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竜殺しの英雄  作者: 神凪 浩
第一章 偽りの黎明
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第四話 血文字の真実

 事件は解決した。

 少なくとも、表向きは。

 私設秘書イリス・クレールによる、長年の虐待への復讐。

 動機も自白も、凶器さえも揃った。

 ストーンハート領に漂っていた不安と疑心暗鬼の空気は、犯人逮捕の報と共に、ひとまずの安堵へと変わっていった。

 ゲルハルト隊長をはじめとする治安維持部隊の面々は胸を撫で下ろし、執政官アルベリヒも、領地の秩序が保たれたことに安堵の吐息を漏らした。

 だが、真実の探求者たちにとって、それは仮初めの夜明けに過ぎなかった。


 捜査本部では、後片付けが進む中、重い沈黙がカイルとリィナを支配していた。

「カイルさん、本当にこれでいいんですか?」

 リィナは、イリスの供述調書を手に、耐えきれないといった様子で口火を切った。

「イリスさんはガレス様を刺したのかもしれません。でも、あの密室の謎が解けていません!彼女が逃げた後に、誰かが部屋に入って内側から鍵をかけたことになります。そんなこと、できるはずが…」

「今は、これでいい」カイルは、リィナの言葉を遮った。

 その声は、ひどく疲れていて、どこか自嘲的だった。

「領地は、ひとまず落ち着きを取り戻す。だが、君の言う通りだ。事件は終わっていない。犯人はイリス一人ではない。彼女を(そそのか)し、そして、あの不可解な密室を作り上げた『真の黒幕』がいる」

 彼の瞳の奥に、リィナは深い苦悩と、そしてより一層強くなった決意の色を見た。

 彼もまた、この結末を信じてはいないのだ。

 だが、今の彼には、この偽りの解決を覆すだけの決定的な証拠がなかった。

「だったら…」

「リィナ」カイルは、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。

「君の直感は正しいだろう。だが、我々には時間が必要だ。敵は、我々が『解決した』と思い、油断するのを待っているのかもしれない」

 その言葉は、捜査がまだ終わっていないことを、そして、ここからが本当の始まりであることを示唆していた。


 ◇


 諦めきれないリィナは、最後の望みをかけて、一人で再びエルフの森へと向かった。

 今回は、事件解決のためではない。

 「ただ、フィオラ様と話がしたい。この土地を蝕む病について」という、純粋な動機からだった。

 イリスを救うためにも、そしてこの故郷を救うためにも、真実を知らなければならない。

 その一心で、彼女は再び苔むした門の前に立った。


 門の前で、前回と同じエルフの戦士が、呆れたように、しかし少しだけ和らいだ表情で彼女を迎えた。

「また来たのか、人間の娘。お前も懲りないな」

 リィナは、事件のことには一切触れず、ただひたすら、門番のエルフに語りかけた。

「森を歩いていて、気づきました。この先の小川の水、以前はもっと底の石が見えるくらい澄んでいたはずです。でも今は、少し白く濁っています。水底の石の色が、なんだか鈍いんです。それに、この門の周りに生えている苔を見てください。健康な苔はもっと深い緑色をしているはずなのに、なんだか黄色がかっていませんか?これは、土の中の養分が足りていない証拠です」

 彼女は、父から教わった土の話、作物の話、そして森が畑に与える恵みの話を、一心不乱に続けた。

 その言葉には、何の計算も下心もなかった。

 ただ、故郷を愛し、その異変を心から憂う、一人の娘の魂の叫びだった。

 門番のエルフは、返す言葉を失い、ただ黙って彼女の話に聞き入っていた。

 その時だった。

「…そこまでだ」

 静かだが、凛とした声が、門の向こうから響いた。

 門番がはっとして振り返る。

「フィオラ様…」

 ギィ…と重い音を立てて、固く閉ざされていた門が、内側からゆっくりと開かれた。

 門の奥には、森の緑に溶け込むようなローブをまとった、一人のエルフの女性が立っていた。

 深い皺が刻まれた顔。

 だが、その瞳は、悠久の時を映す湖のように、どこまでも澄み切っていた。

 エルフの長老、フィオラだった。

「お前のその穢れなき瞳に、免じてやろう」

 フィオラは、リィナを真っ直ぐに見つめて言った。

「知りたければ、中へ入るがよい。だが、覚悟することだ。お前が踏み入れようとしているのは、世界の真実という名の、底なしの深淵なのだから」


 ◇


 リィナは、フィオラに導かれ、エルフの森のさらに奥深くへと足を踏み入れた。

 そこは、人間の誰もが足を踏み入れたことのない聖域だった。

 空気は澄み渡り、木々の葉の間から差し込む光は、まるで教会のステンドグラスのように神々しい。

 しかし、その美しさの中にも、確かに病の影は存在した。

 ところどころで木々は枯れ、地面には不気味な斑点を持つキノコが生えている。


 フィオラの住まいは、森で最も古い古代樹の巨大なうろの中にあった。

 中は意外なほど広く、壁には星図や薬草がびっしりと掛けられ、空気は古い木の香りと乾燥したハーブの匂いで満ちていた。

「さて、人間の娘よ」

 フィオラは、木製の椅子に腰を下ろし、リィナに問いかけた。

「お前は、この森がなぜ病んでいると思う?」

「それは…人間たちが、森を切り開いたり、川を汚したりしたからでは…」

「それもあろう。だが、それは小さな原因の一つに過ぎぬ」

 フィオラは、静かに首を振った。

「もっと根源的な『不均衡』が、この世界を蝕んでおるのだ。生命の循環が、どこかで断ち切られてしまったかのように…」

 フィオラは、リィナの瞳の奥を、悠久の時を映す湖のような目で見つめた。

「…お前のその力は、ただ土の声を聞くだけではないようじゃな。もっと根源的な…この星そのものの、魂の響きと、僅かに共鳴しておる。それは、祝福であると同時に、強すぎる力に心を食われかねない、危険な呪いでもある。そのことを、ゆめ忘れるでないぞ」

