんだ」
「な、なんかこんがらがって来たんだけど。あれ、だってさっき言ってた鬼だってストレスが原因だろ」
「まあ、ざっくり言うとな。けど、妖怪と鬼は別物なんだよ。鬼は人が成るもので、妖怪は外から憑くものだ」
矢野はここで妖怪と鬼の違いや、それぞれが人に及ぼす害意なんかについて説明してくれたけれど、すでにパンク寸前の僕の脳ミソには右の耳から左の耳で、まったく理解は出来なかったけど、矢野の言葉に一々尤もだと頷くポーズだけはとっておいた。何しろ説明を迫ったのは、この僕自身だったし。
◆
「――と言うわけで、今の説明でよく分かったと思うけど、少女が鬼成りになった直後に『二口』が憑いたお陰で、少女が鬼として完全体になるのを未然に防いだ形になっている非常に稀なケースだ。陰陽道の古い文献で読んだことはあったけど、実物は俺も初めて見る」
矢野はそこまで一気にまくし立てると、今度はベッドの上であぐらを描き、考え事をするように自分の膝の上に肘を付いて顎を支えた。そして僕に話していたのとは違うトーンで呟きだした。僕は小難しい話からようやく解放されたと小さなため息を吐いた。
「鬼成りの原因となるストレスと『二口』が言ってる弟を殺したってのは別物だ。だから頭に憑いた『二口』が蓋となって鬼成りを抑え込んだ形になってる。『二口』を祓ってしまえば鬼成りが一気に進むだろうし。うー……やっぱり、鬼成りの原因となるストレスを何処かに移して、そいつを封じてから『二口』を祓うしかないだろーなぁ。うーん」
矢野はさっきからぶつぶつと一人で勝手に悩んで勝手に納得してる。もちろん、ここでも僕の出番は当然ない。
「よし!」
矢野が頬杖を解いて膝を叩いた。
「助ける方法が見つかった?」
「ああ、まあね。それじゃあ――」
僕が訊ねると矢野はニヤリと嗤って言った。
矢野が言い出したそれは、後にこの男との出会いを死ぬほど後悔することとなる出来事に発展するんだけど、それはもうちょっと先の話。この時の僕は身近に起こるすべての出来事が他人事みたいに感じていたんだ。
◆
「いや、だから良く分かんないんだけど」
僕は必死に抗議した。いや、抗議したつもりだった。でも矢野は僕の抗議虚しくキッチンにあった椅子に僕を座らせると、ロープでぐるぐると巻きだした。
「しっかし、ここの家、何でもあるのな。このロープ見つけに行ったときにガレージにあった車みたか? ジャガーだぜ、ジャガー。あんな高級車、乗り回してみたいよなあ」
矢野はロープで僕を椅子に縛り付ける間、面白そうに一人でぺらぺらとしゃべっていたけど、それは全く場違いで――部屋にはベッドに縛り付けられた少女と椅子に縛り付けられている僕。そして、それらの作業を嬉々として行う素性不明のあやしい男。もし、この場に誰かがいたら、この状況は強盗に押し込みにあった哀れな家人に見えるだろうな。
「さて、さっきは鏡を使って鬼を封じ込めようとしたわけだ。合わせ鏡ってやつは古くから異世界の扉を開く手段として用いられているけど、正しいやり方をしないとただ幾つもの像が写るだけだ。で、陰陽の業が必要となるわけだが……ま、これは一先ず置いといてだな」
椅子に縛り終えた僕の姿に満足そうに頷きながら、矢野は持参してきたリュックサックの中から手のひらサイズの丸い玉を取り出した。
「ハイ、これ。水晶ね。ガラス玉じゃないぜ? 本物の水晶玉」
「……で?」
「ハイ。ではこれから、この水晶を使って少女の中の鬼を移したいと思います」
「……まったく解らない……いや、なんだか解りたくない気がするっ!」
「だいじょうぶだよ~痛くないからね~」
「お前は小児科の医者かっ! アヤシイにも程があるわっ!」
「まあまあ、お前の頑張り次第でこの少女が助かると思えば、多少の努力は必要だろ。大体お前、昨日俺を押し倒したときに仕事手伝うからって言ったじゃないか」
いや、それは絵空事……じゃなくてベッドの中での寝空言だって!
そう思ったところで口に出せる訳もなく。
確かに酔った勢いで言った記憶がある。下心ってホント怖い。
「時間が経てば状況悪くなる一方だかんな。じゃあ、始めるぜ」
矢野は水晶を捧げもって呪を唱えはじめた。
僕はくくりつけられた椅子の上で矢野の声を耳元に感じながら、さっき聞いたばかりのちんぷんかんぷんな説明をぼんやりと思い出していた。
矢野が唱えているのは呪って言うらしい。言葉には本来強い力があって、そういう強い感情?言葉?を合わせたのが呪で、様々な場面で物事を術者の優位に運ぶためにそれぞれの状況に合わせた呪が幾つもあるんだって。
だから今唱えてるのは最初に唱えた呪とは別物……の筈だ。素人の僕にその違いは分からない。
矢野は水晶を持った手とは逆の人差し指で縦に四つ、横に五つの九字を切りながら呪を唱え続けている。青龍、白虎、朱雀、玄武……懐かしいゲームのキャラクターの名前が聴こえてきて、ちょっと驚いた。そういや、ゲームの攻略本にも元々は東西南北の方位を表す、いや、その方位を守る守護神か何かだって書いてあった気がする。そこまでは何となく分かったけど、後の五つの言葉が何を意味するのか分からなかった。
やがて直ぐに視界の幕が下りて、僕は意識を失った――。
◆
水晶に吸い寄せられるようにして少女の体から青白い靄が立ち込めたかと思うと矢野がそれを呪と一連の踊るような動作で太一の体へと導く。
青白い靄が椅子に縛り付けた太一の体へと吸い込まれると同時に体がガクガクと揺れだし、太一は白眼を剥いた。
矢野は太一の頭から髪を一本引き抜き、鼻紙で小さく包んだ。先ほどの包みを用意していた紙の人形の上に重ね、壁にピンで止めた。
そして呪を書き付けた白い紙袋を太一の頭にすっぽりと被せる。
すると太一の体の痙攣が治まった。それと同時に壁に張り付けた人形の紙が風にでも煽られる様にカサカサと動き出した。
「ま、これでしばらく大丈夫だろ」
矢野は一人ごちると水晶をサイドテーブルの上に無造作に転がし、椅子の上の太一に背を向けた。
正面にはベッドの上に少女。手足はロープで拘束されたままだ。
矢野は両手足のロープをほどくと、少女をうつ伏せに返す。長い髪を左右に分けると、後頭部から二口が露となった。
「鬼に大分持ってかれたか」
二口が弱々しく動くのを見て矢野は顔をしかめ、小さく舌打ちを打った。
「さて、ホントはこっからが見物なんだけどな。唯一の見物客は白眼剥いちまってるし、さっさと終わらすか」
呪を唱えた矢野の体が少女の後頭部に出来た口の中へと吸い込まれた。
もしこの場に傍観者が居れば、そう映ったに違いない。実際には霊体だけで、体はその場に留まったままだ。
二口の口内は少女の深層意識へと繋がっていた。
霊体となると時間の流れがゆっくりとなる。100分の1秒下ほどか。
少女の意識のまだ浅い部分では、少女の記憶や嗜好などが形を成し、大なり小なりと目まぐるしく変化していた。
更に奥に進むと、薄暗い孔内に細切れになった映像や言葉の断片がチカチカと周りで明滅するようになった。
(そろそろか……)
呟いた矢野の前方に巨大な胎児の姿が見えてきた。
頭部の半分以上を占める巨大な眼を持ち、ヘソの尾を首に巻き付け身体を丸めている。身体の割に小さな両の手は、その指先を頭部にめり込ませ、血のような体液を辺りに撒き散らしている。
胎児の身体から発する淡い光が辺りをぼんやりと照らしていた。
胎児の瞳が徐々に開き、この場にそぐわぬ異物である矢野の姿を見据えた。
霊体だけの姿は傷つき易い状態にあった。
特にこの深層心理の意識下で下手をすれば、他人のイメージの具現化に触れ、犯されることによって精神に深刻なダメージを受ける。
(ち、思った以上に反応が早いな)
矢野の動くに合わせて胎児の瞳がそれを追う。小さな口が一杯に開かれ、歯の無い真っ黒な口径から絹を切り裂くような不快な泣き声を上げた。
周りの濃度が上がった。胎児が自らの頭に突き立てた指先、その傷口から噴き出す体液が一層激しくなったせいだ。
さっきまではっきりとしていた胎児の姿が見る見る内にぼやけてくる。
選択肢は二つ。
少女の精神のしこりとなっている存在を丸ごと消し去るか、原因を追究し一段階上の層に昇華させるか。
矢野は迷わず前者を採った。
(わりいな。今回は時間がない)
印を結ぶと素早く呪を唱えた。
正鹿山津見淤縢山津見奥山津見闇山津見……
呪の言一つ一つが刃となって舞い、胎児を切り刻み始めた。
それに抗うかのようにして、胎児が大きく身体を揺さぶる。
泣き声は悲鳴に近くなり、辺りを取り巻く濃霧が矢野の霊体を刺すようにちりちりと蝕んでいく。
構わず呪を唱え続ける。
呪を構成するのは“暇な神”となった神々の名。信仰が薄れ、神代を失ったが、真の意味を知る者が唱えれば呪となり力を与えた。
(アメノオハバリ!)
