ベッカライウグイス⑬ 怪談 in ベッカライ
ベッカライウグイス、夏の怪談です。
読んでくださると、嬉しいです(^^)/
「いや、なってるね」
ベッカライウグイスの、真夏の午後である。外気は、蝉の襲来によって濃密な酸素を奪われ、人々が息をさらわれそうになって通り過ぎる中、ここは平穏だった。
カウンターの隣に腰掛けた、床屋さんの安井さんへ、開口一番、みっちゃんがそう言った。
なっている、とは、ゴーヤのことであろう。
今日のみっちゃんの髪は、寸分の狂いもなく短めに整えられていた。その清廉さから、昨日、床屋さんへいったことは、傍目にも明らかだった。多分、みっちゃんは、昨日も、床屋さんに同じことを言っただろう。
「鈴なりだね」
安井さんは、みっちゃんの言葉に、嬉しそうに目尻を下げ、うんうんと頷きながらカウンターへ両肘を載せた。
床屋さんの大きな窓は、ゴーヤカーテンで覆われていた。
瑞々しい緑黄色の葉と弦は、わさわさと溢れるように重なり合いながら、二階の、安井さんが居住している部屋の窓まで、細いロープで見事に誘引されている。
そこに、千なり瓢箪さながらに、ゴーヤがぶらんぶらん、あちらにもこちらにもぶら下がっているのであった。しかも、かなりな大きさの、個性豊かなゴーヤたちである。
この近所で安井さんのゴーヤ愛を知らない人などいないに違いない。気の利いた小学生でも知っていることだった。
安井さんは、ゴーヤを褒められると、すぐにハサミを持ってきて切り落とし、誰彼なく分けてあげた。ご近所は、安井さんからゴーヤをいただいた人々でいっぱいであり、かくいう私もその一人であった。
みっちゃんは物静かで余計なことはあまり口にしない方だが、安井さんは、それに輪をかけて静かな人だった。口数が少ないだけでなく、もともとの声が小さい人なのである。残念だが、誰に対しても容赦なく小さいので、安井さんの話を拾うのにはやや骨が折れる。しかし案外そうでもないのだな、ということをこれからじわじわと認識するはめになろうとは、そのときの私はまだ知るよしもなかった。
安井さんの理容師としての腕は、確かだ。
みっちゃんの髪型を見れば分かる。
どのように散髪しているのかその手技は分からないが、毛先の収まり具合が非常に美しいのだ。まさかそんなことは不可能だろうが、毛の一本一本を細く尖らせる技術を駆使しているかのように、纏まった髪が、ピタリと首筋や耳の上や額に揃って曲線や直線を描くのだ。床屋帰りのみっちゃんのそれは、刃物を想像させるほどだ。それが、乱れることなく一センチのびると、みっちゃんはまた床屋さんを訪ねる。その繰り返しだった。
安井さんの技術を分かっていたので、みっちゃんをはじめご近所の人々は、定期的に安井さんの床屋さんへ通っていた。その顧客はかなりな数だと思う。
ところが、私は床屋さんに人が順番待ちをしていたり、あるいは閑散としてて安井さんが暇を持て余していたり、というところに行き会ったことはない。
近所の人々は、まるで誰が何曜日の、何時に行く、とスケジュールの配分を譲り合っているようにさえ思えた。
床屋さんは、小さな公園からベッカライウグイスへと続く小道の中程にあっ た。
何十年も使われていたことを想像させる、赤、青、白の看板が、入り口のドアの横で、一週間に六日間、ぐるぐると回り続けている。
その店内は、小道に面した壁のほぼ全面と言っていいほどの大きさがある、丸みを帯びた嵌め殺しの窓から、容易に覗けた。通りを歩くたびに、近所の人々は、何気なく、床屋さんの仕事風景をいつも目にしていた。
散髪のお客さんは、一脚しかないどっしりとした黒椅子に腰を下ろし、安井さんと静かな会話を楽しみながら、髪を整えて貰ったり髭をあたって貰ったりする時間を楽しんでいる。
ある雨の日。