 その言葉は、リィナの心に重く響いた。

 リィナは、意を決して、懐からルーン文字の写しを取り出した。

「フィオラ様。ガレス様が残された、この文字について、何かご存知ではありませんか?」

 フィオラは、その羊皮紙を受け取ると、細い指で歪んだ文字をなぞった。彼女の澄み切った瞳が、かすかに悲しみの色で揺らぐ。

「…これは、悲しい文字だ。込められた力は強いが、その奥には深い絶望と、そして僅かな希望が見える」

 彼女はしばらく黙考した後、重々しく口を開いた。

「この文字は、古代の言葉だ。だが、その意味は歪められている。これは、二重の暗号。表面上の意味の裏に、真のメッセージが隠されている。この暗号を解く鍵は、我らエルフの知識ではない。それは、ガレスが心から信頼していた者との間にだけ通じる、共通の記憶、あるいは約束…。ガレスは、かつて友と、夜空の星々を見上げながら、未来を語り合ったと聞く。その時の、子供じみた言葉遊びが、この暗号の元になっておるやもしれぬ」

「ガレス様が、心から信頼していた者…星々の言葉遊び…」

 リィナの脳裏に、英雄譚で語られる、一人の男の名が稲妻のように閃いた。


 ◇


 その頃、カイルは捜査本部で一人、ガレスの日記と格闘していた。

 イリスの自白は、彼の中で何の解決にもなっていなかった。

 彼は、日記の中に頻繁に出てくるリアム・ブレイドの名に注目していた。

 そこには、英雄譚には描かれない、二人の友情の記録が生々しく記されていた。

「リアムと共に『勇者ごっこ』をした。俺は国王で、あいつは竜。くだらないが、楽しい一日だった」

「リアムと二人だけの言葉を作った。星の名を逆さから読んだり、特定の文字を置き換えたりする、子供じみた暗号だ。だが、それが我々の絆の証だった」

(子供じみた暗号…? まさか…)

 カイルの思考は、そこで行き詰まっていた。暗号の存在は分かっても、その具体的な法則が分からなければ、意味がない。

 そこへ、リィナが息を切らして駆け込んできた。

「カイルさん!分かりました!ルーン文字のことです!」

 彼女は、フィオラから得た情報を、興奮気味にカイルに報告した。

 「最も信頼した者」「星々の言葉遊び」というキーワードが、カイルが日記で見つけた記述と、パズルのピースがはまるように、ぴたりと一致した。

「これだ…!」

 カイルの声が、部屋の中に響き渡った。


 二人は、その夜、捜査本部で徹夜の作業を開始した。

 ガレスの日記にある「言葉遊び」の法則と、現場に残されたルーン文字を照らし合わせていく。

 文字を特定の数だけずらし、順番を入れ替える。

 星の名を示す部分を、逆さから読む。

 羊皮紙が、計算式や失敗した単語の羅列で埋め尽くされていく。

 時間は刻一刻と過ぎ、蝋燭が短くなるにつれて、焦りが二人の肩に重くのしかかる。

 試行錯誤を繰り返す。

 何度も失敗し、焦りが募る。


「ダメだ…意味が通じない…」

 カイルが、苛立ちにペンを投げ出した、その時だった。

「待ってください」

 リィナが、ルーン文字の写しをじっと見つめながら言った。

「フィオラ様は、この文字を『悲しい文字だ』と言っていました。もし、これがガレス様からリアム様への『手紙』だとしたら…。ただの情報の羅列じゃないとしたら…」

 その一言が、カイルに天啓を与えた。

(手紙…?そうか、これは単なる暗号文ではない。ガレスの『声』そのものなのだ…!論理だけでは解けない。彼の感情、癖、リアムへの呼びかけ…それらを含めて考えなければ…)

 彼は、解読の法則をもう一度見直し、そこにガレスの筆跡の癖や、リアムへの呼びかけの言葉を当てはめていった。

 そして、夜明け前の光が窓から差し込み始めた頃、これまで意味をなさなかった文字の羅列が、一つの、そしてあまりにも衝撃的な文章となって、彼らの眼前に浮かび上がった。


『計画は託す。竜を頼む。鍵は天球儀に』


「竜を…頼む…?」

 リィナは、信じられないというように、その言葉を繰り返した。

「ガレス様は、犯人の名前など示していなかった」

 カイルの声は、真実の重みに震えていた。

「これは、彼の同志であったリアム・ブレイドに宛てた、最後のメッセージだったんだ。そして、イリスの犯行は、この真実を隠すための陰謀の一部だった。彼女を(そそのか)し、ガレス様を殺させた真の黒幕がいる!」

 二人の視線が交錯する。英雄ガレス・ストーンハートの死は、単なる殺人事件ではなかった。その背後には、「竜」というキーワードを巡る、巨大な陰謀が隠されていたのだ。

「我々は…」カイルは、固い決意を込めて言った。

「一人の英雄が遺した、最後の希望を追いかけるしかない」


 捜査のコンパスは、今、新たな方向を指し示した。

 それは、行方不明の英雄、リアム・ブレイド。

 彼を見つけ出すことこそが、真実を暴く唯一の道だった。

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