右手の人差し指と中指を揃えて立てる。
指先から青く燃え立つ霊刀が現れた。
今や頭部に巨大な瞳だけとなった胎児に向かい、矢野はその霊刀を振り下ろした。
切り裂かれた胎児は散り散りとなり、僅かな断片も霊刀が纏う炎により燃え尽きた。
断末魔の叫びの中。胎児の瞳に映った最後の光に、矢野は全てを理解した。
(……そうか。お前たちは一卵性の――)
まだ母親の胎内に居た頃、共に生まれた魂は胎児となる段階で一つの体に吸収されてしまった。
今まで少女の中で息衝いていたのは、その魂の片割れ。
少女の記憶櫓からも完全に消えてしまった名も無き魂に、矢野はその場で供養を捧げた。
・
「さて、次はこいつをどうするかだが……」
少女の中から舞い戻った矢野が呟いた。二口はすでに口を閉じ、その輪郭も徐々に薄れていた。
ベッドの上の少女に背を向けた矢野がそう言って思案しているのは、矢野自らの手で椅子に縛り付けられたまま昏倒している太一のことだ。
チラリと壁を見る。太一の髪を張り付け、壁にピン止めした人型の紙は、今はピクリとも動いていない。
「おかしい。鬼の気配が消えちまってる」
太一の身に何かあれば、呪を施した紙人形が太一の身代わりになるはずだったが、少女の中に入る前にはあれほど激しく動いていた紙人形さえ、今はピクリともしていない。
「まさか、」
こいつがあんまりにも能天気だから、陰の気が消えちまったのか?
などと思ったりもしたが、いやそんな馬鹿な話は聞いたことがないと矢野は頭を振った。
「ま、なるようにしかならんだろ。消えちまったのなら、手間が省けたって訳だ」
そう自嘲気味に言って、壁の紙人形を剥がし、呪を解く印を切ってから太一の頬を叩いた。
◆
「……っ!? 痛てぇ」
「起きたか?」
起きたかじゃないっての!
僕はジンジンと痛む頬に目をしばたたかせながら、矢野に向かって抗議の声を上げた。
矢野は「悪い」と言いながらも口元にニヤニヤ笑いを浮かべている。僕はそんな矢野を思いっきり睨みつけながら、
「とにかく、終わったんならこのロープ外せよ!」
と尤もな意見を述べた。
矢野は肩をすくめて、僕のロープを外しにかかった。
「そんで、上手くいったの?」
「ああ、まあ、なんとかね」
「何だか歯に物が詰まったような言い方だなあ」
矢野は、ンな事ねぇよと呟きながら、僕から視線を逸らし、ベッドの上で小さく身じろきしながら体を起こした少女へと顔を向けた。
・
「そういえばここん家の人たち、どうしたんだ?」
「ああ、ここだよ。ホラ」
少女の部屋の隣にあった両親のベッドルーム。その部屋の立派なクローゼットを開けると、猿ぐつわをされ、す巻き状態になった中高年の男女がいた。
「お前、これ……」
「だから、最初に言ったじゃねーか。あの娘をベッドに縛りつけるまでが大変だったって」
「もしかして、その生傷って……?」
「ほとんどこの二人のだよ。あんまり騒ぐんで、作業の邪魔になるから、縛ってこの中に転がしてたんだけど、縛るときに殴るわ蹴るわ引っ掻くわで。ホント、散々だわ」
矢野の手や顔に引っ掻いたような痣があったのには気付いていたけど、鬼成りになった少女相手に手間取ったものだとばかり思っていた。
僕は呆気にとられて言葉を失い、どうしていいか分からず、とりあえず矢野を睨みつけた
「では、ご依頼の件、無事に終了致しましたんで。お約束の報酬は後日こちらにお振込み下さいませ~」
懐から請求書をヒラリと両親に放り、にこやかに退散する矢野。
す巻きの姿でクローゼットの中から恨めしげに見上げるご両親の視線になんとも言えない罪悪感を感じつつ、この奇妙なやり取りを隣の部屋のベッドから呆然と眺める少女に向かって「もう大丈夫」と手を振った。
玄関から外に出ると、すっかり陽が暮れていた。
しばらく無言で矢野の後を歩く。散々な目にあったけど、少女を助けられたって事実に僕は――いや、ほとんど矢野の力なんだけど――それでもこの偉業の一端を担えたってことに少なからずの充実感を感じていた。
「さー、一仕事終えたし、これからどうするよ?」
矢野が僕を振り向いて言った。
僕は今日が始まってから、初めて矢野に向かって笑みを返した。
「さすがにちょっと疲れた。お腹も空いたし」
「じゃあ、飯でも食いに行くか?」
「金貰ったんだろ? 仕事も手伝ったんだし、奢れよ」
「バカ。請求書渡しただけで、まだなの。さっきの仕事の報酬は。財布に札があるかどうか」
「ちぇっ。しょうがないなあ。じゃあ、ウチで何か作るか」
「悪いね。何から何まで」
矢野がニヤリと笑う。
まったくどうかしてるよ。僕ったら。
昨晩逢ったときは可愛く見えたんだよなあ、そこらへんの女の子より綺麗だし。変声期前の少年みたいな声しちゃってさ。
「ホラ、何ぶつぶつ言ってんだよ。早く行こうぜ。腹減った」
「はいはい、分かってますよ。胡桃ちゃん」
「名前で呼ぶなって言ったろ! 胡桃なんて名前、女みたいで嫌なんだよ」
矢野は頬を膨らまし、むくれた。
僕はそんな矢野を何故だか可愛いと思った。
◆再開――因果転生
それは奇妙に歪んだオブジェだった。
生への苦しみを表現した前衛芸術のように。大地から生えた二本の樹木が真っ赤な樹液を垂れ流し絡み合っているようにも見える。
閑静な住宅街。異常な冷気と腐臭。
「だから言ったろう。暗がりには気をつけろって」
白昼にも係わらず、闇が周囲を取り巻く。
辺りには臭気を放つ趣味の悪い芸術作品が無造作に投げ出されている。その一つに向かって真っ白な羽織袴を身に着けた者が呟いた。
長い黒髪は肩まで伸び、それを無造作に結い紐で一つに纏めている。
まるで変声期前の少年のような甲高い声、薄く赤い唇。それが端正な顔立ちと相まって、ぞくりとするような色香を放っている。
「少し待ってな。片付けてくるから」
あちこちに潰れたり、裏返しにされたり、投げ出されているソレらを避けながら、アスファルトに塗りつけられた錆びた鉄の臭いのする赤い絨毯のあとを追った。
濃い闇の奥に進むにしたがって疎らであった肉塊の数が目に見えて増えてくる。
肌に刺さる程の冷気のおかげで、大量に投棄された死体の臭気も気にするほどではない。いや、それも尋常ならざる者ゆえの感覚なのかも知れないが。
頭上にある太陽が闇のフィルターを通すと、まるで月のように、足元に広がる血溜まりに反射し、てらてらと輝いている。
一層闇が深まる個所。
そこにはどす黒く淀んだ呪怨が渦巻いていた。
3
「最近、なんか怠いんだよなあ」
「運動不足なんじゃないか。お前ってば食っちゃ寝ばっかで全然体動かさないじゃんか」
「まあ、そうなんだけどさ」
「お前、若いのに下っ腹ヤバいぜ? ちょっと脱いでみろよ」
「やめろって!」
日曜の午後。アパートのキッチンで作った簡単なブランチを食べ終わり、何とはなしにテレビを眺めていた時のこと。
絡んでくる矢野を力一杯押しのけながら、僕は振った話題が悪かったと後悔し始めていた。
一見、華奢に見える矢野は意外にも力強く、それは前回も体験済みなわけで。
結局、僕は組み伏せられて、またオトコノコを奪われてしまった……。
・
「もしかしたらアレだな、太一の体質が変化したのかも知れないなあ」
テーブルを押しのけた部屋の真ん中で裸大の字になりながら矢野が言った。
僕はと言えば早々にパンツを履き、矢野に脱がし捨てられた衣服を掻き集めていた。