私は、ベッカライウグイスのちょっとした買い物の帰りに、床屋さんの前を通ったことがあった。
倒された椅子に横になったお客さんが、たっぷりの泡を刷毛で乗せられ、髭をあたられるのを待っていた。安井さんは、私に背を向け、厚い皮のベルトでカミソリを研いでいた。安井さんの前には、外の通りを映し出すほどの大きな鏡があって、そこに口角を窪ませ、目を細めた安井さんが写っていた。安井さんは、ふと、その鏡に映った私に気づき、こちらへ向き直ると首をこくりと頷かせるように挨拶をしてくれた。私ももちろん、頭を下げて挨拶をした。手入れの行き届いたカミソリの刃を研ぎ終え、安井さんは手の中でくいくいっとそれを動かして刃を納めた。そして後ろからお客さんに歩み寄ると、ふたたびもったりとした泡を刷毛で掬い、円を描くように乗せると、仕事に掛かった。みっちゃんも、こうやって髭をあたられているのだろうな、と私は思いながら、その場を過ぎた。
けれど、今時期は、そんな様子を外から覗くことはできない。
床屋さんの窓は、厚い、ゴーヤカーテンに覆われているからだ。
真夏の床屋さんは、どこか秘密めいている。
そんな床屋さんの安井さんは、ベッカライウグイスの常連の一人である。週に一度ほど訪れてくれては、遅めの昼食をとる。
安井さんとみっちゃんは、仲良くカウンターに座り、真夏なのに温かいコーヒーの湯気を楽しみながら、それぞれがお気に入りのパンを食べていた。
みっちゃんの整えられた髪は、律儀に乱れることを知らなかった。
安井さんは、辛党で、いつもならば濃い味付けのお肉が使われているパンが好みだった。それも、ハード系がお好みである。
だが、今日は、珍しくクリームパンを選んで席に着いた。
「……クリームパンと……白あんパンとコーヒーをお願いね」
ショーケースの前で注文した安井さんが、不思議そうに私を見たので、少しの間返事を忘れていた自分に気がついた。
「は、はい」
ショーケースを眺めている安井さんの、腰の後ろで組んだ手が、ぱたぱたと動いていた。
「ただいま、お持ちしますね」
「お願いします。先にお会計もいいかな?」
「はい」
安井さんは手早くお会計を済ませると、
「みっちゃん」
と、これまた小さな声でみっちゃんに声を掛けた。
みっちゃんは、クリームがこぼれ落ちそうなパンを今まさに口に入れようという姿勢のまま、床屋さんを振り返った。
「おや、こんにちは」
安井さんは、慌た様子でみっちゃんに言った。
「みっちゃん、落ちる、落ちる」
みっちゃんは、手元を急いで皿の上へ戻した。
「セーフ」
安井さんは、両手で小さなジェスチャーをした。
そこで冒頭に戻り、みっちゃんは、「なってるね」とゴーヤの話をするわけである。
「お待たせいたしました」
私は、安井さんの注文のパンとコーヒーを木のトレイに乗せて運んだ。
みっちゃんは、床屋さんの選んだパンをまじまじと見ていった。
「珍しいね。だって、甘い物好きじゃないでしょ?」
安井さんは、頷きながら笑った。そしてみっちゃんではない誰にか、ささやくように答えた。
「みっちゃんが、いつも美味しそうにクリームパン食べてるじゃない?どれほど美味しいのかと思ってさ」
みっちゃんは、にっこり笑って答えた。みっちゃんの笑顔がいつもより爽やかにリニューアルされていたのは、散髪した影響が大きかった。安井さんが、満足げにみっちゃんの髪型を見ていた。
「おいしいよ。早く食べてみてよ」
急かすみっちゃんに頷きながら、安井さんはクリームパンを持ち上げて口に運んだ。一口かじると、バニラビーンズとカスタードの味で口の中は満たされるはずである。
そこで、安井さんの手が止まった。
みっちゃんと私は、固唾を呑んで安井さんを見つめた。
咀嚼が遅い。
もぐもぐ。ごっくん。首を傾げる。
「あ」
あ……?
