表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/31

第六話 地下水路の影

 王都の巨大な門が、ゆっくりと背後で閉じていく。

 カイルとリィナは、一度も振り返ることなく、東へと向かう街道を馬で駆けていた。

 彼らの心にあるのは、故郷への郷愁ではない。

 真実が待つ場所への焦燥感と、目に見えない敵への警戒心だった。


 王都からの帰路は、行きとは全く異なる緊張感に満ちていた。

 彼らが王都で嗅ぎ回っていたことは、すでに黒幕の耳にも入っているはずだ。

 いつ、どこで、次なる刺客が襲ってきてもおかしくない。

 二人は街道を避け、獣道や森の中を選んで進んだ。

 夜は満足に眠らず、交代で短い仮眠を取り、常に周囲の気配に神経を尖らせていた。


 ストーンハート領の境界を示す古い石碑が見えた時、二人は心の底から安堵のため息を漏らした。

 だが、故郷の土を踏んでも、休んでいる暇はなかった。

 領主館に戻った彼らは、執政官アルベリヒに王都での調査結果を簡潔に報告した。

 リアム・ブレイドが領内に潜伏している可能性が高いこと、そして、彼が城の地下水路に関心を持っていたこと。

 アルベリヒは顔色を変え、「分かった。町の警備は強化しておく。だが、これ以上は私の権限ではどうにもならん。くれぐれも、無茶はしてくれるなよ」と、カイルたちの単独行動を苦渋の表情で黙認した。

 その報告は、ゲルハルト隊長の耳にも入った。

「まだあの若造はリアム卿を追うつもりか!執政官も、何を考えておられるのだ…」

 彼は苦々しげに呟き、カイルたちへの不信感をさらに募らせていた。


 ◇


 町の外れ、忘れられたように存在する裏路地。

 かつて処刑場があったと噂されるその場所は、昼間でも薄暗く、不吉な空気が漂っていた。

 王都で手に入れた古文書の写しと、執政官から渡された地図を頼りに、カイルとリィナは地下水路への入口を探していた。


「古文書には、『嘆きの壁の下、三番目の水路』とあるが…」

 カイルは、苔むした石壁を睨みながら呟いた。壁には、いくつもの古い水路の排出口が並んでいるが、どれも鉄格子で固く閉ざされている。

「カイルさん、こっちの水路、少しだけ空気が動いている気がします」

 リィナが、ある一つの排出口に手をかざしながら言った。

「それに、この鉄格子の周りだけ、苔の生え方が不自然です。最近、誰かが動かしたような…」

 カイルはリィナが指し示した場所を注意深く観察した。

 確かに、鉄格子を固定している石の一部に、新しい傷跡がある。

 彼は鉄格子に手をかけ、力を込めた。びくともしない。

「何か仕掛けがあるはずだ」

 彼は周辺の壁を丹念に調べ始めた。

 そして、壁の石の一つが、わずかに他と色が違うことに気づく。

 それを押し込むと、ゴゴゴ、と低い音を立てて、鉄格子が横にスライドした。

 闇に包まれた、黴臭い穴が、二人を誘うように口を開けていた。

「行くぞ」

 カイルは魔法のランタンに火を灯し、躊躇なくその闇へと足を踏み入れた。

 リィナも、ごくりと息を呑んで、彼の後に続く。


 地下水路の中は、彼らの想像を絶する世界だった。

 絶え間なく響く不気味な水音。

 鼻をつく黴と汚泥の匂い。

 壁はぬるりとした苔で覆われ、足元は滑りやすく、一歩踏み出すごとに細心の注意が求められた。

 ランタンの光が届く範囲は限られ、その光が生み出す揺らめく影が、まるで怪物のように壁の上を蠢いていた。

 水路は、(あり)の巣のように複雑に入り組んでいた。

 地図と照らし合わせながら進むが、古い地図は不正確で、何度も行き止まりに突き当たった。

「待って」

 ある分岐点で、カイルが進もうとした時、リィナが彼の腕を掴んだ。

「こっちの通路、水の流れが速すぎる気がします。それに、この水の匂い…鉄の匂いが混じっている。下流に、何か危険な仕掛けがあるのかもしれません」

 水や土の変化に敏感な彼女の直感が、そう告げていた。

 カイルは彼女の言葉を信じ、もう一方の道を選んだ。

 しばらく進むと、彼らが避けようとした通路の先で、ガシャン!という金属音と共に、天井から巨大な刃がいくつも降りてくるのが見えた。

 古代の罠だ。

 もし彼女の言葉を無視して進んでいれば、今頃二人は肉塊になっていただろう。

「…助かった」

 カイルは、短く礼を言い、自分の手のひらを見つめた。

 自分の経験と論理だけを信じ、彼はこれまで生きてきた。

 だが、今、目の前で起きたことは、彼の信条を根底から揺るがした。

(俺の論理と、彼女の直感。まるで光と影だ。だが、二つ揃って初めて、この闇を進めるのかもしれない)