「確かにね。最初のときから、ずっとお尻にウンチが詰まってる感じが止まんないし……」
「いや、それじゃなくて(笑)それはアレだ、ほら、そのうち慣れるから」
「慣れたくないって!」
お母さん、僕、イケナイ子になってしまいそうです……。
「えー、話を戻しますが、ごほん。いや、あのですね、この間少女の鬼を祓ったじゃないですか? あの時、太一くんの体を一時お借りして鬼を封じたのだけど、その時の鬼の邪気が太一くんの体に残ってるんじゃないかなあって」
「……それで?」
「ああ、うん。だから邪気が残ってると体が重く感じたりするんじゃないかと」
「なにい!?」
僕が睨むと矢野は申し訳なさそうに首をすぼめた。さっきまで元気だったアソコはすっかり縮んでしまっている。
「後遺症とか無いからって、前に言ってなかったっけ!?」
「いや、うん、そんなこと言ったかなあ。ははは」
「ははは、じゃないっ! 何とかしろよ!」
「まあ、鬼の本体は祓ったことだし、残った邪気もそのうち消えるから」
「ホントかよ?」
「ホントホント。でも、しばらくは外出をひかえた方がいい」
「何で?」
「邪気ってのは善からぬモノを引き付けるからな。念の為だ」
そういうと矢野は立ち上がって呪を唱えながら、紙に筆で何かを書きつけて部屋の四隅に張り付けた。
「結界を張った。ここにいりゃあ、取りあえず大丈夫」
「……ってか、じゃあ今晩の夕飯とかどうするんだよ」
「冷蔵庫になんかあるだろ?」
「無いから訊いてんだって」
「わかった、わかった。俺が何か買って来るって」
矢野はしょうがないって顔をして、ようやく脱いだ服を拾って着た。
「丁度、こないだの謝礼が入ったばっかだし、今夜はスキヤキにでもするか、なあ?」
玄関で靴を履き、買い出しに出て行こうとする矢野の背に向かって僕は声を掛けた。
「肉、ケチるなよ!」
背中越しで顔は見えなかったけど、矢野が苦笑いしているのが想像できる。
僕はテーブルを元の位置に直しながら、今夜の食卓が先ほどの肉体労働に見合うだけのものになるものかとほんのちょっぴり期待をした。
◆覚醒――静
――夜闇に力を増すのか物怪だ。日中は大人しくしていて、日が暮れてくると活動し始める。
あまりにも強い力を持つ物怪は昼日中でも周囲に濃い闇を纏う事がある。
普通の人間が見たら、何かの影位にしか思わないだろう。
それを真昼の夜と呼んでいる。
日中の明るい場所で、不思議と濃い闇がわだかまっているのを見たら、そこには近付かない方がいい――。
俺がまだ駆け出しの頃に聞いた師匠の言葉だ。
今、俺はまったくのその言葉通りの存在を目の当たりにしていた。
いや、存在の欠片と言うべきか。
日中の陽の高い時間帯。
アスファルトの其処此処に影だけが落ちていた。
まるでそこに“何か”があったみたいに。
4
「汚れかなんかじゃないの? もしくは道路工事した後の跡とか」
「いや、そういうはっきりしたものじゃないな。何かの影だと思う。大きさや形状からすると人間……それも影の伸びる方向や長さを考えると、同じ時間帯に一斉に消えたんじゃないかと思う」
「影を残して人の体だけが?」
「ああ」
矢野がスキヤキの肉を頬張りながら話しているのは、買い物に街中まで出て行った時のことだ。でも目線は常にテーブルの上のスキヤキ鍋。
僕も卵を割って器の中に落とし、箸で掻き混ぜながら生返事。やっぱり視線はスキヤキ鍋の中にある肉だった。
期待していた以上の特上肉。しかし、常時飢えている食べ盛りの野郎が二人いれば減りは早い。
相変わらず僕と矢野の奇妙な共生関係は続いていた。
陰陽師だという矢野との最初の事件から、彼のそれらしい姿は見ていない。
ただ、たまにふらりと出かけて行っては幾らかの金を手にしてくる。
家主の僕に隠れて、また除霊とかしてるんだろうと詰めてみたこともあるけど、その度にはぐらかされた。
最初の事件の後で「あんときは一瞬ヤバかった」などと漏らしていたことがあったから、もしかしたら僕を同伴させるのに懲りたのかも知れない
「それで、どうすんのさ。その、影だっけ?」
あらかた鍋の具を平らげて、残った汁でうどんでも煮ようかといったところで、僕は中途半端に中断していたさっきの話題に戻した。
「別段、どうもしない」
自分の器に三個目の卵を割り、鍋に僅かに残ったネギやしらたきを執念深く箸でつつきながら、矢野はそうそっけなく答えた。
「どうもしないって、お前、陰陽師だろ」
「俺は金にならないことはしない主義なの」
と、僕のセリフに視線だけを上げて言った矢野の言葉は実に真実味を帯びていたので、なんて薄情で現金な野郎だと僕はあからさまに大きな溜め息を吐きかけてやった。
「あのなあ、こうやって美味い飯食えてるの、誰のおかげだと思ってんだ。俺だって困ってる人を助けるのにやぶさかではないから、依頼人からはプロとしての最低限の報酬だけ貰ってやってんのよ?」
「どうだか」
「ホントだって。それに分てものがある。手に負えないようなものに自ら首を突っ込むこともないだろ」
「手に負えないようなものなの?」
「……ああ。ありゃあ、そうとう厄介なモノだ。身体だけを喰って影を残すなんて、現を攫って代わりに幻を置いてくようなもんだからな」
「…………」
「なんだかよく分からんて顔してるな」
「正解」
「前に『二口』って妖怪見たろ」
「うん」
「妖怪ってのは年月を経たモノが強い力を持つし、それにしてもそれはもっぱら夜であって、昼間は大人しいものなんだよ。妖怪と夜は密接な関係にあるからな。だけど、鬼は違う。あれは確実に鬼の仕業だ。それもかなり高位の」
鍋に入れたうどん玉を箸で掻き混ぜながら、矢野は少し怒ったような顔をした。それが考え事をしているときの癖だってのに気付いたのは最近のことだ。
僕自身、鬼に成りかけた少女を見たことはあるけど、鬼そのものを見たことはない。だからかも知れないけど、矢野がそれほどに恐れる鬼の存在を見てみたいという願望がある。もちろん自分の身に危険が及ばないような状況下でだけど。
ま、そんなに都合の良い条件が揃うはずもないか。
矢野は締めのうどんを食べきると、ちょっと出かけてくると行って腰を上げた。
「また? 今度は何処へ行くんだよ」
「ちょっと、な。二時間くらいで帰ってくるつもりだけど、もし零時を過ぎて戻らないようだったら、先に寝てていいから」
「言われなくてもそうするつもりだけど?」
矢野は苦笑して、それから真顔でこう言った。
「零時を過ぎたら、たとえ俺が扉の外で開けろと言っても開けるなよ。俺以外でも、お前の家族や知り合いでもだ」
「……それって」
矢野は僕の問いかけを最後まで聞かずにただ首を横に振り、部屋から出て行った。
鈍い僕にもいい加減解る。矢野が恐れているのは鬼じゃなくて、僕の身に何かが起こることだ。
僕は付けっ放しのテレビの音など耳に入らずに、しばらく呆然と矢野が出て行った玄関のドアを見つめていた。
――PM20:22、K市アパート前。
街は異様なほどの静けさで宵の闇をしんしんと積もらせていた。
幾ら平日の郊外とはいえ、夜が更けるというには早い。会社帰りのスーツ姿や、夜遊びの若者、往来を走る車の一台もあって然るべきだが、何故か街は静まりかえっていた。
アパートの階段を降りきり、繁華街へと足を向けて数歩。矢野は出てきたばかりのアパートの部屋を振り返り見上げた。
――この、しこりの様な違和感は何だ?