みっちゃんと私は床屋さんの言葉の続きを待つ。
「……おいしいね」
私たちは安堵の溜息を吐いた。だが、この間は、なんだったのだろうか。
私たちの疑問を払拭するように、安井さんはぱくぱくと美味しそうにクリームパンを食べてしまった。そして、コーヒーを飲む。
みっちゃんは、一番好きなクリームの部分を、しばしほっぺの内側に係留させて味わう。私は、安堵して、ショーケースの奥に戻る。
「みっちゃん、いいかな?」
食事を終えた安井さんは、コーヒーを手に、右肘でカウンターへ寄りかかると、左手にいるみっちゃんをのぞき見た。
みっちゃんは、一瞬、びくっとしたようだったが、すぐに答えた。
「いいよ」
安井さんは、語り始めた。
「……学生時代の話なんだけど、ぼくたち、突然、思い立って旅行へ出掛けたんだ。夏休みに入ったばかりで、まだ帰省していない五人が集まってね、地図を見て、どこへ行こうかって頭を突き合わせながら決めたんだけど、みんな行ってみたい場所がバラバラだから、結局行き当たりばったりの旅にしようってなったんだ。翌日、誰かが車を借りてきて……あぁカローラだったなぁ」
気がつくと、みっちゃんが、ショーケースの中でお客さんを待つ私へ、手招きをしていた。こちらで、安井さんのお話を一緒に聞いたらどう?ということらしい。
私は、時計を見た。先ほどリスさんが近所のスーパーへ出掛け、そろそろ帰ってくる頃である。店主のリスさんは不在であったが、影の主のようなみっちゃんがそういうのなら、悪くないだろうと思い、私はショーケース横のカウンターを跳ね上げると、外へ出た。壁に並んでいる椅子の一脚を運んできて、安井さんの後ろに腰掛ける。安井さんは、私を見ると、みっちゃんと安井さんの間に私を招いた。三人で鼎談となる格好である。
「ぼくが、学生時代の話をしていたんだ」
安井さんは、私にそっと小声で教えると、みっちゃんと私にささやき掛けるように話し出した。
「夏休みに、友達と連れだって旅行に行こう、ってなってね。レンタカーを借りてきて出掛けたんだ。どこへ向かうっていう目的のない、学生たちのノリと遊びの小旅行って感じだった……。なぜか車を借りてきたのがもう夕方で、夜に出発、っていう変な旅行だった。当時はコンビニなんてなかったから、食べ物を調達するのも大変で、自宅から通っているやつから、おにぎりをもらったり、つまみだけ持ってくるやつがいたり、ビールだけ持ってくるやつがいたり、偏ってたなぁ……。レンタカーも古くって、汚しても構わなかった。ラジオしか付いてないってことは分かってたから、ぼくはラジカセを持って、テープを掛けた。ビートルズとローリングストーンズ。ここは、2対3で喧嘩になったね……」
喧嘩になるんだ……。私は思った。
安井さんの声は、だんだんにくぐもって聞こえた。けれど、その分、かすれるようなささやきは収まり、声の線が太く変わっていく。聞き取りやすい音量まで引き上げられる。
「だから、ぼくはサイモン&ガーファンクルも持っていっていたんだけれど、これはあまり人気がなかった。自然と静かになって、それからおのおの話したい話題になった。就職のこととか、将来のこととか、女の子のこととか…………当時のレンタカーにエアコンなんて付いていなかったから、窓を全開にして、真夜中に、人気のない道路をけっこうなスピードで走ってたと思う。
ぼくは、免許を持っていなかったから、持っていた誰かが交代で運転していたんだけど、……おかしなことに、どういう順番で、いつ誰が運転していたかを全く覚えていないんだ。それなりの時間、運転をし続けていたと思うんだけど。運転席が、不在な印象なんだ。誰がどんな話をしたかとか、何を食べたかとかはよく覚えてるのにね……。
まず、ぼくたちは勢いで、海へ行こうってなった。若者は、海が好きだからね。夜明けの海っていうのは、それだけで魅力的だった。海へ行くためには、峠を二つ越えなければいけなかった。小さい峠と、険しい峠と二つ。
小さい峠っていっても、越えて平地に戻るまでには3、40分くらいかかったと思う。
