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第七話 伝説の闇

 リアム・ブレイドからは、先ほどまでの殺気は嘘のように消え失せ、その顔には深い疲労と、信じられないものを見たかのような動揺が広がっていた。

「…貴様ら、一体…何者だ?」

 リアムは、震える声でそう尋ねた。

 カイルは、ゆっくりと立ち上がりながら答えた。

「真実を求める者だ。そして、あなたと同じく、ガレス・ストーンハートの遺志を継ごうとしている者だ」

 リアムは、カイルと、その隣で固唾を飲んで佇むリィナを、改めて見つめた。

 そして、長い、長い沈黙の後、彼は疲れ果てたように言った。

「…座れ」

 カイルとリィナは、互いの顔を見合わせ、言われるがままに粗末な椅子に腰を下ろした。リアム・ブレイド隠れ家の中は、ランプの油の匂いと、古い羊皮紙の匂い、そしてリアムが放つ絶望の匂いで満ちているようだった。

 リィナは、張り詰めていた緊張の糸が切れ、同時に目の前の伝説の英雄の消耗しきった姿を見て、思わず鞄から水袋を取り出した。

「あ、あの…お水、飲みますか?」

 リアムは、その差し出された水袋とリィナの顔を胡散臭そうに一瞥すると、ふっと鼻で笑った。

「…毒は入ってねえだろうな、嬢ちゃん」

「そ、そんなことしません!」

「だろうな。お前さんみたいな、お人好しの顔をした奴は、一番に死ぬタイプだ」

 リアムは憎まれ口を叩きながらも、水袋を受け取ると、その水を一気に煽った。

 そして、カイルに向き直る。

「で、そっちの仏頂面の坊主は、ガレスの最後の言葉を知っている、と。その若さで、あの石頭の執政官と頑固者の隊長をどうやって丸め込んだんだか知らねえが、大した度胸だ。気に入った」

「あなたに気に入られても、特に得るものはありません」

 カイルは、表情一つ変えずに言い返した。

「それより、早く本題を。時間は、ないはずです」

「…ちっとも可愛げのねえ奴だ。ガレスが好きそうなタイプだな、お前」

 リアムは、空になった水袋をリィナに放り投げると、やれやれと首を振り、観念したように椅子に深く腰掛け直した。

 リアムは、カイルたちを真っ直ぐに見つめた。

「…いいだろう。貴様らが、ガレスの使者だというなら、全てを話そう。この世界の、腐りきった真実を」

 リアムは立ち上がり、テーブルの上に散らばった古文書を乱暴に手で払いのけた。そして、その下に隠されていた羊皮紙の巻物を、三人の間に広げた。それは、エレジア大陸のさらに古い時代の地図だった。

「どこから話すべきか……。俺たちの罪は、竜を『討伐した』と偽った、あの日に始まった」

 彼は、遠い過去の闇を覗き込むように、目を細めて語り始めた。

 彼の瞳は、もはやカイルやリィナのいる薄暗い隠れ家ではなく、遠い過去の光と影を、そして自らが犯した罪の原風景を、鮮明に映し出していた。


 ◇


 …およそ二十年ほど前。大陸の東端、焼けた大地が広がる「嘆きの谷」に、五人の若き英雄は立っていた。

 最後の竜と、ついに対峙したのだ。

「全員、構えろ!」

 金色の髪をなびかせ、白銀の鎧を輝かせながら、ガレスが号令を発する。

 その声には、人を奮い立たせるカリスマがあった。

 彼の隣には、熊のように巨大なヴァルガスが、巨大な戦斧を肩に担ぎ、血に飢えた獣のように唸り声を上げていた。

「ようやく見つけたぞ、化物め!今日こそ、我が家族の仇を討ってくれる!」

 後方では、賢者アルドゥスが、静かに、しかし探るような目で竜を観察し、その魔力の流れを分析している。

 そして、さらにその後方の影の中には、セレーネが、その存在を消すようにして、戦場全体を冷徹に見渡していた。

 リアムは、ただ、ガレスの隣で、無言で剣を構えていた。


 最後の竜は、リアムたちが想像していたような、邪悪な怪物ではなかった。

 その体は山のように巨大で、その鱗は深淵の青色に輝いていたが、その瞳には、怒りも憎しみもなく、ただ、悠久の時を生きてきた者だけが持つ、深い、深い哀しみが宿っていた。