矢野は自らの足元を見た。
数メートル離れた電灯の灯に照らされて、薄ぼんやりとした影が在る。
影は盗まれていない。
いや、昼間の例でいえば、獲られるのは本体(身体)の方か。だが、何かがおかしいのは確かだった。
矢野はアパートに戻りかけて、はたと気付く。
周囲から音が消えていた。歩けば当たり前の靴音さえも聞こえない。
音が“喰われ”ていた。
矢野は試しに自分の手を叩いてみた。
パン、と乾いた音が掌から鳴った。しかし、足元のアスファルトからは踏み込んだ固い感触はあれど、音はしない。
自分に異常は見られない。ならば、“喰われ”たのはこの辺一帯の音か。
矢野は苦汁を舐めたような表情を浮かべた。
(買い物から帰ってきた時は異常無かった。俺自身に及んでいないということは、音が“喰われ”たのはその後……)
部屋に張った結界のお蔭かも知れない。だとすれば、偶々だが運が良かった。
ここまで来れば狙いは明らか。
――鬼の仕業に違いない。
太一の中の鬼が事もなく消えたということに違和感を抱いてはいたが、ここに至って確証を得たと言ってもいい。
少女から太一に移した鬼は、完全では無かった……ということだろう。
鬼の半身、もしくは一部。
であれば、あの少女の家系は鬼の縁者。少女はその苗床か。
十分に育ってから奪いに来る算段だったのだろう。
(こりゃ、一刻も早く何とかしなきゃだな)
矢野は再びアパートに背を向け、夜の街へと駆け消えて行った。
◆覚醒――動
時計の針は二十二時を回った。矢野はまだ帰って来ない。アパートの階段を上がってくる足音も聴こえてこない。
住民はもう寝てしまったのだろうか。
普段のこの時間なら、隣近所からまだ壁越しに聴こえてくるはず生活音も聴こえてこなかった。
「どうしよう。少し早いけど、寝ちまうか」
と、独り呟いてみたものの、眠気はない。
テレビの深夜放送は若手芸人が安っぽいセットの中でただダラダラと喋るだけの味気無い番組に変わっていた。炬燵の上のリモコンに手を伸ばす。チャンネルを変えてもどこも似たり寄ったり。諦めてテレビの電源を切り、本棚から 読み古した漫画本を手に取った。
ぱらぱらと数ページ捲り、結末を思い浮かべて本を閉じた。小さな溜め息が自然に漏れた。
それにしても、静か過ぎる気がする。
年がら年中、卓を囲んでいる上の部屋の大学生がジャラジャラと鳴らす麻雀牌の音もない。
酔っては男を連れ込み嬌声を上げる隣の部屋のOLも今日に限って帰りが遅いのか、物音一つしない。
自分のアパートの部屋にいるのは確かなのに、炬燵に寝っ転がって目を閉じていると、まるで田舎の山の中にでもいるような気になってくる。
何か得体の知れない恐怖が深々と覆い被さって来るようにも感じる。
僕はぶるりと身震いをして、炬燵の中に肩まで潜り込んだ。
――PM23:51、K市アパート内。
どれくらい経っただろう。炬燵の中でウトウトしていた僕は、何かの音で飛び起きた。
いや、音というか衝撃。部屋全体が震えるような…。
──ガッ、
まただ。
気のせいかとも思ったけど、今度は間違いない。
天井から下がる照明の紐が縦に跳ね、それから慌てて逃げ出そうとするかのように左右に激しく揺れた。
次のはもっと大きく、ガリッとかベリッとかミシッとか色んな音と共に天井が裂けた。破壊音を伴った激しい衝撃に夢うつつ気分でいた僕も流石に炬燵の中から飛び出した。天井からパラパラとモルタルの破片が堕ちる。ドガンという衝撃に今度は一抱えもある天井──或いは上階の床板が塊となって堕ちて来て、一昨年の暮れに近所のゴミ捨て場から拾ってきた年代物の小さな炬燵は呆気なくぺしゃんこになった。うかうかしてたら僕も炬燵と同じ運命を辿っていただろう。
天井にあった唯一の照明が炬燵と一緒に押しつぶされて部屋が一瞬で暗くなり、大小の乾いたモルタルがパラパラと噴煙となって部屋に降り注いだ。
天井に空いた穴を見上げる。巨大な何かがその穴を覆っている。
“それ”が天井の穴から腕を伸ばした。何かを掴んでいる。白く舞う粉塵に目を凝らして見ると、巨大な手が掴んでいたのは男の生首だった。多分、いや確実に、上の部屋に住む大学生。
じりじりと肉の焦げる臭いが“それ”の腕から漂ってくる。部屋中に充満する錆び付いた鉄の様な濃い血と肉が焦げる臭い。呆けた様な表情の生首から滴る血。その虚ろな目と視線が合った──僕は、堪らず吐いた。
――PM22:19、K市アパート近郊。
「やっぱりあったか」
雑に掘り起し埋め立てられた跡には切り取られた犬の首があった。いや、切り取られたというよりかは“捻じ切られた”と言った方がいいか。
これで三つ目。
初めの一つを発見したときは御同業が行った蠱毒の業かとも思ったが、それにしては念が籠っていない。ふざけているのか、この三つ目に使われた犬などチワワだ。犬の種類には詳しくなかったが、これほど人に依存して生きている犬もいないだろうと思う。人によって愛玩具として改良されつくして出来た犬だ。呪詛の道具として使うには適さない。
何者かが陰陽の真似事をしているのだ。
「やっぱ最初の感に狂いはない、か」
矢野はめんどくせえ、と言ってぶるんと大きく身震いをした。
不意に何かの気配を感じ辺りを窺う。
前方の建物の陰に何かが蠢いている。
矢野は注意深く近づいていく。
――何だこいつは?
目の前に在るソレは巨大な塊だった。幾つもの生物を融かして造った不器用な粘土細工。喰われている。身体を心を。魂だけを一つの器に縛りつけていた。
ソレが発しているのは憎悪──憤怒。形在る生き物に対する狂おしい程の嫉妬。
小山程もあるその奇怪な芋虫は、矢野を認めてムクリと鎌首を持ち上げた。
見れば見るほど、それは出来損ないの玩具だった。もしそれを造った神がいるなら、美的感覚は無きに等しい。醜悪でグロテスクな生き物は、その巨体にしては小さな多肢を動かして矢野へと這い進んでくる。
芋虫の脚一本一本は人間の物であったり、犬や猫の物にも見えたりしたが、中には手に見える物もあり、別段、足にこだわってはいない様だ。
「無茶苦茶だな。センスを疑うぜ」
矢野は呟き、鎌首を上げた巨大芋虫の口から滴り落ちた悪臭を放つ唾液のような物から跳ね避けた。
矢野が跳び跳ねるを追い掛けて芋虫が巨体な似合わぬ俊敏さで追い掛ける。頭部と思われる先端部分には丸く空いた口径の縁にびっしりと鋭く長い剣の様な歯が生えていた。その口は小型車位なら丸ごと飲み込めそうにでかい。
厄介な相手だった。
幾つもの生き物をより集めて創られた、この芋虫の心臓が何処に在るのか定かではないし、ましてや心臓が一つとは限らない。霊刀で芋虫に繋ぎ合わされた生き物一つ一つの糸を断ち切るのではキリがない。
カグツチを使うか。
しかし、陰の力であるカグツチを使えば、その焔で辺り一面燃やし尽くしてしまうかも知れない。
─―ドッ。背中にブロックの塊でもぶつけられた様な衝撃を感じた。
振り返る。それまで相対していたヤツより一回り小さな芋虫が背後で鎌首を上げ身構えていた。口に肉片をくわえている。
「……痛え」
油断した。二匹いると思っていなかった。
ジャケットが見る間に赤く染まる。右肩から背に掛けて、ごっそり肉を抉られた。
「くそおぉぉぉ……! 痛えじゃねぇかよぉぉ……」
その場から飛びすさり、二匹を正面に見据える。
血が流れ過ぎた。右側面が急速に冷え込んでくる。右腕が肘から上に上がらない。左手で支える様にして腰元で何とか印を組む。
小さな方の芋虫が喰わえていた矢野の肉をぽとりと吐き捨てた。
ぞりぞり……
ぞりぞり……
重い荷物を引き摺るような響きが矢野の足裏を擽る。周囲にある建物の物陰から二匹三匹と大小の芋虫が姿を現した。それらは矢野を中心に一定の距離をあけて円を描く様に取り囲んでいく。
「……こりゃ、あかんわ」苦笑を浮かべた。「太一、悪いな」
周囲を取り囲む異形の芋虫が一斉に鎌首をもたげ襲い掛かるのとほぼ同時に矢野が印を結び終える。
──火之迦具土!