峠のてっぺんにあった休憩所のことはよく覚えている。休憩所って言われてたけど、駐車場の脇に、木でできたベンチとテーブルがいくつか置かれているだけだった。ものすごく暗くて、大きな樹が生い茂っている中に、水銀灯が一つだけ灯ってた。その灯りに、虫が全力でぶつかる音が絶え間なくするんだ。ジッ、ジジッ、って。音は、それだけ。電池がもったいないから、もう音楽はかけていなかった。足下には、クワガタがたくさん落ちてた。蛾も。それをとって帰ろうってなったけれど、結局帰ってきたときには虫は持っていなかったから、入れ物もないしやめたんだと思う。
虫を踏まないように気をつけながらぼくたちは、歩いた。休憩所の端には、小屋みたいなトイレがあって、芳香剤の匂いがつんとして、ぼくたちはしこたま飲んでいたから、それぞれ用を済ませた。峠のてっぺんだからか、急に風が強くなったんだけど、寒くはなかった。
それから、ぼくたちは、次の険しい峠へ向かった。
険しいけれど道路は広くて、三分の二くらい舗装されていて、車に当たる砂利も少なかった。がたがたいう砂利道から、舗装の道路に代わると、ぼくたちは歓声をあげたね。おおーって。真夜中過ぎに。
ビールがなくなって、おにぎりもなくなって、つまみもなくなってきてた。でも、朝が来てどこか町にでるまで何かを買える当てがなかった。ぼくたちは、だんだん疲れてきて、言葉少なくなっていった。
それでも、峠のてっぺんには、割と広い見晴台があって、まだ夜は明けていなかったけれど、ほんの少し明るくなってきた町が見下ろせた。不思議な気分だった。街は、大きくて、でも人の住んでる家はごま粒みたいに小さいんだ。朝と夜が一緒くたになった影の中で、灯りだけがたくさん灯って見える。町の向こうに、暗い海があるのも見えた。ぼくたち五人だけが、それを俯瞰してた。
見晴台の隣には、大きなお土産屋さんとドライブインがあって、どちらも真っ暗で閉まっていた。覗いた店の中には、何の気配もなくてぼくは気味が悪かったのを覚えている。唯一、人工的に明るかったのは、店の前に並んだ自動販売機だった。ぼくたちは小銭を出し合って、ジュースを買った。ジュースの缶が落ちる音は、どこかから、熊や狐が出てくるのを誘導するみたいで、ぼくたちは急いで缶を抱えて、車に走って戻った。昔のジュースの味は、独特だったと思う。今思い出しても、もう似たような味の物はない気がするなぁ。みっちゃんは、どう思う?」
「えっ」
突然に話を振られたみっちゃんは、びくりとなって、手に持っていたコーヒーをこぼしそうになった。どこか、怯えているようにも見えた。心なしか、いつものみっちゃんの持っている雰囲気が翳って見えた。みっちゃんののんびりとした明るさが半減すると、私も何か不安を感じざるを得ない。そして、安井さんは、淡々と続けた。
「それから先のドライブは、峠を下りるともう夜が明けて、薄明かりで周りもよく見えたし、快適だった。お腹がすいたこと以外はね。昔は、カーナビもファミレスもないから、ご飯が食べられるところが見つけられるかどうかは、町の中にでもいない限り、もうほとんど偶然でしかなかったよね。それに、そんな早朝から開いている店なんて、どこにもなかった。だけど、僕らが向かったのは海だったから、本当に偶然のたまものだったんだけど、漁港の脇に、小さな食堂があって、そこが漁師さんたちで賑わっていたんだ。
ぼくたちは、その中に、遠慮がちに入り込んで、朝から刺身定食をいただいたよ。これが、今でも忘れられないんだけれど、160円だった。漁師さんたちが鮮魚を持ち込んで、捌いて貰って、ご飯やお味噌汁をつけてもらうのだと思うんだけど、早朝に漁から帰ってきた漁師さんたちで、小さな食堂は満員だった。漁師さんたちは、みんな気のいい人たちで、豪快で、ぼくらが学生で遊びに来たと知ると、輪の中に招いてくれて、名物やら漁についてやら色々教えてくれた。日に焼けて頑丈で、笑い声が大きくて、優しい人たちだった。ぼくたちはすっかりいい気分になって、旅行に出掛けてよかったなぁって思いながら、熱いあらの味噌汁を飲んだ。本当に美味しかった。