 ヴァルガスが先陣を切って突撃する。

 だが、竜は、その巨大な戦斧を、ただ尾の一振りで軽くいなした。

 アルドゥスの魔法も、セレーネの毒矢も、竜を包む不可視の魔力障壁に弾かれ、届かない。

 リアムとガレスが、左右から同時に切りかかった。

 その時だ。竜は、初めて、リアムたちの心に直接語りかけてきたのだ。


『…我は世界。世界は我。汝らが我を傷つけるは、自らの揺り籠を壊すに等しき行いなり』


 その声は、音ではなく、魂を直接揺さぶる響きだった。

 リアムは、その声を聞いた瞬間、剣を握る手に力が入らなくなった。

 彼らがこれまで戦ってきた相手は、世界そのものの悲しみの欠片だったのだと、悟ってしまったからだ。


 ◇


「…俺たちは、怪物を殺しているのではなかった。世界の心臓を、自ら抉り出そうとしていたんだ」

 リアムの声は、今もその時の衝撃を思い出すかのように、微かに震えていた。

 リィナは息を呑み、カイルは、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、その目に鋭い光を宿していた。


 ◇


 その夜、作戦会議のテントの中は、重い沈黙に包まれていた。

「どういうことだ…」ガレスが、苦悩に満ちた顔で頭を抱えていた。

「奴は、我々に語りかけてきた。あれが、ただの破壊を好む怪物ではないというのなら、我々のこれまでの戦いは、一体何だったのだ…」

「戯言だ!」ヴァルガスが、テーブルを拳で叩きつけて怒鳴った。

「あんなものは、奴の魔法が見せる幻術に決まっている!奴らは、俺の妻と娘を、火の中の絶叫と共に奪ったんだ!今さら、迷うことなどあるか!」

 ヴァルガスが戦斧に手をかけた、その時だった。

「待ちさない、ヴァルガス。その斧を振り下ろすのは簡単よ。でも、それで本当にあなたの気は済むのかしら?」

 セレーネの声は、熱を帯びたテントの空気を凍らせるほど冷たかった。

 彼女はヴァルガスの燃えるような瞳を真正面から見つめ、あえて彼の悲劇に寄り添うように、声を潜めて語りかけた。

「あなたの家族が死んだのは、竜が強かったからだけではないわ。なぜ、村にあれほどの魔物が易々とたどり着けたのか。なぜ、あなたの村は、英雄であるあなたの故郷でありながら、ろくな防壁も、警報システムもなかったのか。考えたことはある?」

 彼女の問いかけに、ヴァルガスの動きが止まる。

 彼の脳裏に、守るべきものがあったはずの、あまりに無防備だった故郷の姿が蘇った。

「答えを教えてあげる。王都の貴族たちが、贅沢な宴会を開き、絹の服を着飾るために、私たち辺境の防衛費は、毎年、削られ続けていたのよ。あなたの村からの救援要請は、王都の分厚い書類の山の下で、黙殺された。私たちは、英雄として祭り上げられながら、常に使い捨ての駒として、最低限の支援だけで、この地獄に送り込まれていたの」

 セレーネは、静かに、しかし刃物のような鋭さで言葉を続けた。

 その言葉は、テントにいる全員の胸に突き刺さった。

「竜は、天災のようなものかもしれない。でも、あなたの家族を、そして私の民を見殺しにしたのは、天災ではない。人よ。安穏と玉座に座り、私たちの犠牲の上にあぐらをかいている、あの王家そのものなのよ」

 その言葉は、ヴァルガスの憎悪の対象を、根底から揺さぶった。

 竜はただの獣。

 だが、王家は、守るべき民を見捨てた、意志ある裏切り者だ。

「だから、今は、この竜を生かしておくの。これは、もはやただの獣ではない。王家を、そしてこの腐った国を根底から覆すための、我々の『力』になる。目の前の獣を一頭殺して、空しい自己満足に浸るか。それとも、その力を手に入れて、あなたの家族を死に追いやったシステムそのものに、本当の鉄槌を下すか。あなたなら、どちらが愉快な復讐か、分かるでしょう?」

