第六話 地下水路の影
王都の巨大な門が、ゆっくりと背後で閉じていく。
カイルとリィナは、一度も振り返ることなく、東へと向かう街道を馬で駆けていた。
彼らの心にあるのは、故郷への郷愁ではない。
真実が待つ場所への焦燥感と、目に見えない敵への警戒心だった。
王都からの帰路は、行きとは全く異なる緊張感に満ちていた。
彼らが王都で嗅ぎ回っていたことは、すでに黒幕の耳にも入っているはずだ。
いつ、どこで、次なる刺客が襲ってきてもおかしくない。
二人は街道を避け、獣道や森の中を選んで進んだ。
夜は満足に眠らず、交代で短い仮眠を取り、常に周囲の気配に神経を尖らせていた。
ストーンハート領の境界を示す古い石碑が見えた時、二人は心の底から安堵のため息を漏らした。
だが、故郷の土を踏んでも、休んでいる暇はなかった。
領主館に戻った彼らは、執政官アルベリヒに王都での調査結果を簡潔に報告した。
リアム・ブレイドが領内に潜伏している可能性が高いこと、そして、彼が城の地下水路に関心を持っていたこと。
アルベリヒは顔色を変え、「分かった。町の警備は強化しておく。だが、これ以上は私の権限ではどうにもならん。くれぐれも、無茶はしてくれるなよ」と、カイルたちの単独行動を苦渋の表情で黙認した。
その報告は、ゲルハルト隊長の耳にも入った。
「まだあの若造はリアム卿を追うつもりか!執政官も、何を考えておられるのだ…」
彼は苦々しげに呟き、カイルたちへの不信感をさらに募らせていた。
◇
町の外れ、忘れられたように存在する裏路地。
かつて処刑場があったと噂されるその場所は、昼間でも薄暗く、不吉な空気が漂っていた。
王都で手に入れた古文書の写しと、執政官から渡された地図を頼りに、カイルとリィナは地下水路への入口を探していた。
「古文書には、『嘆きの壁の下、三番目の水路』とあるが…」
カイルは、苔むした石壁を睨みながら呟いた。壁には、いくつもの古い水路の排出口が並んでいるが、どれも鉄格子で固く閉ざされている。
「カイルさん、こっちの水路、少しだけ空気が動いている気がします」
リィナが、ある一つの排出口に手をかざしながら言った。
「それに、この鉄格子の周りだけ、苔の生え方が不自然です。最近、誰かが動かしたような…」
カイルはリィナが指し示した場所を注意深く観察した。
確かに、鉄格子を固定している石の一部に、新しい傷跡がある。
彼は鉄格子に手をかけ、力を込めた。びくともしない。
「何か仕掛けがあるはずだ」
彼は周辺の壁を丹念に調べ始めた。
そして、壁の石の一つが、わずかに他と色が違うことに気づく。
それを押し込むと、ゴゴゴ、と低い音を立てて、鉄格子が横にスライドした。
闇に包まれた、黴臭い穴が、二人を誘うように口を開けていた。
「行くぞ」
カイルは魔法のランタンに火を灯し、躊躇なくその闇へと足を踏み入れた。
リィナも、ごくりと息を呑んで、彼の後に続く。
地下水路の中は、彼らの想像を絶する世界だった。
絶え間なく響く不気味な水音。
鼻をつく黴と汚泥の匂い。
壁はぬるりとした苔で覆われ、足元は滑りやすく、一歩踏み出すごとに細心の注意が求められた。
ランタンの光が届く範囲は限られ、その光が生み出す揺らめく影が、まるで怪物のように壁の上を蠢いていた。
水路は、蟻の巣のように複雑に入り組んでいた。
地図と照らし合わせながら進むが、古い地図は不正確で、何度も行き止まりに突き当たった。
「待って」
ある分岐点で、カイルが進もうとした時、リィナが彼の腕を掴んだ。
「こっちの通路、水の流れが速すぎる気がします。それに、この水の匂い…鉄の匂いが混じっている。下流に、何か危険な仕掛けがあるのかもしれません」
水や土の変化に敏感な彼女の直感が、そう告げていた。
カイルは彼女の言葉を信じ、もう一方の道を選んだ。
しばらく進むと、彼らが避けようとした通路の先で、ガシャン!という金属音と共に、天井から巨大な刃がいくつも降りてくるのが見えた。
古代の罠だ。
もし彼女の言葉を無視して進んでいれば、今頃二人は肉塊になっていただろう。
「…助かった」
カイルは、短く礼を言い、自分の手のひらを見つめた。
自分の経験と論理だけを信じ、彼はこれまで生きてきた。
だが、今、目の前で起きたことは、彼の信条を根底から揺るがした。
(俺の論理と、彼女の直感。まるで光と影だ。だが、二つ揃って初めて、この闇を進めるのかもしれない)
彼はリィナの横顔を盗み見た。
ランタンの光に照らされた彼女の表情は真剣そのものだ。