食堂から出ると、海に朝日があたって、あちこちできらきら反射して、太陽が海の上で踊りながら砕けたのかと思ったほどだった。あれほど綺麗な海は、あれから見たことがないね……」
いつの間にか、リスさんが帰ってきて、カウンターの中でコーヒーを新しく淹れていた。
淹れ終わると、サーバーとカップを持ってこちらへやってきた。
「こんにちは、安井さん」
「おや、リスさん。ごちそうになっています。みっちゃんのおすすめで、クリームパンを」
「ありがとうございます」
リスさんは、湯気の出るコーヒーをみっちゃんと安井さんのカップへ注ぎ、私の前にもカップを置いてコーヒーを淹れてくれた。私は、
「ありがとうございます」
と頭を下げた。リスさんは、笑って足音も立てずカウンターの中へ戻っていった。私は、淹れたてのコーヒーをありがたくいただいた。
安井さんは、温かいコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ひと口ふた口飲むと、話を続けた。
「……ぼくらは、お腹がいっぱいで急に幸せな気分になって、それから靴や靴下を脱いで、浜辺を走り回った。浜辺は、ガラスや木の枝がたくさん落ちていたから、痛くなるなら足の裏だろうと思ったんだけど、ぼくが急に痛みを感じたのは、腕だった。腕に、何かが噛みついているみたいに痛くて、袖をめくってみた。そこには、大きなカブトムシが、がっちりと掴まっていたんだ。こいつは、いつからいたんだろうかと思った。足の棘を引き剥がすのは、怖かったね。噛みついてるみたいな細い足がとれそうで、僕の皮膚も破れてしまいそうで。でも、なんとか、ざくっととったね、ざくっと。
朝の海で、おもいっきり馬鹿ふざけをして、つっかけを海に流されやつがいたり、みんなでズボンの中まで砂でざりざりになって、叫びまくった。貫徹とは思えなかった。若いって、すごいよね
で、砂まみれになったぼくたちは、小さな商店でつっかけを買って、急遽銭湯を探して入って、休憩して、またご飯を食べて、……就職する前の、最後の夏だったんだ……ほんと、懐かしいな……。
でも、いくら若くってもさすがに疲れて、どこかの大きな空き地に駐車して、そこで眠ったね。夜に備えて。また峠を越えて帰らなくちゃいけなかったから。
誰か、一番最初に目が覚めた友達が、近くの店へ行って、みんなのアイスを買ってきてくれて、僕らはそれを食べて本格的に起き出した。みんな、蚊に食われてた。
夜はお腹がすくって分かってたから、それからスーパーへ行って色々買いだしをした。肉屋さんでコロッケを買ったり、弁当を手に入れたりもしたね。
誰も、来年の夏はこうして一緒に面白楽しくは過ごせないって口には出さなかったけど、心の中で思ってた。それが、日暮れとともにたまらなく寂しくさせて、ぼくたちは口数が少なくなっていった。
夕暮れまで、その町で過ごして、やがて、ぽつんぽつんと街灯が灯り始めた。
たぶん、夜8時頃には、街から離れて峠に向かっていたと思う。
ぼくたちは、何も間違っちゃいなかった。夏のいち日ふつ日を、友達と騒いで、それを学生時代の思い出の一つにして、就職するやつもいたし、家業を継ぐやつもいる。そんなことを思いながら、峠にさしかかった。
まず、険しい峠だった。お土産やもドライブインも、相変わらず真っ暗で閉まっていた。けれど、そんな様子を見たのは二度目だったから、前みたいな怖いっていうのもなくって、ぼくたちは見晴台に立って、今度は夜に沈み込む街並みを見下ろした。街は、暗い海に飲み込まれていくみたいだった。ほんの何時間か前にぼくたちが通り過ぎたのは、どの街灯の辺りだったのか、分からないまま、その街灯ごと海の底に沈んでいきそうに見えた。旅行の終わりが近づいた、感傷めいた気持ちだったと思う。でも、今朝早くに、海で馬鹿騒ぎをしていた自分たちとは、明らかに、決定的に何かが変わっていて、自分たちの変化なのに取り残された自分がいて、ぼくたちは持て余していたんだ。おかしなもので、自分自身を。