 セレーネの、悪魔のような囁きに、ヴァルガスは握りしめていた戦斧の柄を、ギリ、と強く握り直した。

 彼の瞳に宿る炎は、もはや純粋な憎悪ではなく、より冷たく、計算された復讐の色を帯び始めていた。

 この瞬間、英雄たちの心は、決定的に分かたれた。

 セレーネの、剥き出しの野心に満ちた提案に、ガレスとリアムは眉をひそめた。

 だが、それを待っていたかのように、これまで黙っていた賢者アルドゥスが、一同を諭すように、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で話し始めた。

「セレーネ、君の言葉はあまりに直接的すぎる。だが、その核心は的を射ている」

 アルドゥスは、テントの中央に置かれた地図の上に、指でゆっくりと円を描いた。

「この竜の力は、我々が知るどんな魔法とも次元が違う。それは、大地を巡る生命の流れ…いわば、この世界そのものの『地脈』と直結している。セレーネの言う通り、この力を殺すのは愚の骨頂。かといって、野放しにしておけば、その力を狙う第二、第三の勢力が現れ、新たな争いの火種となるだろう」

 アルドゥスは、そこで一度言葉を切り、苦悩するガレスの瞳を覗き込むように言った。

「だから、我々が『管理』するのです。これは、殺すのでも、利用するのでもない。あまりに強大で危険すぎるこの力を、世界の他の場所から一時的に『隔離』し、我々の監督下で厳重に『封印』する。そうすれば、民衆は英雄の凱旋に歓喜し、秩序は守られる。そして、この力の悪用を防ぐことができる。ガレス、君が何よりも重んじる『秩序』を守るための、唯一の方法だ」

「封印、だと…?」リアムが、その言葉の不吉な響きに、鋭く反応した。

「アルドゥス、お前は分かっているはずだ。その力が『地脈』と繋がっているというのなら、世界から無理やり切り離せば、何が起こるか。大地は力を失い、川は淀み、森は枯れるぞ!それは、再生どころか、世界をゆっくりと殺していく行為だ!」

「無論、リスクは承知している」アルドゥスは、リアムの警告をこともなげに認めた。

「だが、リアム。それは、長い年月をかけて現れる、あくまで『可能性』の話だ。今、我々の目の前にあるのは、何か? 竜の存在に怯え、憎悪に駆られた民衆が、明日にも暴徒と化しかねないという、差し迫った現実だ。未来の不確定なリスクのために、目の前の秩序の崩壊を見過ごすのが、君の言う正義かね?」

 アルドゥスの言葉は、ガレスの心を深く抉った。

 未来の世界の病と、明日の民衆の暴動。

 どちらも避けたい悲劇。

 だが、選ばなければならない。

 秩序を重んじる彼にとって、目の前の混乱という脅威は、あまりに具体的で、無視できないものだった。

(我々が厳重に封印を管理し、その影響を最小限に抑える努力をすればいい。そして、世界が真に安定し、人間がこの力と向き合う準備ができた時に、我々の手で解放すればいいのだ。それこそが、責任ある英雄の、真の務めではないのか?)

「殺すよりは…マシだ…」ガレスは、血を吐くような思いで、その言葉を絞り出した。

「俺たちが…俺が責任をもって監視し、その力を悪用させはしない。そして、いつか必ず、この手で解放する…」

 彼はそう自らを必死に納得させ、この「隔離封印計画」に、同意してしまった。

 それは、未来に起きる大災害よりも、今そこにある内乱の恐怖を選んでしまった、一人の為政者の、悲痛な決断だった。

 リアムは、最後まで抵抗した。

「ガレス!それは間違っている!その力は、弄んではいけないものだ!」

 だが、アルドゥスは、彼の善意を逆手に取った。

「リアム、お前が今ここで騒ぎ立てれば、我々は計画を変更し、民衆の望み通り、この竜を完全に討伐せざるを得なくなる。お前が本気でこの竜を生かしたいと願うなら、今は我々の計画に従うのが最善の道だ」

