第一節「深淵」――御島 亮
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」。かのニーチェの、有名な言葉だ。
しかし、「深淵」とは、自分が「深淵」に堕ちて、初めて目の当たりにすることができるものだろう。
――いつだって、「深淵」は、愚かな人間が道を踏み違えて堕ちてくるのを、待ち望んでいるのだから。
* * *
「お~い!亮く~ん!入学式、遅れちゃうよ~?」
階下から聞こえてくる、妹(と言っても双子だ)の凛の声で、俺は荷物を準備する手を一層早める。
「悪い、ちょっと待っててくれ」
慌てて荷物を持ち、凛の待つ玄関へと向かう。
「おっそいなあ!初日から遅刻とかほんとに勘弁してほしいんですけど?」
「...悪い」
目を逸らしつつ、謝罪を口にする。
「絶対思ってないでしょ!」
すぐさま突っ込まれた。黙っていると、
「なんとか言え!」
と怒鳴られた。
「……いいからさっさと行くぞ。遅刻したくないんだろ」
そう言って、さっさと靴を履いてドアを開ける。
「……そうやって人が言ったこと使って逃げるの、ずるいと思う」
凛がジト目を向けてくる。俺は気にせず、外に出た。
俺たちがこれから入学する新宿高校は、都内でもかなりいいくらいの偏差値を誇る、レベルの高い学校だ。凛が合格できたのは、今思えばかなりの奇跡なのではないかとすら思う。
「……でね、その時思ったわけ!これってもしかして、本当は②にみせかけて③が答えなんじゃないかって!」
そして、こいつはさっきからずっと、同じことばかり言う。
受かったことがよほど嬉しかったのだろう、未だに受験の日の武勇伝を語り聞かせてくる凛に適当に相槌を打ちながら、並んで歩く。
「実際家帰ってみてさぁ、答え合わせのやつ見るじゃん?あの塾とかの先生が出してるやつ!あれで正解だったときさ、もう合格を確信したよね、うん」
「たった1問でか?」
あまりに得意げに話す凛に思わず突っ込む。
「ふっふっふ、わかってないなぁ亮くんは」
すると凛は、自慢げにこう言った。
「受験というのは、たった1問、そのたった1点が合否を分けるのです」
「あたり前のことを自分しか知らないことみたいに言うのやめろ」
あまりに気の抜けた会話に、思わず脱力してしまう。
「まあいいじゃん、なにはともあれ、こうして入学できるんだからさ!」
「……まあな」
細かいことはいいじゃん!みたいに言う凛にペースを合わせていると疲れるから、とりあえず適当に返事しておいた。
「いや〜、にしても、ついに私達も高校生かぁ〜!楽しみだねぇ!」
満面の笑みで、凛はそう言う。
「友達、できるかなぁ?」
思わず歩みを止めた。
「……亮くん?」
突然立ち止まった俺を訝しむように、凛が名を呼ぶ。
「……凛」
自分でも驚くほどの静かな声で、俺は言った。
「必要以上に、他人と関わるなよ」
凛ははじめ、きょとんとした表情を見せた。しかしすぐに表情を歪め、
「またその話?」
と言った。
「いい加減理解してくれ凛、俺のためじゃない、他でもない、お前自身を守るためなんだ」
一言一言、噛んで含めるように言って聞かせる。
「……あんなことがあって、亮くんが人を信じられない気持ちもわかるけど……」
凛は続けて、何かを言おうとした。
その言葉を遮って、俺は言う。
「言う通りにしてくれ、凛。お前ならわかるだろ?どれだけ身近な人間であっても、信じてはいけないってこと」
――たとえそれが、実の父であっても。
「……でも、だったらなおさら、おかしいよ、亮くん。それに……」
「頼むから分かってくれ。もう、お前しかいないんだよ!」
ほぼ叫ぶように言う。唐突に声を荒げた俺に驚いたように、凛はビクッと肩を震わせた。
「……頼むよ、凛。俺の世界には、もう……」
絞り出すように、俺は言う。やり場のない悲しみと憎しみが、脳内を支配していた。
「……分かったよ、分かったから」
戸惑い、恐怖、諦念……。様々な表情を浮かべた後、凛はようやく頷いた。
「……分かってくれるならいい。ありがとう」
俺がそう言うと、凛はどこか淋しそうに、「うん」と言った。
……大丈夫だ、凛。寂しくなんてない。