みんな、黙りこくってた。黙って、誰かが見晴台から降りて、次々とそれに続いて全員が車に戻ると、次の峠に向かった。
しんしんと更けていく夏の夜の空気は、生ぬるかった。
峠に灯りはなかったから、星ばかりが嘘みたいに綺麗で、きらきら瞬いてた。一人、天文学教室のやつがいて、ポアンカレ予想について話してたのを覚えてる。その話が、幻想みたいで、ぼくたちは頭をやられちゃったのかも知れない。
小さな峠の休憩所までやってきたときに、気がついたんだ。
家に帰る前に、もう一本、寄れる道があることに。
誰かが、その道が見えることを、指さして言った。おい、向こうにも車道があるぜって。ぼくたちは、わらわらと集まって、そいつが指さした先を覗き込んだ。
それは、砂埃の静まった、ちょうど車が一台進める程度の幅の道だった。
水銀灯やトイレや駐車場とはまるで逆側にあったから、前に通ったときは、暗くて誰も気がつかなかったんだと思う。
ただ、その夜はとても晴れていて、ちょうど月も白く、明るかった。夜目に慣れたぼくたちには、それが最後の冒険に思えたんだ。
いってみるか、って誰かが言って、むろんぼくたちは全員一致で新たな冒険に繰り出した。おれたちの、夏の旅行は、まだ終わっちゃいなかったんだ、誰かがそう言った。
その道は、峠の主道からどんどん外れていく道には違いなかった。峠道にすら灯りなんてなかったから、脇道にどこか照らされた場所があるなんて、誰も期待していなかった。
鬱蒼とした原生林の中にある、ざらざらの砂の上を、ぼくたちは走っていった。
どこかの、開発途中の工事現場にでも行き当たるんじゃないかと思ってた。それか、行き止まりになって結局もと来た道をもどることになるんだけど、それもまた笑い話になっていいな、なんて。
それで、ヘッドライトに照らされる道を進めるだけ前に進んでいった。
そしたら、あったんだ、思いもよらない家屋が。
小さな、温泉旅館だった。
昔はよくあったんだ。鄙びた場所に、この温泉に来るだけにしか意味がないような、そんな道が続いてる。ぼくたちは、前にもそういう秘境の温泉を目指して行ったことがあったから、宝を掘り当てた気持ちになって喜んだ。
誰かが、もう疲れたから、今夜はここで眠らせてもらってもいいんじゃない、と言った。全員が手放しで賛成した。ぼくたちは頭の中で、こんな夜中に素泊まりなんだから、少しは料金をまけてほしいな、と算段していた。学生なんて、そんなもんだよ。
旅館は、もちろん古い造りだった。そういうのが、売りなんだ。
外の灯りは、引き戸の上に灯ってる、丸い玄関灯一つだけで、もしかしたら、温泉には裸電球ひとつしかないような。
玄関の中には、温かい灯りが灯ってた。ぼくたちは全員、車から降りて、そろそろと玄関の戸を引いた。
こういう旅館は、鍵なんてかかっていないんだ。そのかわりに、番頭さんのような人が、帳場に必ずいる。
「ごめんください」
ぼくたちは、三和土の上に置かれた簀の子を前に、番頭さんの姿を探した。
「はい」
出てきたのは、番頭さんじゃなかった。真夜中なのに着崩れしたようすのない、きちっとした女将だった。女将は、温かな灯りの下に、なぜか似つかわしく思えないような、隙のない化粧をしてた。白い肌を作り込んだような。
でも、優しい女将さんだった。ぼくたちの話を聞くと、一部屋にみんな一緒ならお勘定も負けてくれるし、今盛りの山菜を使った朝食まで出してくれるという。ぼくらは、綺麗な女将さんと行き届いたもてなしに、気恥ずかしくなって、三和土の上で、お互い肘をぶつけ合って喜んだ。
案内されたのは、小さな部屋だったけど、ぼくたちに不満はなかった。押し入れを開けると布団はちゃんとあったし、浴衣まで準備されている。
誰かが、窓を開けて外を見ようとしたが、古くて硬くなった窓は開かなかった。けど、そんなこともどうでもいいほど、ぼくたちにはどっと疲れが押し寄せていた。それもそうだった。昼寝は少しだけしたけれど、貫徹明けだったから。
