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Prologue  ――御島 桜

 「その日」は、私たちにとって、悪夢のような日だった。

 「幸せ」が、壊れた日。


 

 私は歌手。それも、結構売れてる歌手。名義は「Saku」。深い意味なんて無い。シンプルに、自分の名前から取った。ただそれだけ。

 歌手、っていうか、ジャンルとしてはシンガーソングライターっていうのに入るのかな。――うん、多分そう。そして自分で言うのも何だけど、この日本で私の名前を知らない人なんて数えるほどしかいないんじゃないかな、ってくらいには売れてる。

 

 というわけで、今、私は、新曲の作成中だった。曲名は決めてあった。

「Dear my family」。たまにはこんなのもいいかな、と思って。この曲では、家族に対する感謝と愛を歌うつもりだ。なんだか照れくさいけれど、普段あんまりこういうことを素直に言ってこなかったから、音楽の力に頼って言ってしまおうっていう魂胆、だったりする。……おっと、これは内緒ね。

 

 そして、その作業に集中していたから、

「新しい曲作ってるのか?」

 飛び上がるくらいびっくりした。

「わっ、びっくりした」

 声まで出しながら振り向くと、夫の潤が立っていて、作業をしている画面を覗き込んできていた。

「ええと、そうだね。そろそろ曲出さないと、最近あんまり出せてなかったなぁ〜って思って、ね」

 あはは……と、苦笑しながらそう答えて、またパソコンに目線を戻した。潤と話すためとはいえ、この集中を切らしたくはなかった。

「そうか......。」

 潤はどこか、寂しげにそう言って、目を閉じた。そして、

「……聴いてみたかった」

 微かにそう呟いて、そっと息をついた。

 ――聴いてみた「かった」?なんで過去形?

「何言ってるの、いつでも聴けるでしょ?」

 軽く笑いながら、そこでもう一度、目線を潤の方に向けた。

 そこで初めて、私は気付いた。

 



 こちらに向かって思い切りナイフを振り上げる潤の姿に。

 

 

 ――刺された?

 遅れてやってきた痛みで、私はようやく、自分が置かれた状況を理解した。

「……っ!っがぁ……っ」

 その灼けるような痛みに、喉奥から絞り出したような悲鳴が漏れる。

 身体の力も、ゆっくりと抜けていく。視界に入る世界が、段々と傾いでいく。目に入るものすべてがゆっくりと傾き始め、まるですべてが滑り落ちていくような錯覚に襲われる。

 右肩辺りに鈍い感触。目の前に映るフローリングの床を見て、倒れたんだと理解する。やがてその床も、おそらく私自身が流した血で紅く染められてゆく。

 

 ――どうして?

 どうして、潤が、私を?

 ……そうだ、夢……。

 違う。……熱い。痛い。夢じゃ……ない?


「っく、あぁっ!!」

 理解もできないまま、どんどんと意識が遠のいていく。意識が薄れていくにつれて、この背中を灼く痛みも薄れていく。

 ……なんだか、眠いな。

 引いていく痛みと、襲ってくる睡魔に身を委ね、そっと目を閉じる。

 ――その時、階段の方から、声が聞こえた。

「父さーん、母さーん、どうしたー?なんかすごい音したけど……?」

 息子の声。彼が階段を上がってくるらしい足音に、眠気は一瞬で覚めた。

 ……きちゃ、だめ。

 お願い……。早く、逃げて……。

 ――しかし、願い虚しく、息子は私達のいる二階の部屋に来てしまった。

「……え?父、さん?……かあさん?」

 見られて、しまった。……見せて、しまった。

 息子の呆然とした声が、鼓膜を揺らす。段々と狭くなってゆく視界に、潤がゆっくりと、息子の方へ向かったのが映る。

 ――奪わせちゃ、駄目だ。

 私は力を振り絞り、潤の方を向き、手を伸ばす。

 ――しかし、伸ばした手は、力なく、地面に垂れた。力尽きた訳じゃない。ただ、目の前に映ったものが、あまりにも――。

 潤は、そこへ笑みをうかべて、立っていた。どこまでも昏く、どこまでも冷酷な笑みを。

 そして、

「――――――――」

 何かを、口にした。

 ――その言葉は、とうに限界を迎えていた私の体には、届かなかった。

 そしてその刹那、銀の光が閃き、


 すべてが、消えた。

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