心のなかで、凛に語りかける。
俺が、お前を守るから。
もう二度と、大切な人を奪わせはしない。
「……ねぇ、亮くん」
「何だ?」
凛は少しの間、なにか言いたそうに、口をパクパクさせていた。
暫くの間の後、凛の口から飛び出したのは、
「――緊張、するね」
そんな、ありふれた一言だった。
「?そう、だな」
戸惑いつつ、そう答える。それを受けてか、凛はまた淋しそうに笑った。
「……凛」
「あ、亮くん、見えてきたよ」
声をかけようとすると、凛はそれを遮って、前方を指差した。見ると、「新宿高校 入学式」のご立派な看板を掲げた学舎が見えてきていた。
唇をきゅっと引き結ぶ。
「……それじゃあ、行くか」
「……うん」
そして、並んで歩いた。
最後まで、凛は淋しげな表情を浮かべたままだった。
「え~そしてですね、これから高校生として旅立つ君たちに、私が最も好きなこの言葉を贈ろうと思います。
『けれども、「ほんたうのさいはひ」とは一体何だろう。』これは宮沢賢治が世に遺した傑作、”銀河鉄道の夜”の中で主人公、ジョバンニが言った言葉でしてね、えー、皆さんも、この言葉を胸に、”本当の幸い”とは何たるかということをね、えー、よく考えながらね、えー、高校生活を送っていただきたい。あー、そしてですね……」
話が、長い。そして眠い。
言葉だけが耳を素通りしていき、内容は全く頭に入ってこない。周囲を見回すと、大半の人間は既に夢の世界へと旅立ってしまっている。何なら凛も、少し遠くでゆらゆらと舟を漕いでいる。一応確認したが、凛の周囲の人間は、すべて例外なく眠っている。あれが寝たふりならかなりのプロだろう、というレベルでバッチリ眠っている。かく言う俺自身も話を聞いてはいるが、そろそろ限界が来そうだった。みんな寝ているのだし、と、少しだけ目を閉じる。
――いや、待て。
違うだろう。
直後、意識が覚醒するなり、俺は自分の頬に思い切り平手打ちを食らわせた。
パァン、という小気味の良い音が体育館内に響き渡り、何人かの生徒は驚いて跳ね起きた。校長も一瞬ちらっとこっちを見たようだが、何も言わずに話を再開した。
――何をやっているんだ、俺は。
俺は誰よりも、よく知っているはずだ。
「ほんたうのさいはひ」ってやつが、どんなに脆く、どんなに簡単に崩れ去るものなのか。
俺はよく理解していたはずだ。
信じていたものに裏切られ、愛していたものを裏切られ、それでもなお、生きるということ。――守る、ということ。
そのために必要なのは、感情なんかじゃない。
……ただ、疑い続けることだ。
「えー以上新入生諸君への激励の言葉といたしまして、あー、私の話は終了とさせていただきます」
気づけば校長の話も終わっていて、体育館内の空気を気のない拍手が揺らした。
その音とともに、自分の胸に、しっかりと刻みつけた。
自分が今、何をすべきなのかを。
1年1組だったという凛を教室に送り届け、自分の教室である1年8組に向かう。
だいぶ離れてしまった。最早悪意すら感じるレベルでの離れ方だが、仕方ない、こればかりは抗えない。
そう考えつつ、自分の教室の前に立つ。既に周囲では多くの生徒達が談笑している。冷めた気持ちのまま、その喧騒を聞き流す。
扉には、座席表が張り出されていた。軽く見回すと、いくつか知った名前を見つけた。
「山口」に「今田龍生」、「西宮美桜」「森天音」そして「神崎江里乃」。中学生の頃の、俺の友達だ。
いずれ、こいつらとも関わることになるのだろう。
――だが、かつては仲間だった彼らも、今の俺にとっては、疑いの対象でしかない。
それ以外の、何者でもない。
凛を、守るため。
守れなかった、あの悲劇を、今度こそ防ぐために。繰り返させない、ために。
俺は、疑い続けなければならない。
それが、誰よりも信じられるはずだった人間に裏切られた、俺の出した答えだ。
胸の内に決意を秘め、教室の扉を開く。
騒がしい声たちを素通りし、自分の席に着き、荷物をまとめる。
……俺は、孤独じゃない。
俺には、守るべき、大切な人達がいる。
そのためなら、俺は、どんなことだってする。
疑え。相手が誰であろうとも。
もう二度と、大切な人を奪わせはしない。