それで、誰かが、風呂に行こうと言い出した。案内してくれた女将さんから、温泉の清掃はもう終わっているから、終日、自由に入っていいですよ、と言われていた。親切に、小さなバスタオルと手ぬぐいを渡されてもいた。
ぼくたちは、それを持って、風呂に移動した。いい年をして、子どもみたいにわくわくしていた。
廊下は、長くて真っ直ぐで、僕らは、やがて曲がり角を曲がった。
そのとき、誰かが言ったんだ。
「だめだ!」
ぼくたちは、びくんとなって、思わず立ち止まった。
お互いが、お互いの顔を見た。
誰が、言ったんだ?そう顔に書いてあった。
腑に落ちない気持ちもあったが、他の泊まり客かも知れないと思った。
ぼくたちは、再び風呂を目指した。
「行くな、やめろ!」
大きな声だったと思うが、その音量は、なぜか密やかだった。
耳元で直接言われたような、生暖かい息があった。
僕らは、そそけ立った。
その途端、腹の底からこみ上げてくる声が、波のように押し寄せた。
「入るな!」
「引き返すんだ!」
「戻るな」
わあわあと、何者が言っているのか分からない。
「立ち去れ!!」
「すぐに!」
「今だ!!」
「いまだ!」
「いまだーー!!」
ぼくたちは、何かに駆り立てられるように、その場から走りだした。
部屋には、戻らない。
廊下に続く古いポスターが、つぎつぎと捲れて歪んでいく。
真っ直ぐに走るんだ!
全員転びそうになって三和土に飛び降り、車に駆け込んだ。五人、一斉に。
「鍵、鍵!!」
誰かが叫んだ。
「ある!」
誰かが震える手で、ポケットから鍵を出した。
僕らは、急発進して、車を回し、来た道を猛スピードで引き返した。
気がつくと、ぼくらの乗った車は、水銀灯の下に駐車されていた。
向こうに、もう一台、駐車している車があって、中から賑やかな音楽が漏れている。
ぼくたちは、脂汗にまみれて、エンジンがかかったままの車に、ただぐったりと座っていた。
しばらくして、誰かが言った。
「帰ろう」
正気の沙汰とは思えなかったけれど、帰るしかなかった。裸足のまま、誰かがアクセルを踏んだ。
あの、声は何だったんだろう。
誰が言った?
僕らは、互いに自分ではない、と言い張った。
あの時、僕らは、女将さんの善意を踏みにじったのだろうか。
夏休みが終わって、秋が来てからも、ぼくたちはそのことが忘れられなかった。講義中も、教授の声がふっと遠のいて、思い出すんだ。
それで、誰かが、もう一度行ってみようって言い出した。本当は、誰もがそう思っていたから、僕らは全員一致で、またレンタカーを借りてきた。今度は、もちろん、夜中に行くなんて馬鹿なことはしなかった。朝、出発し、夕方には帰ってこられるように日程をたて、そのことを家族に話しておいた。なぜだか、話さなくちゃいけないような気がして、そうしたんだ。
秋風が吹いていたけれど、峠の様子は、あの時とはなんら変わりなく見えた。午前中のうちに小さな峠のてっぺんに着いて、ぼくたちはおにぎりを食べ、お茶を飲んだ。食は進まなかったけれど、食べなければいけないと思って食べた。
ふと、誰かが言った。
「山菜料理、出してくれるっていってたよな」
そうだ、そう言っていた。お腹がいっぱいになると、ぼくたちは、罪悪感に支配されつつあった。女将さんに会ったら、「あの時は、すみませんでした」って謝ろう、とさえ思った。
そうして、駐車場から、例の道へ向かって車を移動させると、原生林の中へ進んでいった。
明るいと辺りの景色はまるで違って見えた。木々には、ツタが絡まって、なんだろう、葉っぱの生えた電線が行き渡ってるみたいだった。
そして、思いがけなく、その旅館は現われたんだ。
やっぱり、あるんじゃないか、って思った。
昼間のせいか、丸い玄関灯は消えている。
ぼくたちは、ガタガタいう玄関を引くと、全員がひとかたまりになって三和土に足を乗せた。
入った途端、ぼくたちには分かった。
誰も、いない。
いつから?