 そして、ガレスが、疲れ果てた顔で、リアムの肩に手を置いた。

「頼む、リアム。俺も、辛いんだ。だが、これが、今の俺たちにできる、最善の選択だと信じたい。お前が反対すれば、俺は、親友からも見捨てられたことになる…」

 リアムは、何も言えなくなった。

 竜を殺させないため、そして親友ガレスを孤立させないため、リアムは不本意ながら、その計画に加担することを選んだ。

 それが、彼らの犯した、最後の、そして最大の過ちだった。


 儀式の日、ガレスの領地の地下深くに作られた秘密施設で、リアムは決して忘れられない光景を見た。

 古代魔法の鎖に繋がれ、その魔力を奪われていく竜の、どこまでも悲しげな瞳。

 そして、その儀式を見守りながら、顔を歪めて無言の涙を流していた親友、ガレスの横顔を。


 ◇


「竜の幽閉後、世界に偽りの平和が訪れた。だが、その裏で世界はゆっくりと、しかし確実に蝕まれていった。森は枯れ、川は淀み、大地は痩せ細っていく。真実を知る者や竜との共存を望む者たちは、『正義』の名の下に秘密裏に排除されていった。『不自然に消えた村』の噂は、その犠牲者たちの声なき悲鳴だった」

 リアムは、まるで呪いの言葉を吐き出すかのように、その事実を淡々と語った。

 彼の瞳は、もはや目の前の二人ではなく、遠い過去の、血塗られた風景を見ているようだった。

 リィナは息を呑んだ。市場の老婆が囁いた『消えた村』の謎が、今、あまりにもおぞましい形で目の前に提示されたからだ。

 カイルは、黙ってリアムの言葉を聞いていたが、その固く握りしめられた拳は、静かな怒りに白く変色していた。

「ガレスも俺も、罪の意識に苛まれ続けた。そして数年前、二人は決意した。この手で犯した過ちを、この手で正すのだと。だから俺たちは、壮大な芝居を打った。公然と仲違いし、俺が英雄の座を捨てて放浪者となる。他の英雄たちの監視の目を俺一人に集中させ、その隙にガレスが城塞の中で安全に、竜を解放するための準備と、英雄たちの嘘を公の場で告発するための決定的な証拠集めを進める。それが二人の贖罪計画だった。俺は、そのガレスの準備が完全に整うのを、息を殺して待ち続けていたんだ」

 そこまで一気に語ると、リアムは震える手で顔を覆った。

 彼の肩は、抑えきれない後悔に、小さく震えていた。

 英雄としてではなく、ただ一人の友人として、親友と共に歩んだ贖罪の日々。

 その記憶が、彼の心を苛んでいるのが、カイルとリィナにも痛いほど伝わってきた。

 カイルの脳裏で、これまでの謎が一本の線として繋がっていく。

 リアムの不可解な放浪。

 ガレスの秘密の日記。

 全ては、この壮大で、あまりにも悲しい計画の一部だったのだ。

「だが、その計画は漏れた。他の英雄たちはガレスの動きを察知し、先手を打った。イリスを利用し、ガレスを暗殺したんだ…」

 その最後の言葉は、まるで力尽きたかのように、か細く消えていった。

 隠れ家を支配するのは、ランプの炎が揺らめく音と、三人の重い呼吸だけだった。

 友の死を語るリアムの顔には、もはや怒りはなく、ただ、どうすることもできなかった深い絶望と無力感が、暗い影を落としていた。

「…だが、ガレスは、最後の希望を遺してくれた」

 彼は、テーブルの上に広げられた古地図を睨みつけながら言った。

「俺たちの過ちを正すための、本当の鍵を。それは、ガレスの執務室にある、あの天球儀だ」

 リアムは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、深い絶望の中に、カイルとリィナという新たな仲間を得たことによる、かすかな光が宿っていた。