矢野の全身を青い焔が包み込む。その焔が指先から礫となって弾け跳ぶ。放たれた焔が芋虫達に襲い掛かった。着弾した焔は青から赤へ烈火となって芋虫達の体を焼いていく。
見る見る内に芋虫は消し炭となり、グズグズと異臭を放ち燻る真っ黒な灰となった。
矢野は左手を差し伸べる。指先から迸る炎が次々と這い寄る芋虫に向かっていく。
――視界内の芋虫は全て焼き付くしたかに見えた。だが、焔は止まることを知らず、一つ灰とすればまた次の獲物へと標的を変え、周囲の建物までも火の手を伸ばした。
矢野の右手から伸びる霊刀アメノオハバリはカグツチの焔を制御する為。しかしその印を結ぶ手は今にも力を失いそうになる。
身体を包む焔がチリチリと身体の中までも燃やし、脂肪が、血液が、体内全ての水分が失われていくのが分かる。視力が失われようとしている。やがて眼球は深く落ち込み黄ばんで萎み消えた。
意識の消える間際、矢野は最後の力を振り絞り右手の霊刀を振るった。辺り一帯を燃やしていた焔が霊刀の力で吹き消える。
だが、それでも七割。後に残った焔は建物を街路樹を、轟々と燃やし続けた。
──PM22:31、S市・駅前繁華街。
「……ちっ、死んだか」
左のこめかみから右のそれへと突き抜ける様な痛みが走った。いや、痛みと表現したが、正確ではない。電気的なパルスが大量のデータを瞬時に受信した為に痛みと錯覚するようなショックを感じたのだ。
座っていたスロット台から腰を上げた。
朝からレバーを叩き続けて、ドル箱が二箱。乱雑に詰め込んだから、精々が三千枚。等価交換だとしても一万ちょっと負けてる。
まあいい。どうせ暇潰しだったのだ。
だが、これからは少し忙しくなるかも知れない。
ドル箱の中のメダルを精算機の中に開けると、吐き出されたレシートを手に取り、カウンターに足を向けた。
――PM23:54、K市アパート内。
天井に空いた穴。
そこから伸びる太い腕。
今、僕の目の前、徐々にその腕の持ち主が姿を現そうとしていた。
「くそっ。な、なんなんだよっ、いったい!」
長い髪らしき物が腕に絡むように垂れ下がり、盛り上がった肩が見え、やがてソレが顔を出した。
長い髪が邪魔してはっきりとは窺えない。けど、解る。鬼だ。
鬼が僕を、長い髪の間から爛々と光る瞳が僕を、捉えた。
「………キ?」
そいつが僕に向かって何かを呟いたように思えた。
不意に玄関の扉が物凄い音を立てて内側に叩き壊され、僕はびっくりして、一瞬そっちに気が削がれる。
扉を蹴り破り、部屋に踏み込んできた新たな侵入者は僕の正面、鬼に向かって青白い閃光を振るった。
「…………!!」
肉を切り裂く音。怒った様な叫び声と同時に上方でドンッと大きな音が鳴る。
青白い閃光が飛び上がり、天井の穴へと吸い込まれた。
一体、何が起こったのだろう。僕はその場から動くことが出来ない。
暫くして青白い閃光が天井の穴から部屋の中へと舞い戻って来て、漸くそれが光る剣を携えた人間であるらしいことが分かった。
「生きてる?」
変声期前の少年のような声でその人は僕に向かって声を掛けてきた。
僕は黙って頷く。
「逃がしちゃった。でも深手を負わせた」
その言葉と同時に光る剣が消える。部屋が再び暗闇に包まれる。
目が暗さに慣れてくると、上の部屋の電気が天井の穴から漏れてくるのも手伝って、目の前にいる人間の顔がはっきりとしてくる。
「怪我とかもしてなさそうだね」
違う。
でもはっきりそうだとは否定出来ない自分もいる。
目の前で微笑んでいるのは、僕が見慣れた顔だった。
5
「……矢野?」
「そう見える?」少女は嗤った。
「あいつは――矢野は死んだよ」
「えっ」
一瞬その言葉が理解出来なかった。
さっきまであんなに元気だったあいつが……死んだ?
「何で……」
「罠に掛かった、のかなあ。いや、偶々芋虫の大群に遭遇しちゃったのかなあ。アハ……ごめん。よく分かんないんだ」
少女はそう申し訳なさそうに言って、髪を掻き上げた。
僕は壁にもたれ掛り、彼女の次の言葉を待った。
少女はよいしょと声を出してその場に腰を下ろした。
「芋虫の大群が罠かどうかは別として、ここを離れちゃったのはあいつのミス。だって、鬼の狙いがあんただっての、薄々勘付いてたんだから」
「芋虫って?」
「よく分からないんだけど、多分、鬼が創ったモノかな」
「……君は味方?」
「取りあえずね」少女は真っ直ぐに僕を見つめた。僕は何となく気圧されて足元に視線を落とした。
「さっき、あたしのこと、矢野かって訊いたでしょ?」
少女の問い掛けに僕は頷く。
「それ、概ね正しいけど、正確じゃない。あたしはあいつの記憶を受け継いだスペアボディの一つ。でも、それ以前の個体の自我を放棄していない。つまり、あなたの知ってる矢野胡桃という存在はあたしの中でリアルに肉付けされた三十五年分の記憶の一部でしかないわけ」
「……あいつ、三十五歳だったんだ」
「そこなの? 突っ込み所」
目の前の少女は可笑しそうにケラケラと笑った。
確かにこの状況で突っ込むところがおかしいかなと思ったけど、矢野と同じ顔を持った少女(なのだろうか?)が言う事の半分も理解出来ていなかったのだから、しょうがない。僕のハードのメモリは他人の人生を丸々コピー出来るほど大容量ではないのだ。こんな突拍子もない話、いきなり理解出来る方がおかしい。
「と言うわけで、あたしは因果によって定められた契約を果たしに来たってわけ」
「え? 因果? なに?」
「ん。簡単に言うと、個体のデータを引き継いだ際に起きたズレを修正する為に、引き継いだ個体がそれ以前に抱えていた事象……つまり今回の件で言えば、死んだ矢野が抱えていたあなたへの責務を矢野に代わって完済する為に来たってこと」
少女は笑顔を引っ込め少し口調を正したけど、好奇心の垣間見れる瞳の輝きだけは隠しきれていなかった。相変わらず理解するのは難しい。
そして、さっき会ったばかりの彼女の僕に対する態度は、取っ付き難くは無かったけど、非常に遣りづらいと言える。だって、彼女の言葉を真に受ければ、矢野の記憶があるって事だ。てことはつまり、僕と矢野の関係を知ってるって事だし。それに、僕としては主に犯ピーされてた訳だから……恥ずかしいにも程がある。
「なーに、ビミョーな顔してんの」
「あ、いやその……だから、僕とや矢野はさー、」
「ちょっと待った」
僕が答えようとするのを少女は片手を挙げて制した。
「ややこしいから使い分けてくんないかなあ。どっちを指して言ってるのかわかんないし」小さく頬を膨らまして言った。
「じゃあ何て言えば?」
「あいつの事、何て呼んでたの」
「え、矢野だけど」
「苗字で呼んでたんだ? じゃあ、あたしの事は下の方の名前で呼んでよ」
「胡桃さん?」
「そう。でも『さん』は余計。呼び捨てでいい」
そう一方的に言って矢野と同じ顔した少女・胡桃は僕の炬燵を押し潰した天井の残骸の上に腰を下ろした。
「あんたも突っ立ってないで座ったら?」
その言葉に何だか力が抜けて、僕は壁に背を預けたままズルズルとその場にしゃがみこんだ。何か言いかけてたんだけど、気を削がれてしまって、言おうとしてた事をすっかり忘れてしまった。
沈黙に堪えかねてか、しばらくして胡桃が口を開いた。
「因果率って知ってる?」
僕は首を横に振る。
「行動から導き出される結果のこと。逆もしかりで、この結果があるならば何かしらの原因があるって。矢野が死んだのなら、その原因があるわけだし、そんで私があいつを引き継いだわけだから、まだその因果率の中に在るって事」
「……え」
「だからさ、また来るよ。さっきの」鬼、と言って胡桃は座ったまま足許に転がる腕を蹴飛ばした。鬼の手は未だ不幸な大学生の首を掴んでいる。生首は死後硬直が終わったのか、頬の肉が弛んで一層だらしない表情を浮かべていた。
「ねえ。ところでさ、ちょっと場所変えない?」
そう言って胡桃は弾けるようにぴょんと立ち上がる。
「実はあたし、夜ご飯まだだったんだよね。一日中パチンコ屋にいたもんだからさー。コーヒーと煙草の煙で胃と胸がムカムカしてんの。なんか胃に入れないとサ」ハンバーグが食べたいと言って胡桃は瓦礫を乗り越えて玄関に向かう。僕は慌てて傍に落ちてたジャンパーを拾い、無造作にドアを開けて外へと出ていく彼女の背中を追った。