 彼はリィナの横顔を盗み見た。

 ランタンの光に照らされた彼女の表情は真剣そのものだ。

 もう、守るべき「記録係」ではない。

 共に闇を切り拓く、対等な「相棒」。

 カイルは、その事実を静かに、そして確かな重みをもって受け止めていた。


 その後も、カイルの論理的な思考と、リィナの自然と共鳴するような直感が、二人を何度も窮地から救った。

 数時間に及ぶ探索の末、彼らはついに地図が示す最終地点にたどり着いた。だが、そこにあったのは、冷たい石で行き止まりになった壁だけだった。

「そんな…、行き止まり?」

 リィナが絶望的な声を上げる。

「いや、まだだ」

 カイルは諦めていなかった。彼はランタンを高く掲げ、壁を注意深く観察した。

「この壁の石組み、一箇所だけ不自然だ。周囲の石と、積み方が違う」

 彼はその石に手をかけ、力を込めて動かそうとした。だが、びくともしない。

「カイルさん、この壁の隙間から、ほんの少しだけ、乾いた風が吹いてきています」

 リィナが、壁に耳を当てながら言った。

「この向こうには、空間があるはずです」

 二人は協力して、壁の周囲を調べた。そして、床の隅に、壁の石組みと同じ紋様が刻まれた、小さな円形の窪みを発見した。

「鍵穴か…」

 カイルは懐から奇妙な鍵のような部品を取り出した。

 それは、イリス逮捕後に再調査した際、カイルがガレスの執務室から密かに回収していたものだった。

 その部品を窪みにはめ込み、ゆっくりと回す。ゴゴゴゴ…と重々しい音を立てて、目の前の壁が、扉となって内側に開いていった。


 ◇


 扉の向こうの通路の先にあったのは、意外なほど簡素な隠れ家だった。

 粗末な寝台、いくつかの木箱、そして壁には、エレジア大陸の古地図が貼られていた。

 地図には、ガレスの領地を中心に、いくつかの場所に奇妙な印が付けられていた。

 その印は、カイルたちが見た廃村の位置と一致していた。

 テーブルの上には、古文書が散乱し、飲み干されたエールの瓶が転がっている。

 そして、その中央に、古びたランプが置かれていた。


 その瞬間、隠れ家の奥の暗がりから、鋼を擦る鋭い音が響いた。

 銀色の髪を揺らし、伝説の英雄、リアム・ブレイドが姿を現した。

 その目は、長年の孤独と警戒心で、狼のように鋭く光っていた。

「…ついに来たか。執政官の犬どもか、それとも、奴らの差し金か」

 リアムは、問答無用で腰の剣を抜いた。

 その剣は、月光のように青白い輝きを放っている。

「覚悟はできているんだろうな!」

 リアムは、床を蹴って一瞬で距離を詰め、カイルに襲いかかった。

 風を切る剣の音。

 それは、人の技とは思えぬほどの速度と重さだった。

 カイルは咄嗟に剣で受け止めるが、腕に激しい衝撃が走り、数歩後退させられる。

 金属がぶつかり合う甲高い音が、狭い隠れ家に響き渡り、火花が散る。

 リアムの剣は、まるで生きているかのように、変幻自在の軌道でカイルの死角を狙う。

 カイルは、士官学校で学んだ技術の全てを駆使し、必死に防御に徹する。

(速い…!そして、一撃が重い…!)

 カイルは、リアムの剣筋の中に、ただの敵意ではない、深い絶望と悲しみが込められているのを感じ取っていた。

「なぜ戦うのです!」リィナが、悲痛な声で叫んだ。

「私たちは、敵ではありません!」

 だが、その声はリアムには届かない。

 彼は、カイルの剣を弾き、がら空きになった胴体に蹴りを入れた。

 カイルは壁に叩きつけられ、激しく咳き込む。

 リアムは、容赦なく追撃の剣を振り下ろした。

 カイルはかろうじてそれを床に転がってかわすが、リアムの剣は、カイルの首元に突きつけられた。

「終わりか。その程度の実力で、何をしに来た」

 リアムは、冷たく言い放った。

 カイルは、床に手をついたまま、荒い息をつきながらリアムを睨みつけた。

 絶体絶命の状況。

 だが、彼の瞳から、光は消えていなかった。

「我々は…あなたの敵ではない…」カイルは、途切れ途切れに言った。

「ガレス・ストーンハートの…最後の伝言を預かっている」

 その言葉に、リアムの動きが初めて止まった。

 彼の目に、鋭い光が宿る。

「…何だと?」

「彼は、犯人の名前など示していなかった…!」

 カイルは、最後の力を振り絞って叫んだ。

「彼が血で残したメッセージは、こうだ!『計画は託す。竜を頼む。鍵は天球儀に』!」

 その言葉は、まるで雷鳴のように、リアムの心を打ち抜いた。

 彼の顔から、殺気と敵意が消え、驚愕と、そして深い動揺の色が浮かび上がる。

 彼が握りしめていた剣が、カラン、と音を立てて床に落ちた。

 英雄の仮面が剥がれ落ち、そこにいたのは、ただ友の死を嘆き、巨大な運命に一人で立ち向かおうとしていた、一人の男の姿だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