 三人の間に、言葉はなくとも、これから始まるであろう過酷な戦いを共にする、固い絆が生まれつつあった。 リアム・ブレイドからは、先ほどまでの殺気は嘘のように消え失せ、その顔には深い疲労と、信じられないものを見たかのような動揺が広がっていた。

「…貴様ら、一体…何者だ?」

 リアムは、震える声でそう尋ねた。

 カイルは、ゆっくりと立ち上がりながら答えた。

「真実を求める者だ。そして、あなたと同じく、ガレス・ストーンハートの遺志を継ごうとしている者だ」

 リアムは、カイルと、その隣で固唾を飲んで佇むリィナを、改めて見つめた。

 そして、長い、長い沈黙の後、彼は疲れ果てたように言った。

「…座れ」

 カイルとリィナは、互いの顔を見合わせ、言われるがままに粗末な椅子に腰を下ろした。リアム・ブレイド隠れ家の中は、ランプの油の匂いと、古い羊皮紙の匂い、そしてリアムが放つ絶望の匂いで満ちているようだった。

 リィナは、張り詰めていた緊張の糸が切れ、同時に目の前の伝説の英雄の消耗しきった姿を見て、思わず鞄から水袋を取り出した。

「あ、あの…お水、飲みますか?」

 リアムは、その差し出された水袋とリィナの顔を胡散臭そうに一瞥すると、ふっと鼻で笑った。

「…毒は入ってねえだろうな、嬢ちゃん」

「そ、そんなことしません!」

「だろうな。お前さんみたいな、お人好しの顔をした奴は、一番に死ぬタイプだ」

 リアムは憎まれ口を叩きながらも、水袋を受け取ると、その水を一気に煽った。

 そして、カイルに向き直る。

「で、そっちの仏頂面の坊主は、ガレスの最後の言葉を知っている、と。その若さで、あの石頭の執政官と頑固者の隊長をどうやって丸め込んだんだか知らねえが、大した度胸だ。気に入った」

「あなたに気に入られても、特に得るものはありません」

 カイルは、表情一つ変えずに言い返した。

「それより、早く本題を。時間は、ないはずです」

「…ちっとも可愛げのねえ奴だ。ガレスが好きそうなタイプだな、お前」

 リアムは、空になった水袋をリィナに放り投げると、やれやれと首を振り、観念したように椅子に深く腰掛け直した。

 リアムは、カイルたちを真っ直ぐに見つめた。

「…いいだろう。貴様らが、ガレスの使者だというなら、全てを話そう。この世界の、腐りきった真実を」

 リアムは立ち上がり、テーブルの上に散らばった古文書を乱暴に手で払いのけた。そして、その下に隠されていた羊皮紙の巻物を、三人の間に広げた。それは、エレジア大陸のさらに古い時代の地図だった。

「どこから話すべきか……。俺たちの罪は、竜を『討伐した』と偽った、あの日に始まった」

 彼は、遠い過去の闇を覗き込むように、目を細めて語り始めた。

 彼の瞳は、もはやカイルやリィナのいる薄暗い隠れ家ではなく、遠い過去の光と影を、そして自らが犯した罪の原風景を、鮮明に映し出していた。


 ◇


 …およそ二十年ほど前。大陸の東端、焼けた大地が広がる「嘆きの谷」に、五人の若き英雄は立っていた。

 最後の竜と、ついに対峙したのだ。

「全員、構えろ!」

 金色の髪をなびかせ、白銀の鎧を輝かせながら、ガレスが号令を発する。

 その声には、人を奮い立たせるカリスマがあった。

 彼の隣には、熊のように巨大なヴァルガスが、巨大な戦斧を肩に担ぎ、血に飢えた獣のように唸り声を上げていた。

「ようやく見つけたぞ、化物め!今日こそ、我が家族の仇を討ってくれる!」

 後方では、賢者アルドゥスが、静かに、しかし探るような目で竜を観察し、その魔力の流れを分析している。

 そして、さらにその後方の影の中には、セレーネが、その存在を消すようにして、戦場全体を冷徹に見渡していた。

 リアムは、ただ、ガレスの隣で、無言で剣を構えていた。


 最後の竜は、リアムたちが想像していたような、邪悪な怪物ではなかった。

 その体は山のように巨大で、その鱗は深淵の青色に輝いていたが、その瞳には、怒りも憎しみもなく、ただ、悠久の時を生きてきた者だけが持つ、深い、深い哀しみが宿っていた。

