ナポレオンあるいは四宮累について
ナポレオン・ボナパルト(1769年―1821年)。
フランス革命後の混乱を収拾し、クーデターにより軍事独裁政権を打ち建てた軍人にして、フランス第一帝政期の皇帝。
どうして私は、ナポレオンではないのだろう。
帰宅したアパートの扉を後ろ手に閉め、大きなため息をつく。
「あー、今日も疲れました……ったくもう」
四宮 累。
25歳、女。独身。仕事は中小企業の営業事務。都内在住。
累は帰宅するや否や、早速、冷蔵庫から缶ビールとツマミを取り出した。
雑に放り投げた上着とカバンの後を追うように、シンプルなリビングに入る。
ストッキングを適当に脱ぎ散らかし、ローテーブル横のクッション付き座椅子に腰を下ろす。
金曜日の夜にだけ許されたプルタブの音が、1LDKのリビングにかしゅりと響く。
「アレクサ。お風呂沸かしてください」
声で家電に指示し、ビールを缶のまま一口。
そのままお風呂が沸くまで、軽く映画でも見ようと思ってローテーブルの上のタブレットを操作する。
明日は土曜日だ。
特に予定はなかった。累には休日に遊ぶほど仲のいい友人も、恋人もいない。
かといって、それが寂しいとか不幸だとは、累は思っていなかった。
なぜなら自分には、冷えたビールとサブスク映画という相棒がいるのだから。
「さーて……なんか面白いのありますかね」
サブスク画面にて、話題作や新作を弾き飛ばすように下へスクロールしながら、お目当ての映画を見つける。
それは、フランスの英雄ナポレオンの生涯と戦争を題材にした映画だった。
四宮累の数少ない娯楽。一つはビール。
もう一つは、ナポレオン。
小学生のころ、学校の図書館でナポレオンの学習マンガを読んでから、累はその生涯と数々の軍事的偉業の虜であった。
即ち彼女は、歴史上人物の最推しはナポレオンという、趣味を共通とした友人作りを放棄せざるを得ないタイプのオタクであった。
累はビールを飲みながら、カマンベールチーズをつまむ。
映画の冒頭は、戦争シーンではじまった。
軍服を着て横に並んだ兵士たちが、ラッパと太鼓の音に合わせて平原を行進する。
横一列に並んだ兵士たちが、1.5mほどの長さの、いわゆるマスケット銃を構えて一斉に撃つ。
白い硝煙とチラリと瞬くオレンジの銃火。そしてシーンは銃剣突撃に移る。
兵士たちは短いナイフのような銃剣を先端に取り付けたマスケットを槍のように構えて、敵兵へ突撃していく。
銃剣が敵兵の腹に突き刺さる。そのまま押し倒された敵兵は血のあぶくを噴き出し、死んでいく。
死体から抜けなくなってしまった銃剣を、兵士はその場で一発撃ち、その衝撃で引き抜いた。
「おおー……分かってますね、この監督」
スルメイカをかじりながら、累は興奮気味に笑った。
さらにビールを飲む。もう半分ほど飲んでいた。あと二、三本冷蔵庫から出すべきか、いや、流石にこれ以上は風呂上りにしようか。
映画ではクラシック調のBGMを背景に、兵士たちが次々と敵兵を殺し、また反撃を食らって死んでいった。
一度、地面でバウンドした大砲の弾が兵士たちをなぎ倒しながらバラバラにしていく。大きさ的に8ポンド野戦砲あたりだろうか。
下腹部にて昂っていく性癖と、上がっていく体温を自覚して興奮しながら、累は画面の中の世界に没入する。
そこで画面が切り替わり、ナポレオンらしき俳優が映った。
恐らく史実よりも背が高くスマートな、ビジュアル重視の俳優だった。
映画の中のナポレオンは、劣勢らしきフランス軍の兵士たちに声をかけながら励ます一方で、その横顔は勝利を確信したように不敵に微笑んでいた。
「はあ……」
ため息の理由は、映画がつまらなかったから、ではなかった。
しっとりとした累の吐息には、微量のアルコールとともに、尊み、憧れ、そして大量の自己嫌悪が含まれていた。
累は思う。
どうして自分は、ナポレオンではないのだろうか。
コルシカ島の貧しい没落貴族でしかなかったナポレオンは、しかし革命後のフランス軍ですぐに頭角を現し、24歳で将軍になり、27歳でオーストリア軍相手にフランスを守り抜いて連戦連勝、ヨーロッパを代表する英雄になった。
初めて彼の歴史をマンガで読んだ時、累は号泣した。
立っていられないぐらいの凄さにお腹の奥が震え、飛び出るぐらいの憧れに胸が痛くなった。
自分も、ナポレオンみたいになりたいと、心の底から強く思った。
そして25歳の現在。
なりたくもなかった会社員になって、やりたくもない仕事を必死でこなしている。
映画の場面が切り替わる。
アウステルリッツ三帝会戦。ロシア・オーストリア連合軍を破った大勝利の後。映画の中のナポレオンは、まるで人生にも勝利したような顔で馬上にまたがり、民衆の喝采の中で凱旋の行進をしていた。
累は右手に缶ビールをぶら下げたまま自問した。
どうして、私はどんなに頑張って仕事して帰ってきても、あんな風に笑えないのだろう。
どうして私は、自分の人生に一片たりとも誇りを抱けないのだろう。
こんなのは、不公平じゃないだろうか。
もし、もしも自分があの時代に生まれ直すことができたのなら。そうしたら、きっと……。
「はあ……」
何度も何度も、まるで喫煙癖のように繰り返してきた、無いものねだりの思考のクセを振り払うように、累は残ったビールを一気に飲んだ。
軽くなった缶の底が、妙に空しい音を立てる。
「はーあ……死にたい」
お決まりの独り言を呟いて机に突っ伏すと「お風呂が沸きました」と、一人きりのリビングに音が鳴った。
「はいはい。そうですか」
累は映画の再生を止めた。熱い湯船に浸かって、それから風呂上りにもう一本ビールを開けよう。続きはそれからだ。
そう決めて、のそりと立ち上がったその時だった。
唐突に、踏み出した足元の床が光り出した。
「え?」
たかがビール一本でここまで酔ったか? と思ったのも束の間。
四宮累はこの世界から消えた。