・
胡桃は僕よりも頭一つ位小さかった。
矢野が僕よりも高かったから、同じ顔した胡桃が小さいってのは並んで歩くと何だか変な気分になる。
隣を歩く少女は黒いシャツにレザーパンツ。着古した赤いスカジャンを羽織っていた。長い髪は結わかずに背中に流したままだ。香水でも付けているのか、その髪がなびく度に甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。
こうして見ると十代の少女にしか見えない。
胡桃は小柄な割にはすたすたと早足で、僕は置いてかれまいと懸命に足を動かした。
彼女のリクエストに応えるために駅を隔てて反対側にある24Hのファミリーレストランに向かった。
店内には疎らだけど何組かの客が入っていた。アパートの在る付近は人気が無かったけど、駅のこっち側はそうでもない。ここにいると、さっきまでの静けさが嘘のようだ。
胡桃は席に着くなり和風ハンバーグのセットを注文し、僕はドリンクバーを胡桃の分も入れて二つ頼んだ。
注文を受けた店員がテーブルを離れて行くのを見届けてから、僕は胡桃に向かって声を掛けた。胡桃は赤いスカジャンのポケットから煙草を取り出して火を点ける。一息吸って吐き出した煙は微かなハッカの匂いがした。
「あのー、君ってさ、女の子……だよね?」
場違いな質問かなとも思ったけど、矢野の例もあるし。今は酔っているわけじゃないけど、出会ってからずっと少女と認識してたもんだから、確めずにはいられなかった。
案の定、胡桃は笑って言った。
「おっぱい見せよっか?」
「あ、いや……」
こうして面と向かって良く見ると、ふっくらとした顔の輪郭は矢野よりも大分女らしい。胸に小さな膨らみがあるのをずっと意識してたから。
テーブルを挟んで座る目の前の少女は可笑しそうにうふふと笑い声をあげた。
「君は……あ、いや、君たちは何人もいるの?」
胡桃は「んー」と鼻を鳴らしてちょっと考えるようにしてから答えた。
「あたしが知ってるだけで百八人」
「ひゃくはち!? そんなに??」あまりの数にびっくりしてつい大声になる。
同じ喫煙席のフロアにいたカップルがこっちを向いた。傍でテーブルをセットしていた店員が非難するかのようにチラリと僕を見た。
僕は彼らの視線から避ける様に首をすくめて胡桃に向き直る。
「それって……煩悩の数とか?」
「違うよ」胡桃は笑った。「九の十二倍だよ。あたしたちは九人がワンセットで作られるんだ。あたしの自我が生まれた時には、それが十二組あったって話」
「九人セットって、なんで?」
「陰陽道の九字の顕す聖獣、神人、神の数にならってだって。あたしは王女で、あいつの復号は確か……玄武だったかなあ」
「何で君が? 他にも居るんだろ、その、矢野のストック?」
言ってから後悔した。ストックって言い方は無かった。
「何。あたしじゃ不満?」
皮肉たっぷり。当然、返す言葉は無い。
動揺を隠しきれない僕の様子を面白そうに眺めてから、胡桃は言った。
「──多分、近かったからじゃないかなあ。性格とか、距離とか?」笑う。「日本には死んだあいつやあたしを含めて九人いる。他の奴らはそれぞれ世界中の色んな場所に散ってるの。一ヶ所には必ず最初に決められた九人がセットになっているんだ。でも、その後はそれぞれの自主性に任せて行動してるから、今回はたまたまあたしが近くでプラプラしてたって事じゃないの?」
「何でそんなに居るの? 誰が君たちを?」
その質問には胡桃はちょっと困ったような顔をした。
「あたしたちもね、はっきり解ってる訳じゃないんだ。私たちの祖って言うか、大元になった人が残した言葉があって、一応あたしたちはそれに従って行動してる」
「大元の人……」
「まあ、もう死んじゃったんだけどね。その人曰く『世界は大きな因果率の中に在り、世界はカルマに因って収束する』らしいのよ。んで、あたしたちはその因果を好ましい方向に持っていく為に、偉大な陰陽師である彼のコピーとして造られた……ってわけ」
「ごめん、良く解らないや」
僕は素直に降参した。話が大き過ぎてさっぱり理解出来なかったからだ。
「だろうね。まあ、あたしたちだって祖が言うカルマや因果がどの様に繋がっているのか、まだ把握出来てないんだ。だから、矢野みたく比較的真面目にサ、こつこつ歪みを直してる奴もいれば、あたしみたいにパチンコ屋に入り浸ってる奴もいるわけよ」ゴールが見えないんじゃ、真面目にやるだけバカみたいじゃんと胡桃は煙草を吹かしながら言った。
それに答える代わりに僕はドリンクバーの苦いだけの珈琲を啜った。
程なくして頼んだ料理が運ばれて来た。
ハンバーグが目の前に置かれるやいなや、胡桃はくわえていた煙草を灰皿に揉み消し、早速料理に手を付けた。
「さっきからじろじろ見すぎじゃない? そんなにジッと見られると食べづらいんだけどなあ」
「──ごめん」
僕は窓の外へと視線を反らした。外の暗さと店の照明との明暗の差によって硝子窓がスクリーンの様に店内が反射して見える。窓の外へと視線を外すと、窓ガラスに反射して映る少し斜になった少女の顔が見あった。胡桃はハンバーグセットを食べ終えて再び煙草に火を点けていた。
「あたしはさあ、誰かを守るとか得意じゃないんだ」
煙を吐き出して胡桃は言った。僕は視線だけを少女に向ける。胡桃は自分の吐き出した煙の行く先を目で追っていた。
「あいつは結界とか封印とかっての得意だったみたいだけど、あたしはそういうの全然ダメ。多少は真似事もするけど、もっぱら壊すの専門。だから太一を守りながらやれるか自信ない。……あ、太一でいいよね」呼び方、と胡桃は僕の方を見て言った。僕は黙って頷く。胡桃は曖昧に笑ってカップの中の珈琲を飲んだ。
サイレンの音が硝子越しに聴こえてくる。
救急車、消防車、パトカー……それぞれ違うはずなのに同じ様に聴こえるのはどうしてだろう。
「騒がしいね、外」
「そりゃそうでしょ。今頃、太一のアパートの周りじゃ消防車とかパトカーとかでいっぱいじゃん? 警官も沢山いるよ、多分」
いずれ事情聴取されるだろう。ただそれまでには結構時間が掛かるかも知れない。何せ今夜は事件が多すぎて、警察もそれどころじゃないだろうから。
「そういえば、あの時……」
「ん?」
「あの、鬼が部屋の天井を破って入ってきた時さ、なんか言った気がしたんだけど」
「なんて?」
「……ん、良く聞こえなかった」
胡桃はそれを聞いて呆れたのか、「なんだ」と言って視線を落として微笑った。
・
食事を終えた後、僕たちは一旦部屋へと戻り、貴重品やら着替えやらをバッグに詰め込んで出かける準備をした。矢野の記憶を持つ少女・胡桃と話し合って“事件”があった時にはアパートに居なかったことにしようとなったからだ。
胡桃は部屋に戻ると矢野の荷物が入ったリュックを担ぎ、しばらく鬼の腕の前にしゃがみ込んで何やら考えていた。
僕が荷物をまとめ終えて声を掛けると、諦めた様にため息を吐いてから「じゃ、行こう」と腰を上げた。
「どうしたの?」
「ん。いや、あの腕。処理しといた方が後々楽かなって思うんだけどサ」
「出来ないの、処理」
「んー。だって不自然じゃない? 太一の部屋に生首だけ転がってたら」
確かに。僕はちらりと哀れな大学生の生首を見て、またちょっと気分がわるくなった。
・
胡桃の提案で、僕は彼女が寝泊まりしている部屋にお邪魔することになった。
僕と矢野が住んでいた場所から駅で数えると八つ。途中、乗り継ぎがあるから時間的には電車より車の方が早い。
終電車がとっくに終わっていたので、僕たちはタクシーに乗った。着いたのは午前三時ちょっと前。胡桃はともかく、僕の方は色々と限界に来ていた。
疲労と睡魔がひっきりなしに襲ってきて、瞼を開けているだけでもかなりの努力が必要だった。
促されるまま、僕は靴を脱ぎ捨て、ふらふらと室内へと上がった。
僕の部屋より広い。どっちかというと高級な類いのマンションだ。
「何にもないんだね」