もう、守るべき「記録係」ではない。
共に闇を切り拓く、対等な「相棒」。
カイルは、その事実を静かに、そして確かな重みをもって受け止めていた。
その後も、カイルの論理的な思考と、リィナの自然と共鳴するような直感が、二人を何度も窮地から救った。
数時間に及ぶ探索の末、彼らはついに地図が示す最終地点にたどり着いた。だが、そこにあったのは、冷たい石で行き止まりになった壁だけだった。
「そんな…、行き止まり?」
リィナが絶望的な声を上げる。
「いや、まだだ」
カイルは諦めていなかった。彼はランタンを高く掲げ、壁を注意深く観察した。
「この壁の石組み、一箇所だけ不自然だ。周囲の石と、積み方が違う」
彼はその石に手をかけ、力を込めて動かそうとした。だが、びくともしない。
「カイルさん、この壁の隙間から、ほんの少しだけ、乾いた風が吹いてきています」
リィナが、壁に耳を当てながら言った。
「この向こうには、空間があるはずです」
二人は協力して、壁の周囲を調べた。そして、床の隅に、壁の石組みと同じ紋様が刻まれた、小さな円形の窪みを発見した。
「鍵穴か…」
カイルは懐から奇妙な鍵のような部品を取り出した。
それは、イリス逮捕後に再調査した際、カイルがガレスの執務室から密かに回収していたものだった。
その部品を窪みにはめ込み、ゆっくりと回す。ゴゴゴゴ…と重々しい音を立てて、目の前の壁が、扉となって内側に開いていった。
◇
扉の向こうの通路の先にあったのは、意外なほど簡素な隠れ家だった。
粗末な寝台、いくつかの木箱、そして壁には、エレジア大陸の古地図が貼られていた。
地図には、ガレスの領地を中心に、いくつかの場所に奇妙な印が付けられていた。
その印は、カイルたちが見た廃村の位置と一致していた。
テーブルの上には、古文書が散乱し、飲み干されたエールの瓶が転がっている。
そして、その中央に、古びたランプが置かれていた。
その瞬間、隠れ家の奥の暗がりから、鋼を擦る鋭い音が響いた。
銀色の髪を揺らし、伝説の英雄、リアム・ブレイドが姿を現した。
その目は、長年の孤独と警戒心で、狼のように鋭く光っていた。
「…ついに来たか。執政官の犬どもか、それとも、奴らの差し金か」
リアムは、問答無用で腰の剣を抜いた。
その剣は、月光のように青白い輝きを放っている。
「覚悟はできているんだろうな!」
リアムは、床を蹴って一瞬で距離を詰め、カイルに襲いかかった。
風を切る剣の音。
それは、人の技とは思えぬほどの速度と重さだった。
カイルは咄嗟に剣で受け止めるが、腕に激しい衝撃が走り、数歩後退させられる。
金属がぶつかり合う甲高い音が、狭い隠れ家に響き渡り、火花が散る。
リアムの剣は、まるで生きているかのように、変幻自在の軌道でカイルの死角を狙う。
カイルは、士官学校で学んだ技術の全てを駆使し、必死に防御に徹する。
(速い…!そして、一撃が重い…!)
カイルは、リアムの剣筋の中に、ただの敵意ではない、深い絶望と悲しみが込められているのを感じ取っていた。
「なぜ戦うのです!」リィナが、悲痛な声で叫んだ。
「私たちは、敵ではありません!」
だが、その声はリアムには届かない。
彼は、カイルの剣を弾き、がら空きになった胴体に蹴りを入れた。
カイルは壁に叩きつけられ、激しく咳き込む。
リアムは、容赦なく追撃の剣を振り下ろした。
カイルはかろうじてそれを床に転がってかわすが、リアムの剣は、カイルの首元に突きつけられた。
「終わりか。その程度の実力で、何をしに来た」
リアムは、冷たく言い放った。
カイルは、床に手をついたまま、荒い息をつきながらリアムを睨みつけた。
絶体絶命の状況。
だが、彼の瞳から、光は消えていなかった。
「我々は…あなたの敵ではない…」カイルは、途切れ途切れに言った。
「ガレス・ストーンハートの…最後の伝言を預かっている」
その言葉に、リアムの動きが初めて止まった。
彼の目に、鋭い光が宿る。
「…何だと?」
「彼は、犯人の名前など示していなかった…!」
カイルは、最後の力を振り絞って叫んだ。
「彼が血で残したメッセージは、こうだ!『計画は託す。竜を頼む。鍵は天球儀に』!」
その言葉は、まるで雷鳴のように、リアムの心を打ち抜いた。
彼の顔から、殺気と敵意が消え、驚愕と、そして深い動揺の色が浮かび上がる。
彼が握りしめていた剣が、カラン、と音を立てて床に落ちた。
英雄の仮面が剥がれ落ち、そこにいたのは、ただ友の死を嘆き、巨大な運命に一人で立ち向かおうとしていた、一人の男の姿だった。