 ヴァルガスが先陣を切って突撃する。

 だが、竜は、その巨大な戦斧を、ただ尾の一振りで軽くいなした。

 アルドゥスの魔法も、セレーネの毒矢も、竜を包む不可視の魔力障壁に弾かれ、届かない。

 リアムとガレスが、左右から同時に切りかかった。

 その時だ。竜は、初めて、リアムたちの心に直接語りかけてきたのだ。


『…我は世界。世界は我。汝らが我を傷つけるは、自らの揺り籠を壊すに等しき行いなり』


 その声は、音ではなく、魂を直接揺さぶる響きだった。

 リアムは、その声を聞いた瞬間、剣を握る手に力が入らなくなった。

 彼らがこれまで戦ってきた相手は、世界そのものの悲しみの欠片だったのだと、悟ってしまったからだ。


 ◇


「…俺たちは、怪物を殺しているのではなかった。世界の心臓を、自ら抉り出そうとしていたんだ」

 リアムの声は、今もその時の衝撃を思い出すかのように、微かに震えていた。

 リィナは息を呑み、カイルは、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、その目に鋭い光を宿していた。


 ◇


 その夜、作戦会議のテントの中は、重い沈黙に包まれていた。

「どういうことだ…」ガレスが、苦悩に満ちた顔で頭を抱えていた。

「奴は、我々に語りかけてきた。あれが、ただの破壊を好む怪物ではないというのなら、我々のこれまでの戦いは、一体何だったのだ…」

「戯言だ!」ヴァルガスが、テーブルを拳で叩きつけて怒鳴った。

「あんなものは、奴の魔法が見せる幻術に決まっている!奴らは、俺の妻と娘を、火の中の絶叫と共に奪ったんだ!今さら、迷うことなどあるか!」

 ヴァルガスが戦斧に手をかけた、その時だった。

「待ちさない、ヴァルガス。その斧を振り下ろすのは簡単よ。でも、それで本当にあなたの気は済むのかしら?」

 セレーネの声は、熱を帯びたテントの空気を凍らせるほど冷たかった。

 彼女はヴァルガスの燃えるような瞳を真正面から見つめ、あえて彼の悲劇に寄り添うように、声を潜めて語りかけた。

「あなたの家族が死んだのは、竜が強かったからだけではないわ。なぜ、村にあれほどの魔物が易々とたどり着けたのか。なぜ、あなたの村は、英雄であるあなたの故郷でありながら、ろくな防壁も、警報システムもなかったのか。考えたことはある?」

 彼女の問いかけに、ヴァルガスの動きが止まる。

 彼の脳裏に、守るべきものがあったはずの、あまりに無防備だった故郷の姿が蘇った。

「答えを教えてあげる。王都の貴族たちが、贅沢な宴会を開き、絹の服を着飾るために、私たち辺境の防衛費は、毎年、削られ続けていたのよ。あなたの村からの救援要請は、王都の分厚い書類の山の下で、黙殺された。私たちは、英雄として祭り上げられながら、常に使い捨ての駒として、最低限の支援だけで、この地獄に送り込まれていたの」

 セレーネは、静かに、しかし刃物のような鋭さで言葉を続けた。

 その言葉は、テントにいる全員の胸に突き刺さった。

「竜は、天災のようなものかもしれない。でも、あなたの家族を、そして私の民を見殺しにしたのは、天災ではない。人よ。安穏と玉座に座り、私たちの犠牲の上にあぐらをかいている、あの王家そのものなのよ」

 その言葉は、ヴァルガスの憎悪の対象を、根底から揺さぶった。

 竜はただの獣。

 だが、王家は、守るべき民を見捨てた、意志ある裏切り者だ。

「だから、今は、この竜を生かしておくの。これは、もはやただの獣ではない。王家を、そしてこの腐った国を根底から覆すための、我々の『力』になる。目の前の獣を一頭殺して、空しい自己満足に浸るか。それとも、その力を手に入れて、あなたの家族を死に追いやったシステムそのものに、本当の鉄槌を下すか。あなたなら、どちらが愉快な復讐か、分かるでしょう?」