「冷蔵庫もあるし、テレビもあるよ」
「ベッドとかは」
「収納棚に毛布があるから、それ使って」
部屋は殺風景で、家具らしいものはほとんど見当たらない。胡桃が言った冷蔵庫とテレビ。部屋にある物といったら、それ以外には小さなちゃぶ台とその上に置かれた筆記具くらいか。
胡桃はキッチンの流しの横に置いてあった灰皿を取り上げ、部屋の真ん中で所在無げにしている僕を掠めて窓へと向かった。
窓の鍵を外し、カラカラと隙間薄く開けると、その横で壁に寄りかかり煙草を喰わえた。
「君は?」
「あたしは大丈夫」
「まさか、立って寝るわけじゃないよね」
「いつもこうしてる。何かあった時に直ぐに対応出来るから。言ったでしょ? 結界とか苦手なんだ、あたし」
胡桃はそう言って苦笑った。
「何かあった時にって、じゃあパチンコやってたりしてる時に何かあったらどうするのさ?」
僕は戸棚から引っ張り出して来た毛布を体に巻き付けながら言った。ファミレスで胡桃がパチンコ屋にいたって話してたのを思い出したからだ。
毛布は綺麗に畳んで置いてあったけど、ほんのりと防虫剤にカビの臭いがした。あまり使ってないみたいだ。
胡桃は煙草に火を付けた。一息吸って、紫煙を吐き出す。僕は毛布にくるまりながら胡桃の言葉を待った。
「──鬼や異形の者たちが近くにいれば臭いで解る。けど、奴らはあたしが人混みに紛れちゃえば識別しにくくなるからね。さながら肉の壁って感じかな」
「でも、それだと周りにいる人たちが危険な目に……」
「いいでしょ、別に」胡桃は言う。
「見ず知らずの人間守れるほど強くないよ、あたし。寧ろ周り利用してでも敵を何とかすることで精一杯」
ふうっ、と煙を吹いた。吐き出された紫煙はモヤモヤと僕たちは二人の狭間をたゆたい、暫くして窓の隙間へと吸い込まれていった。
僕は閉じかけた瞼を懸命に起こして胡桃の横顔を見つめた。似ていても、やっぱりどこか違うんだ。あいつとは。
視界が狭まる。
思考が切れ切れの断片となって言葉にならない。
明日考えよう。全部、色々……明日……目が覚めたら……。
そして、僕は深い眠りに落ちた。
6
太一のアパートを襲った一連の事件現場から程近い県内の大学病院の解剖室。
検察官と数人の警官が見守る中、法医学者である二人の医師が執刀にあたっていた。
「何だこれは?」
二人の医師は顔を見合せた。
警官達は単純な好奇心で彼らのやり取りと解剖台の上にある人の物にしては大き過ぎる切断された右腕を眺めていた。
「人……では無いですね」
「単細胞生物でもなければ、体から切り離されれば壊死していくものだ。これはまだ死んでいない」
医師達は驚きと戸惑いが隠せないでいた。
その腕は今にも動き出しそうなほど生気に満ちていた。現に警官達が現場から回収してきた時点では、 この身元不明の右腕は焼けただれていたのだが、今では張り艶のある生者のそれだ。
筋肉質だが、透けるように白い右腕。
K市で起きた謎の事件は手付かずの状態だった。
廊下では警官達が事件現場と携帯で連絡を取り合っている。
建物六棟が全焼、三棟が半焼した火災の現場周辺からは住民の姿が消えている。警察は事件・事故の両面から捜査しており、事件としては犯罪者リストを国内外を問わず洗い、また政治的・宗教的な無差別テロも想定して捜査にあたっていた。
実は人間だけでなく、屋外で飼っていたペットの類いも消えていたのだが、この時点でそれに気付く者はまだいなかった。
「きゃああああーーっ!」
廊下で悲鳴が聞こえた。
殺菌室を挟んだ解剖室には外の喧騒は届かない。硝子越しに作業を見守っていた隣室の監査室では、職員が何事かと廊下へと続く扉を開けに向かった。
外廊下は血の惨劇の最中だった。
室外で待機していた警官は窓ガラスを破り侵入してきた巨大な獣によって無残にも引き裂かれていた。銃を抜く間も無かったのだろう。辺りは血の海と化していた。
監査室から様子を伺いにきた職員の眼に飛び込んできたのは、先ほどの悲鳴の主であろう看護師の儚い命が消える、丁度その断末魔が途切れた瞬間だった。
獣の口から血が滴る。犠牲者の喉笛を咬み千切り、咀嚼する。肉食獣の眼光が扉から顔を覗かせた職員の姿を捉えた。ひぃ、っと小さな悲鳴を上げた職員は腰砕けとなり、その場にへたれこんだ。鬼は左腕に掴んでいた事切れた犠牲者の体を投げ出し、新たな獲物へと牙を剥いた――。
◆
「──太一?」
返事がない。毛布にくるまって、すぅすぅと小さく規則的な寝息を立てている。
それを見て、胡桃は喰わえていた煙草を灰皿で揉み消した。
開けていた窓を閉め、鍵をかけてカーテンを引く。
窓際から離れ、部屋の隅に放って置いたリュックを開けた。中に入っているのは銀行の通帳や手帳の他に退魔で使っていた呪具などだ。全て矢野の私物。今では胡桃の物だ。
矢野の事は経験や記憶として確かに在るが、何かフィルターが一枚掛かっている様に感じる。
まだ胡桃自身の中で消化仕切れていないみたいに。
それならば今は、ここまで自分がやってきた事だけを頭に行動しようと決めた。
胡桃は幾つかの呪具の中から式に使う折紙を手に取り、ポケットから小さな欠片を取り出して折紙に包んで鶴を折った。
それを再び上着のポケットに収めてから、寝てる太一を起こさないようにそっと部屋を横切り、静かにクローゼットの扉を開いた。
着古した白い羽織袴と隅に立て掛けていた刀を取り出す。霊刀は憑代があれば威力を増すからだ。それを持ってバスルームに行き、着替える。
羽織の両袖には青い糸で二重の線が引かれ、左右の肩口にある刺繍はドーマンセーマンの六芒星。
胡桃は長い髪を後ろで一つに纏め、紺色の髪紐できつく縛った。胸の膨らみは邪魔にならぬ様、さらしに巻く。
ジャケットに袖を通し、玄関でブーツを履いた。
足袋の方が軽く、動きやすいが、激しく動くと裂けたり留め金が外れたりした。少し重いが、靴紐さえ丈夫なものを使えば履き慣らした革のブーツの方が丈夫だし、足元を気にせずにいられる。
太一の静かな寝息を背中に聞きながら玄関の扉を開けて外に出た。
扉に鍵を掛けてから、ジャケットのポケットに収めていた紙鶴を取り出す。
手のひらに乗せ、口元まで持ち上げ吹いた。
式となった紙鶴はふわふわと宙を舞って、夜の街を飛んでいく。紙鶴の中に折り包んだのは、太一のアパートで削り取ってきた鬼の爪。それを使って式に本体の鬼を追わせるのだ。鬼とはいえ、手負いならばそう遠くには逃げていないと当たりをつける。
さっきは相手が油断していたから斬れた。もし相手が万全の態勢であれば、結果はどうなるか分からない。手負いの今がチャンスだった。
胡桃は漆黒の闇夜を舞い翔ぶ白い紙鶴の後を急ぎ追い掛けた。
・
県境にある開拓中の土地。開拓地に至る緩やかな勾配と人の手によって整然と均された場所との調和の取れた奇妙な不協和音は、まるで自然が人を嘲笑うかの様にも見える。
全てが直線で形作られたこの区画の至るところに自然に対する恐怖が感じられる。人は四角い箱の中にいないと安心出来ないのかも知れない。
ただ、それすらも歪んだ直線でしかないのだが。
その建設半ばで放棄された家屋やビル群は、明けの空を背に黒々とした影を落とし、物言わぬ巨人の墓標の様に吹き荒ぶ平野に静かに立っていた。
「……ここか」
二時間近く走った。少し息が切れている。深呼吸を数回行い、息を正した。
胡桃は辺りに気を配りながら、ここに来てゆっくりと翔ぶようになった紙鶴を追った。
7
腕の傷が痛む。陰陽師に斬られた傷だ。
鬼は建設途中の商業ビルの中にいた。
この辺り一帯はニュータウンと言う名で開発が進められてきたが、入居者が集まらず、建設業者への不払いも重なって開発途中のまま十数年放置されていた。身を隠すには丁度いい。
コンクリートや廃材を積み上げて作った椅子はまるで玉座の様だ。
鬼は手にした肉を喰い千切った。それは足元に転がる人の腕。憐れな犠牲者は白衣を自らの血で染めながら苦悶の声を上げている。
鬼は腕を取り返しに行ったついでにその場に居た医師と二人の女性看護師を拐ってきた。喰ろうているのは、その医師だ。
看護師の一人は弄んでいる内に壊れ、いま一人は部屋の隅で縮こまり震えている。