ぼくたちは、固唾を呑んだ。でも、引き返せない。確かめなくちゃいけなかった。
あちこちから漏れてきている光に、埃が漂って見えた。床を見たけれど、ほんのひと月前に、ぼくたちが走り去った形跡はない。
「靴」
そのとき、誰かが言った。
そうだ、ぼくたちは自分たちの靴を置いて、裸足で帰り着いた。
ぼくたちは、下足置き場に自分の靴を探した。だが、どの棚にも靴はない。
「あった」
誰かが、ぽつりと言った。それは、下足置き場の隣に置かれていた、ゴミ箱に、古い木材にまみれて捨てられていた。
ぼくたちは、悪寒に襲われ、ひっきりなしにがたがたと震えていた。
誰も、なにも言わなかった。
けれど、ぼくたちは、進む方向を知っていた。
ぼくたちは、靴のまま、中を歩いた。
あの時、案内された部屋へ向かう。
木の床は、ぎしぎしとおぼつかない音を立てて、そんな音を出しちゃいけないんだ、とぼくは必死に心の中で訴えた。
ぼくたちは、互いを支え合って、その部屋の襖を開けようとした。
そのとき、ぼくの手だけが、止めたんだ。襖を引くのをやめさせた。中は、見なくていい。いいんだ、とぼくは確かに言った。
それから、浴場へとぼくたちは進んだ。
今度は、誰も何も言わなかった。
なんの声も聞こえなかった。
一人も、止め立てなどしない。
ここだ。浴場の入り口で、ぼくたちは立ち止まった。
前は、たどり着かなかった場所だった。
青い暖簾が、風もないのにほんの少し揺れていた。
ぼくたちは、思い切って、入り口の戸を引いた。
脱衣所は、雑然として砂だらけだった。着替えを入れる籠が、まるで少し前に誰かが使ったかのように、何気なくそこらに散らばっていた。
そして、僕らは、浴場の戸を開けた。
中から風が吹き抜けた。
泥の匂いが立ち籠める。
…………断崖だった。
湯船の半分を、土砂が削り落とし、壁があったはずの場所から、外気が強烈に吹き込んで土砂が舞っていた。
誰も、目を瞑らなかった。
泥濘と命を失った材木にまみれ、切り取られた先は……。
ぼくたちは、ごくりと喉を鳴らし、恐怖を飲み込んだ。
転げ出るように浴場から飛び出し、痺れきった体を慄きながら動かして、車に乗った。
それから、ぼくたちは会うことはあったよ。会うと、必ずこのときの話になる。あのとき、もし、湯船に浸かっていたら……。
でも、話はするけれど、あの峠には、もう誰も行ったことも通り過ぎたこともないんだ……」
カランコロン
「こんにちは」
私は、びくりと振り向いた。
リスさんが、立ち上がってお客さんを迎える。
「いらっしゃいませ」
月に一度、土曜日に必ずやってきてくれる、年配の女性である。
リスさんは、いつもと変わらない様子で、ぱたぱたと小走りで、小さな背に大きな尻尾のような髪を揺らしながら、ショーケースへ向かう。
私は、日常の時間が戻ってきたことを感じて、胸をなで下ろし、安井さんは、席を立った。
「そろそろ、お客さんが来る時間だからね」
そして、ショーケースの前でリスさんに
「ごちそうさま。またね」
と言うと、やってきたときと同じ調子で、帰って行った。
「ありがとうございました」
年配の女性は、いつも古賀さんが陣取っている席に着き、注文したコーヒーとパンを待つ。
私は、ショーケースの奥に戻り、コーヒーを淹れる。
リスさんは、パンとコーヒーを木製のトレイに載せると、女性の元に運んでいった。
私は、平穏な時間を取り戻していく。
みっちゃんは、私が運んでいった新しいコーヒーを一口啜ると、
「今年も、床屋さんの夏が始まったね」
と、言った。私がその意味を理解できずにいると、リスさんが教えてくれた。
「安井さんね、トークの名手で、ああ見えて町内会での夜話に引っ張りだこなのよ」
ああ、そういうことなのか、と私は胸をなで下ろした。
が、みっちゃんは言った。
「……すごいのは、全部実体験だってことだよね……」
私は急に床から冷気が立ち上るのを感じ、その場に立ち尽くした……。