 セレーネの、悪魔のような囁きに、ヴァルガスは握りしめていた戦斧の柄を、ギリ、と強く握り直した。

 彼の瞳に宿る炎は、もはや純粋な憎悪ではなく、より冷たく、計算された復讐の色を帯び始めていた。

 この瞬間、英雄たちの心は、決定的に分かたれた。

 セレーネの、剥き出しの野心に満ちた提案に、ガレスとリアムは眉をひそめた。

 だが、それを待っていたかのように、これまで黙っていた賢者アルドゥスが、一同を諭すように、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で話し始めた。

「セレーネ、君の言葉はあまりに直接的すぎる。だが、その核心は的を射ている」

 アルドゥスは、テントの中央に置かれた地図の上に、指でゆっくりと円を描いた。

「この竜の力は、我々が知るどんな魔法とも次元が違う。それは、大地を巡る生命の流れ…いわば、この世界そのものの『地脈』と直結している。セレーネの言う通り、この力を殺すのは愚の骨頂。かといって、野放しにしておけば、その力を狙う第二、第三の勢力が現れ、新たな争いの火種となるだろう」

 アルドゥスは、そこで一度言葉を切り、苦悩するガレスの瞳を覗き込むように言った。

「だから、我々が『管理』するのです。これは、殺すのでも、利用するのでもない。あまりに強大で危険すぎるこの力を、世界の他の場所から一時的に『隔離』し、我々の監督下で厳重に『封印』する。そうすれば、民衆は英雄の凱旋に歓喜し、秩序は守られる。そして、この力の悪用を防ぐことができる。ガレス、君が何よりも重んじる『秩序』を守るための、唯一の方法だ」

「封印、だと…?」リアムが、その言葉の不吉な響きに、鋭く反応した。

「アルドゥス、お前は分かっているはずだ。その力が『地脈』と繋がっているというのなら、世界から無理やり切り離せば、何が起こるか。大地は力を失い、川は淀み、森は枯れるぞ!それは、再生どころか、世界をゆっくりと殺していく行為だ!」

「無論、リスクは承知している」アルドゥスは、リアムの警告をこともなげに認めた。

「だが、リアム。それは、長い年月をかけて現れる、あくまで『可能性』の話だ。今、我々の目の前にあるのは、何か? 竜の存在に怯え、憎悪に駆られた民衆が、明日にも暴徒と化しかねないという、差し迫った現実だ。未来の不確定なリスクのために、目の前の秩序の崩壊を見過ごすのが、君の言う正義かね?」

 アルドゥスの言葉は、ガレスの心を深く抉った。

 未来の世界の病と、明日の民衆の暴動。

 どちらも避けたい悲劇。

 だが、選ばなければならない。

 秩序を重んじる彼にとって、目の前の混乱という脅威は、あまりに具体的で、無視できないものだった。

(我々が厳重に封印を管理し、その影響を最小限に抑える努力をすればいい。そして、世界が真に安定し、人間がこの力と向き合う準備ができた時に、我々の手で解放すればいいのだ。それこそが、責任ある英雄の、真の務めではないのか?)

「殺すよりは…マシだ…」ガレスは、血を吐くような思いで、その言葉を絞り出した。

「俺たちが…俺が責任をもって監視し、その力を悪用させはしない。そして、いつか必ず、この手で解放する…」

 彼はそう自らを必死に納得させ、この「隔離封印計画」に、同意してしまった。

 それは、未来に起きる大災害よりも、今そこにある内乱の恐怖を選んでしまった、一人の為政者の、悲痛な決断だった。

 リアムは、最後まで抵抗した。

「ガレス!それは間違っている!その力は、弄んではいけないものだ!」

 だが、アルドゥスは、彼の善意を逆手に取った。

「リアム、お前が今ここで騒ぎ立てれば、我々は計画を変更し、民衆の望み通り、この竜を完全に討伐せざるを得なくなる。お前が本気でこの竜を生かしたいと願うなら、今は我々の計画に従うのが最善の道だ」