男が静かになる。
憐れな犠牲者の腕をもぎ、痛みと恐怖でのたうち回る男の前でその腕を喰うのを見せつけてやるのは楽しかったが、死んでしまえば興も冷めた。鬼は黙って肉を噛み千切り咀嚼した。
硝子など嵌められて無い剥き出しの窓枠。そこに紙鶴がふわりと入ってくる。
見覚えがある。陰陽師どもが使う忌々しい式。
所詮、相容れぬなら、喰ろうてやるしかないのだ。
鬼は玉座から腰を上げた。
・
廃墟と化したビルの一つ。式と放った紙鶴が飛び込んだ建設途中のビルの一つに胡桃は駆け込んだ。
窓枠を潜った瞬間、何かが顔面を襲い仰け反り避け振り返る。人の腕。
鬼が立ち上がり足下の死体を蹴り上げる。
直ぐ様向き直った胡桃に死体が飛んできた。それを横っ飛びに転がりかわす。蹴り飛ばされた医師の体は反対側の壁に勢い良く弾け、人の形を成さないミンチとなった。
言葉を交わすつもりも余裕もない。床に手を付き立ち上がると同時に刀を鞘から引き抜いた。身構え鬼と対峙する。
鬼は胡桃を睨め付けながら、口から何かをぺっと吐き出した。人の皮。鬼が一歩踏み出す。
建設途中のビルは鉄筋やコンクリートが剥き出した吹き抜けの広いフロアだが、鬼がいればそう広くは感じない。
凡そ三メートル強。小さな胡桃は鬼の腰程。太い腕や脚で払われたり蹴られたりしただけでひとたまりもないだろう。
胡桃が素早く周囲に目を配る。部屋の隅に捕らわれの生存者が見えた。この隙に逃げてくれればいいと思う。それを声に出したり助けたりすることは出来ない。そんな余裕は胡桃にはなかった。
何も無いガランとしたコンクリートのフロア。足場は悪くない。
鬼が喉を鳴らしながら、更に一歩踏み出した。
端正な鬼の顔立ちはまるで人形の様だ。その肌は白く蝋で出来ているかの如く滑らかで、燃える様な赤く長い髪を携えていた。額から伸びる大小四本の角が王冠の様にも見える。
鬼は派手な柄の色褪せた反物を体に巻いていた。切り落とした右腕は元の場所へと納まっていたが、そこには白い肌に真っ赤な線が痛々しく浮き出ていた。
慎重に身構えながら、右手の刀を眉間の高さへと持ち構える。鬼を斬る為だけに造られた小刀・骨喰は持ち手の意思を受けて青白い光を放った。
──ビュッ、
目の前から鬼が消える。
コンクリートの床や壁をドォンと何かがぶつかる音がして、胡桃の真上から肉の塊が降ってきた。それを間一髪で転がりかわす。かわしながら骨喰を横に払うが、鬼の左足の脛を刃先が掠めただけだ。鬼は胡桃に向かいすかさず拳を降り下ろした。
避ける暇はない。
刀で受け止め、鬼の拳ごと両断するつもりで両手に構えた骨喰に気を送った。
──ビュッ、
刃が拳に当たる瞬間、またしても鬼の姿が消える。胡桃は自分の守護である王女の名を口の中で素早く唱えた。髪紐がほどけ、長い髪が青い光を放ちながらチリチリと逆立つ。刹那、胡桃の左側面に衝撃が走る。そのまま吹っ飛び、反対側の壁に叩きつけられた。
意識を根こそぎ持っていかれそうな物凄い衝撃だったが、体を覆う王女の防御結界がダメージを最小限に食い止めてくれている筈だ。それでも全身の骨がバラバラになったように痛む。最悪の展開を予感する。
「──茨木をどうした?」
胡桃は痛みに顔を歪めながら、鬼の発した言葉に首を捻った。
仁王立ちのまま見下ろし、再び鬼が口を開いた。
「陰陽師、茨木をどこへやった?」
胡桃を見つめる鬼の眼は今や怒りより哀しみに近い。
茨木……茨木童子……?
聞いたことがあった。陰陽師の口伝として伝えられる逸話。古い古い話。
まさか、こいつが……。
「お前、酒天童子か」
鬼は答える代わりに足を踏み鳴らした。建物が揺れる程の衝撃が走る。
「訊いているのはこっちだ陰陽師。答えろ。茨木をどうした?」
茨木童子……渡辺綱との一条戻り橋や歌舞伎の羅生門などの話は有名だ。しかし陰陽師に伝わる口伝では違う。
渡辺綱に切り落とされた腕は、その後、稀代の陰陽師・安倍晴明によって封印された。それを知らず取り返しに来た鬼を罠に嵌めて捕らえ、バラバラに刻んで京の都の寺々に封じたとある。
だが、これには別の説があった。
渡辺綱らは神通力を得ようと、捕らえた鬼を食ったのだと。
寒気を覚えた。もしそれが真実だとすれば……矢野の記憶にある、あの少女の家系はその血縁なり子孫かも知れない。
太一に移した鬼の気。改めて封じるつもりでいたが、それでは根本的な解決にならない様だ。想像通りだとすれば、胡桃一人の手には負えない。
長い時を掛けて二重螺旋に溶け込んだ鬼の血脈は──?
静かだった鬼の気が膨れた。眉間に深い立て皺が刻まれ、目尻と口角がつり上がる。捲れた唇の隙間からは鋭い犬歯が覗く。怒気。目の前の鬼は悲哀から憤怒の形相に変わった。
「知らぬなら、もうお前に用はない」
鬼が拳を振り上げた。肩の筋肉が盛り上がる。
(死ぬ……?)
全く、まっったく迂闊だ。あいつの死から何も学べてないじゃないか!
胡桃は唇を噛み締めた。口が切れ、血が滲む。
自らの血を味わい、冷静になろうと努める。次の者に渡す前に足掻くだけ足掻いてやる。簡単に殺されてやるものか。
暫くは王女の力が効いている。胡桃は奥歯を舌先でまさぐり口内に埋めた術式を作動した。“斬る”ことに特化した胡桃の能力は痛覚をも断ち斬る。
痛みを外せば、筋力の限界点も簡単に越えることが出来る。ブレーキの利かない力が肉体を壊してしまうまで。
鬼が拳を振り下ろした。
物凄い衝撃に壁が拳の当たった箇所を中心に粉砕され、小さなクレーターを作った。壁一面に蜘蛛の巣状のひび割れが生じる。
鬼が拳を引き抜く。拳の周りにあったコンクリートがガラガラと崩れる。が、潰れた肉塊の代わりにあったのは建物の基礎となっている鉄筋。ひしゃげているがかろうじて形を保っていた。
天井をタン、と蹴る音がして鬼が顔を向け、左手を頭上で振った。鬼の二の腕を赤い線が走り、一瞬のちパクリと開いた傷口から鮮血が滴る。
刀で切りつけ床に着地した胡桃は四つ手で這うような姿勢を取り、後ろに引いた鬼に向かって突きかかった。
──ビュッ、
刃が届く前に鬼が消える。今度は胡桃の反応も早い。僅かに青白い残像を残して鬼の後を追うように消えた。
もしこの場に二人の戦いの傍観者がいれば、空気を切り裂く音と共に赤と青の残像が入り交じるのが見えた筈だ。
いや、一人。剥き出しのコンクリートの壁に囲まれたフロアの隅に囚われの看護師がいた。だが、彼女の瞳は既に底無しの恐怖以外、何も写していなかった。
叫び声とも破砕音ともつかぬものが辺りに響き渡る。
やがて残像が形を成し、赤く燃える様な髪を振り乱した鬼の巨体が現れると、その鬼の血に濡れた左手に右腕を捕まり宙に吊られた満身創痍の胡桃の姿が見えた。
眼だけはきつく鬼を見据えていたが、荒く息を吐いている。辛うじて右手には刀・骨喰を握っていた。
鬼の白い肌には所々に戦いの前には無かった切り傷が付いている。一番深い傷は脇腹の刺し傷で、呼吸に合わせて腹筋が上下する度に二十センチ程の裂け目から腸が顔を覗かせた。
鬼が牙を剥いた。
何れ間も無く八つ裂きにされるか、喰われるか。
胡桃の運命は正に鬼の手中にあった。
「お前、混じっておるな」
抵抗無くした胡桃の喉笛を喰い千切ろうと顔を近付けた鬼が、ふと逡巡の間に瞳を覗き込み呟いた。
「いいだろう。少し時間をやる」言って放り出した。
既に全身の力を使い果たしていた胡桃は、床に強く叩きつけられ顔をしかめて唸った。
冬の盛りを過ぎた陽はあっという間に高みを昇る。
淡かった影が濃く落ちる頃、既に鬼の姿は無い。
殺風景な建設途中のビルの一間。モノトーンの時間が過ぎる。場に削ぐ和ぬ散乱した幾つかの死体に囲まれて、朱に染まった羽織袴の少女が剥き出しのコンクリートの床に踞っていた。
長い髪のせいで俯いた顔の表情は見えない。肩が震え、床に付いた彼女の両手の間に、冷たく乾いたコンクリートの床に、ぽたぽたと小さな染みの様な水溜まりが出来た。
「うわああぁぁぁ……!」
聞く者の胸を締め付ける様な少女の慟哭は、廃墟と化したビルの中を吹き抜ける強い風の音に欠き消されていった。
第一部、完