 そして、ガレスが、疲れ果てた顔で、リアムの肩に手を置いた。

「頼む、リアム。俺も、辛いんだ。だが、これが、今の俺たちにできる、最善の選択だと信じたい。お前が反対すれば、俺は、親友からも見捨てられたことになる…」

 リアムは、何も言えなくなった。

 竜を殺させないため、そして親友ガレスを孤立させないため、リアムは不本意ながら、その計画に加担することを選んだ。

 それが、彼らの犯した、最後の、そして最大の過ちだった。


 儀式の日、ガレスの領地の地下深くに作られた秘密施設で、リアムは決して忘れられない光景を見た。

 古代魔法の鎖に繋がれ、その魔力を奪われていく竜の、どこまでも悲しげな瞳。

 そして、その儀式を見守りながら、顔を歪めて無言の涙を流していた親友、ガレスの横顔を。


 ◇


「竜の幽閉後、世界に偽りの平和が訪れた。だが、その裏で世界はゆっくりと、しかし確実に蝕まれていった。森は枯れ、川は淀み、大地は痩せ細っていく。真実を知る者や竜との共存を望む者たちは、『正義』の名の下に秘密裏に排除されていった。『不自然に消えた村』の噂は、その犠牲者たちの声なき悲鳴だった」

 リアムは、まるで呪いの言葉を吐き出すかのように、その事実を淡々と語った。

 彼の瞳は、もはや目の前の二人ではなく、遠い過去の、血塗られた風景を見ているようだった。

 リィナは息を呑んだ。市場の老婆が囁いた『消えた村』の謎が、今、あまりにもおぞましい形で目の前に提示されたからだ。

 カイルは、黙ってリアムの言葉を聞いていたが、その固く握りしめられた拳は、静かな怒りに白く変色していた。

「ガレスも俺も、罪の意識に苛まれ続けた。そして数年前、二人は決意した。この手で犯した過ちを、この手で正すのだと。だから俺たちは、壮大な芝居を打った。公然と仲違いし、俺が英雄の座を捨てて放浪者となる。他の英雄たちの監視の目を俺一人に集中させ、その隙にガレスが城塞の中で安全に、竜を解放するための準備と、英雄たちの嘘を公の場で告発するための決定的な証拠集めを進める。それが二人の贖罪計画だった。俺は、そのガレスの準備が完全に整うのを、息を殺して待ち続けていたんだ」

 そこまで一気に語ると、リアムは震える手で顔を覆った。

 彼の肩は、抑えきれない後悔に、小さく震えていた。

 英雄としてではなく、ただ一人の友人として、親友と共に歩んだ贖罪の日々。

 その記憶が、彼の心を苛んでいるのが、カイルとリィナにも痛いほど伝わってきた。

 カイルの脳裏で、これまでの謎が一本の線として繋がっていく。

 リアムの不可解な放浪。

 ガレスの秘密の日記。

 全ては、この壮大で、あまりにも悲しい計画の一部だったのだ。

「だが、その計画は漏れた。他の英雄たちはガレスの動きを察知し、先手を打った。イリスを利用し、ガレスを暗殺したんだ…」

 その最後の言葉は、まるで力尽きたかのように、か細く消えていった。

 隠れ家を支配するのは、ランプの炎が揺らめく音と、三人の重い呼吸だけだった。

 友の死を語るリアムの顔には、もはや怒りはなく、ただ、どうすることもできなかった深い絶望と無力感が、暗い影を落としていた。

「…だが、ガレスは、最後の希望を遺してくれた」

 彼は、テーブルの上に広げられた古地図を睨みつけながら言った。

「俺たちの過ちを正すための、本当の鍵を。それは、ガレスの執務室にある、あの天球儀だ」

 リアムは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、深い絶望の中に、カイルとリィナという新たな仲間を得たことによる、かすかな光が宿っていた。

 三人の間に、言葉はなくとも、これから始まるであろう過酷な戦いを共にする、固い絆が生まれつつあった。

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